Shampoo

森野羊

shampoo

朝ごはんを食べていると、点けっぱなしのテレビから懐かしい単語が聞こえた。咀嚼しながら顔を上げる。よく見ると、小学生の時に流行ったシャンプーが復刻した、という化粧品会社のCMだった。

流行りの女優の髪が爽やかに風にたなびく。香りは三種類。フローラルローズ、クラシカルサボン、ハッピーレモネード。ボトルは当時より細長くくすみ系の色に変わり、中身もシリコンフリーにリニューアルされたらしい。

期間限定発売、とは謳っているものの、売れ行きが良ければ季節商品か、レギュラー化されるかもしれない。だって昔はあんなに流行ったのだから。いつの間にか他の商品に押されて見なくなったけど、覚えている人はきっと多い。

私はなんとなく頭に入れて、食べ終えた食器を流しに置いて洗面台に向かった。口を一度ゆすいで歯を磨く。曇りのない鏡には、化粧っ気のない人畜無害そうな私がこちらを見ていた。

当時、あのシャンプーは爆発的な人気を誇っていた。雑誌でもよく取り上げられ、CMもよく目にした。シリーズでコロンも発売され、ドラッグストアに行くとよくテスターを手首に吹きかけたものだ。

子供ながらに、いい香りに包まれると大人に近付いた気がして高揚した。家に帰って手を洗うのが惜しかった。買おうと思えばお小遣いで買うこともできた。だけど私はそうしなかった。本当はそうしたかったけど、できなかった。そうして密かに憧れているうちに、シャンプーもコロンも、いつの間にか売り場から消えていた。

口をゆすいでタオルで拭く。髪の乱れをワックスで軽く整える。狭いキッチンに戻ってガスの確認をし、教科書の入ったトートバッグを肩にかけて玄関に向かう。

今日は一コマ目から講義があった。代返が効かず遅刻に厳しい教授なので、一分でも遅れるわけにいかない。私は行ってきます、と誰もいない部屋に向かって小さく声を出し、かちゃんと部屋に鍵をかけた。


駅からは遠いが大学に近いこの部屋は、学生街にあるおかげで安く借りることができた。実家にも自分の部屋はあったが、小さい頃から使っていたものが多く、なかなか思い通りに変えられなかった。一人暮らしをしたら好きなようにレイアウトしようと意気込んだものの、それは思ったよりも難しいことだと、入学してわりとすぐに気が付いた。

大学に入ったら自分らしくいられると思っていた。田舎で、小学校も中学校も高校も、ほとんどエスカレーター式で知り合いだらけで、なかなか自分を出すことができなかったから。窮屈だった地元からわざと遠い大学を選んで、必死で勉強して無事合格通知を受け取った。

だけどそうそう人は変われない。私はなかなか馴染めずに、一年生の後期過程をもうすぐ終えようとしている。


必修の、だけど眠気を誘う退屈な講義を受けながら、私は今朝のシャンプーのCMを思い出していた。正確には、シャンプーの流行った小学生時代を、だけれど。

あのシャンプーは私の通う小学校でももちろん流行った。手を出しやすい値段だったのもあると思う。女子の間ではどの香りが一番好きかで派閥ができたりした。教室にいるみんなの間を通り抜けると、ふわりと漂ういい香りはまさしくそれだった。あのシャンプーいいよ。さらさらになるよ。ツヤも出るよ。みんなが口々にそう言った。

小学校の高学年にもなれば、化粧品にも興味が出てくる年頃だ。可愛いパッケージのリップクリームに、さらりと塗り上がるハンドクリーム。ニキビ対策に洗顔料や化粧水を、見よう見まねで選び始めたのもこの頃だ。

だからあのシャンプーが話題に上るのも当たり前で、ここまで流行ると一度くらい私も使ってみたいと興味が湧いた。だけどあれは香りが目立つ。使えば使ったことが即みんなにバレてしまう。それは私の恐怖だった。

地味で真面目、目立たなくて大人しい子。それが当時の私だった。スクールカースト上位の彼女たちからは絶対に目を付けられたくなかった。ちょっとした変化でも、彼女たちは目ざとく見つけておもしろおかしく変換する。

以前、前髪の分け目を変えただけで好きな子ができたのかと聞かれたことがあった。たったそれだけのことがあっという間に広がり、誰それくんを好きだとか、だから最近よく話してるんだとか、根も葉もない噂が一人歩きした。

結局、私がいくら否定しても彼女たちによって作り上げられた噂話は誤解されたまま学年のほとんどに事実として認識され、私はおおいに傷付いた。あんなことはもうこりごりだ。私は小学校どころか高校を卒業するまで、地味で大人しい無難な子を演じることになった。好きなものを好きだと言えないのは、自分を殺すことも同じだと思いながら。

大学に入ったら、好きなように生きようと思っていた。けれど引っ込み思案な性格はもともとだし、いきなり明るく社交的になんてなれるわけがない。

メイクの仕方なんて分からなかったし、制服で過ごすことが多かったせいで私服をコーディネートするのも一苦労だ。せっかく一から考えたワンルームの部屋もなんとなく垢抜けないし、結果、今でも「無難」を選び続けている。

私は大学でも地味で目立たず、大人しい子、で通っている。周りはみんなお洒落で社交的で、彼氏ができたり彼女ができたり、飲み会では盛んに乾杯を繰り返して、きらきら輝いて見えるのに。


