第6話 雨と子犬と恋愛フラグ

「それほど時間が経っていないはずなんだけれどね。少し懐かしく感じてしまうよ。ここは」


 八百万の感慨を含んだ呟きに、俺は後ろで「だな」と同意する。


 屋上。


 今日の空は澄み渡る水色の中に、ふわふわな雲がちらほらと浮いている。


 八百万はそよ風に揺れる短めの髪を抑えながら、俺の方に振り向く。一瞬、普段髪で隠された右目がちらりと垣間見えた。


「ここで一緒に飯とか食ったら、いかにも友達っぽいよな」

「明日は一緒に食べようか。ここでね」


 言って、お互い複雑な表情を浮かべる。


「と、提案したのはいいものの。失恋した思い出のある場所で、友達とご飯か。おいしく食べられるか不安だね」

「おいしく食べられるはずだ」

「君はもう吹っ切れているのかい?」

「いや? でも、よく言うだろ? 人の不幸は蜜の味って」

「ボクの失恋でご飯三杯いけるなら、もう君は十分立ち直れてるよね」

「いやなこと忘れられるくらい、ここでいい思い出を作れば、いつかおいしくご飯も食べられるだろ」

「……そうだね」


 もくもくもく。

 突然、辺りが暗くなってきた。2人揃って、「おや?」と空を見上げると、先ほどまでの晴れ間が嘘のよう――びっしりと雨雲が空いっぱいに敷き詰められ、今にも降り出しそうである。


 ぽつり。


 そう思った直後、鼻先に冷たい雫が落ちる。次の瞬間には、「ざー」と音を立てて、大粒の雨が降り注いだ!


「な、なにこれえぇぇぇぇぇぇ!?」

「た、退避いぃぃぃぃぃ!」


 俺と八百万は同時に校舎へ戻る。屋上へ続く階段の踊り場まで退避したものの、ノーガードで雨に晒された制服は、すっかりびしょびしょだ。


「おい、大丈夫……か?」


 八百万の安否を確認しようと目を向けると、そこには俺と同じくびしょ濡れの美少女がいた。


「うわぁ……中までびしょびしょだよぅ」


 八百万は「うへぇ」と顔を歪ませる。だが、そんなことはどうでもよい。今まさに、現在進行形で大事件が起こっている。


 事件の現場は、八百万の胸元。ブレザーの間から見えるブラウスが、すっかりすけすけの丸見えとなっていた。ブラウス越しにうっすら見えるのは、水色の布地――。


「おい、八百万」

「うん? なんだい?」

「下着、透けてるぞ」

「……」


 八百万は半眼を作ったのち、おもむろに両腕を交差するようにして胸元を隠した。その顔は、少しだけ赤みを帯びているように見える。


「ライン越えです」

「いや、これは不可抗力じゃね?」

「たしかにその通りだね」

「話が分かるな」

「でも、見られて恥ずかしいというボクの気持ちは、どう昇華すればいいんだい?」

「ツンデレヒロインだったら、殴る蹴るなどの暴力行為に及ぶところだな」


 八百万は、「それを実行してもいいのかい?」と笑顔で拳を握る。俺は「ふっ」と笑みを浮かべて、両手を広げた。


「どうぞ」

「なんで甘んじて殴られようとしてるわけ?」

「正直、八百万のすけブラを見て興奮してしまいました」


 これはライン越えですよね?

 というわけで、どうぞお殴りになってくださいと、俺は目を瞑る。彼女は「分かった」と言って――。


「あいたっ」


 俺の額にこつんと、小石を当てられた程度の痛みが響く。目を開けると、八百万が「ふふ」と悪戯が成功した子供みたいな顔で笑っていた。


「はい、これが100円分の罰ね」


 デコピンは100円相当らしい。


 ライン越えの罰を受けた俺は、「そうだ」と言って口を開く。忘れていたことがあったのを思い出した。


「どうかしたのかい?」

「お礼を言ってなかったな」

「え、なんの?」

「ありがとうございました」

「え、だからなんの?」

「すけブラを見せてもらったお礼」

「意図して見せたわけじゃないよ。あとこっち見ないでくれないかい? えっち」


 八百万は再び頬を朱色の染めて、唇を尖らせる。俺は彼女に「悪い」と謝罪を述べて、話題を変えることに。


「とりあえず、教室に戻らないか? 鞄にタオルがあるからさ。体を拭こう。このままじゃ風邪引くぜ」

「あ、そうだね。ボクもジャージがあるから着替えようかな……?」


 俺たちは並んで、2階の教室を目指す。その間、特に会話はなかった。


「「……」」


 ただ、不思議と気まずくないと思った。今が一番ちょうどいい距離感――そんな気がする。


 2組の表札を見て、教室に入る。すぐに自分の鞄からタオルを引っ張り出して、八百万に投げた。彼女は「おっと」と、反射的にタオルを受け取る。


「先、使えよ。俺が使った後じゃ、使いたくないだろ?」

「ふむ」


 八百万はしばらくタオルと俺を交互に見て、ため息をひとつ。続けて、「やれやれ」と言いながら、俺の背後に回ったかと思えば、ふわりと無重力感――。


 気づいた時には、俺は膝から崩れ落ちていた。


「うおっ!?」

「そういう気遣いはさ? 友達には不要だよ?」


 床に膝をついて上を向く俺に、八百万は背後からしたり顔で見下ろす。


 どうやら膝かっくんされたらしい。小学生以来だ。


 八百万は、ちょうどいい高さになった俺の頭に、すかさずタオルを被せる。そして、「わしゃわしゃー」と乱暴にタオルで拭く。


「お、おい……急に危ないだろ? 膝かっくんは、よい子が真似しちゃいけいないんだからな?」

「ごめんごめん。でも、君の方が背が高いしさ。こうしないと、君の頭を拭いてあげられないだろう?」

「別に自分で拭けるっての」

「ボクが拭いてあげたかったんだ」


 そう言って、八百万は微笑む。俺はそれを見て、目をぱちくりさせる。


「今のライン越えじゃね?」

「え、どこら辺が?」

「そんなに優しくしてくれるってことは、俺のことが好きになって――」

「男の子って単純だよね。女の子の一挙手一投足を見て、自分に好意があるのかもしれないって勘違いするんだもん。あーやだやだ」

「……」


 とりあえず、俺に恋愛感情を抱いていないことだけは理解した。ちょっと恥ずかしい思いさせられた。


 俺は意趣返しのつもりで、八百万からタオルをひったくり、代わりに俺が八百万の髪を頭をわしゃわしゃする。


「わっ」

「ほら、今度はあんたの番だぞ」

「や、優しくしてくれよ? 髪が傷んでしまうから」

「よし、分かった」

「こらこら! 優しくと言っただろう!?」

「ごめん、わざと」

「ぐー出そう」

「じゃあ、ぱー出すわ」

「負けた」


 八百万は「他の女の子にしたら絶対ダメだからね?」と言いながら、俺の体に背中を預けてきた。


「髪は女の命って言うもんな」

「そうだよー。だから、絶対さっきみたいなことしちゃダメだからね? 分かった?」

「悪かった。もう絶対しない」

「うん……君は素直でいい子だねぇ」

「……」

「……」


 うん。この距離感。

 ちょうどいい。


 あらかた体を拭いた後、お互い濡れた制服からジャージに着替える。もちろん、着替えは別々だった。


 俺は昇降口のところにある置き傘を、八百万は持参していた折り畳み傘を持って、一緒に帰路を歩く。


「君、電車通学なんだっけ」

「まあな。八百万は?」

「ボクは歩いて15分くらいかな?」

「いいなぁ近くて……」

「わざわざ電車通学を選択したのは君だろう?」

「だって、屋上が解放されてる一番近い学校が、ここくらいしかないんだもん」

「それが志望理由なんだ……」


 屋上での青春。これだけは譲ることができなかった。


「それじゃあ、ボクはこっちだから」

「おう。じゃあな」

「うん。また明日」


 八百万は住宅街へ、俺は駅の方へ向かうため途中で別れる。先ほどまで隣にいた女の子がいなくなり、わずかながら寂しさを感じる。


「これが友達……なのかねぇ」


 1年の頃は、想い人である先輩のことばかり考えていた。今はどうだろう。明日からの新しい高校生活に思いを馳せている。


「恋愛だけが青春じゃねぇよな」


 改めて俺はもう絶対恋愛なんてしない。

 そう心に誓った。


・・・。

・・・・・・。


「にゃーにゃー」

「うん?」


 ふと、猫の鳴き声(?)が聞こえてきた。反射的に振り向くと、雨の中で傘も差さず、道端に座り込む1人の女の子が。


 彼女の前には段ボールが置かれ、中で1匹の子犬が、雨の寒さに打ち震えている。そんな子犬に、女の子は「にゃーにゃー」となぜか猫語で語りかけている。


「いや、なんで猫……?」


 思わず口からツッコミが出る。はっとした時にはもう遅い。今のツッコミが聞こえたのか、女の子が金糸の髪を揺らしてこちらへ振り向いた。


 そして、彼女の金眼が俺を射抜いた。

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