大学の帰り道、私はアパート近くのドラッグストアに寄った。目的はもちろんあのシャンプーだ。店の奥には、確かにあの復刻されたボトルが並んでいた。カラフルなポップ付きで「期間限定!」と強調されている。

このシャンプーを使っても、もう私の周りには変な噂を立てる同級生はいない。スクールカーストなんてものも大学には存在しない。私は自由だ。なのに、それを手にするのがためらわれるのはどうしてだろう。

「城山さんもこれ買うの?」

私を呼ぶ声にどきりとして振り返ると、私を見ていたのは同じ学科で学ぶ絢瀬さんだった。

絢瀬さんは明るくて可愛くて親切だ。みんなからは「あや」って呼ばれてる。いつも人の輪の中にいて、人当たりも良くて。私も、孤立しかけたグループワークで何度もお世話になった。誰にでも分け隔てなく接するし、この前は道に迷ったらしいおばあさんと、楽しそうに会話しながら案内するところを目撃したばかりだ。

一方、私は同級生からも「さん」付けで呼ばれている。誰だったか、悪気なく「城山さんって、ちゃんっていうより、さんって感じだよね」と私に言った。つまり、それだけ真面目に見えて、取っ付きにくいってことだろう。

「う、うん……今朝、CMで見て」

「私も!昔流行ったなあって、いてもたってもいられなくて」

屈託なく笑う彼女は眩しかった。たぶん学年で一、二を争うくらいにこの人は可愛い。素質の良さもあると思うけど、明るい色でゆるく巻いた髪とか、ポイントを押さえたメイクとか、シンプルなチェスターコートの下にある黒の小花柄のワンピースだって、可憐な彼女にすごくよく似合っている。

彼女はきっと日なたを歩いてきた人間だ。私みたいに影にならずに、キラキラした青春時代を送ってきたに違いない。

「私、これを使うのが夢だったんだ」

「え」

彼女の思いがけない発言に私は聞き返した。

「私、地味だったから。こういうの使うと目立つし」

「絢瀬さんが地味!?」

思わず叫んでしまってから、は、と口元を抑えた。

「ご、ごめん。でも、絢瀬さんって可愛いから」

「そう?ありがと!でも私、高校までは地味だったよ」

見る?そう言って彼女はスマホを取り出した。するすると慣れたように操作して、やがて見つけた画面を私に差し出した。

「これ、私」

彼女が指さしたのは、眼鏡の、黒髪を後ろで一つに束ねて、真面目にきっちりと紺色の制服をまとった、よく見れば絢瀬さんに見えなくもない――正直、暗い感じの女の子だった。

「びっくりでしょ?私、いわゆる大学デビューしたんだよね」

彼女は恥ずかしそうに笑った。

「私、引っ込み思案だったから。なにか目立つことすると噂になるし、そういうのが嫌でこの大学来たんだ。ここなら知り合いもいないし、何をしようと自由だから」

そう言った彼女の瞳は澄んでいて強かった。

「メイクとかファッションとか高校のうちにこっそり勉強して、大学入ったら実践しようって決めてたんだ。だから、いますっごく楽しいよ!」

明るく笑った彼女は輝いていた。驚いた。こんなに人って変われるんだ。彼女の輝きは内面から滲み出ていたんだ。彼女の眩むような明るさは、努力に裏付けされたものだったなんて。

「……すごいね」

眩しい彼女を称賛すると同時に、暗澹たる気持ちが渦巻いた。彼女は努力をしたんだ。自分は変われると信じて、誰もが認める可愛さと人望を手に入れた。じゃあ私はどうだろう。彼女が努力をしている間、何してた?

私が次第に俯いていくのを彼女は知らない。どれにしようかな、と楽しそうに目を左右に動かしている。

「でもこういうの、城山さんも似合いそうだよね」

「……え?」

私は顔を上げた。

「だって城山さん、可愛いし」

「どこが!?」

私は再び叫んだ。私が?可愛い?絢瀬さんは誰かと勘違いしてるんじゃないだろうか。

「服の着回し上手だし、メイクしなくても整った顔立ちしてるし、いつも使ってるペンとかスマホケースとか可愛いし、そういうの選ぶの上手だなあってずっと思ってた」

褒めちぎられて思わず顔が赤くなる。どうしよう。こんなこと、一度だって言われたことがない。

「私はセンスの良い城山さんが羨ましい!」

絢瀬さんは言い切ると口を尖らせた。彼女の言ったように自分を肯定的に捉えたことなんて今までなかった。学年でいちばん可愛い彼女に、可愛いと言ってもらえる。私、騙されてない?いや、彼女の裏表のない性格は分かってる。まさかじゃあ、本当に。

「私にはどれが合うと思う?この際、城山さんが決めてよ」

絢瀬さんは笑っている。私は戸惑いながらも、目の前に並ぶボトルに目を移した。フローラルローズ、クラシカルサボン、ハッピーレモネード。この中でいちばん彼女に似合いそうなのは――。

「フローラルローズ、かな」

華やかな彼女にぴったりだと思った。明るさを抑えた、ピンク色のボトル。強くて、かっこよくて、とびきり可愛い彼女には、この香りがきっと似合うと心から思った。

「分かった。じゃあ、これ買うね」

彼女は手前のボトルを一本手に取り、持っていたかごに大事そうに入れた。

「城山さんはどれにするの?」

「えーと、私は――……」

昔、いちばん好きだった香りを私は指さした。テスターを彼女は鼻に持っていく。うん、似合うね!と、彼女はまた屈託なく笑顔を向けた。



◇終◇

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