イカロスの翼

時燈 梶悟

イカロスの翼

 いつからなんて分からない。

 けれどたしかに生きたくない。

 死にたいわけではないけれど、明日が怖くて仕方がない。

 朝日なんて昇らなければとどれだけそう願っていても、神様は、私のことなんて見てもいないんでしょう?




 昼下がりの公園。私は景観保全のためだけに並ぶ木々の下に設置されたベンチに腰掛けていた。

 座面が木製の、硬くて長時間座るにはどうしても向かないベンチ。

 夏も終わり、色付きはじめた木々を眺めながら、私は鳥たちのさえずりを聞いていた。

 するとふと、私は小さな頃の夢を思い出した。

 「空を飛びたい」なんていう、バカみたいな夢。

 けれど少なくとも、今抱いている「独り立ちする」という夢よりは、幾分もマシに思えた。

 年を取れば取るほど、夢ではなく現実を見なければならなくなる。

 夢を見続けられる人というのは、才能に恵まれた人か、あるいは現実を見ようともしない愚か者かの2択だろう。


 私はできれば後者でありたかった。

 世の中のことなんて何も気にせずに、好きなことだけをして生きていたかった。

 こんな時間に公園でこんな物思いに耽っている自分が嫌になって、自然とため息がこぼれた。

 『ため息をつくと幸せが逃げる』なんてことが言われ続けているけれど、自分の中にある蟠りだとか、言いようのない不満とか。そういうものが全て精算できるようで、私は未だにこの癖が治せそうにない。


 いつも吐き出していた溜め息は、どれも似たようなものばかりだったけれど、まるで自分が空っぽになるようで、私はその感覚が好きだった。

 吐いて、吐いて、吐き出して。

 自分の中身が何にもなくなるまでそれを続けて。私が辿り着いたのは、こうしてうざったいくらいに眩しい太陽に照らされながら、それでもどうにか日陰に潜ろうとする人生だった。

かつては私も、太陽に触れてみたいと思ったのだ。

 けれど私は、蝋で作られた翼を溶かすほど愚かではなかった。今になってみればその選択は、賢いものではなかったのかもしれないが。


 いっそ誰にも期待されなければ、何もしなくてよかったの?

 そんなはずはないでしょう?

 だって私たちは、どうしようもなく、生に囚われる。

 自分の存在価値を探して、意地汚くも生にしがみつく。


 「こんな人生に、意味なんてあるのかなぁ」

 「なんですか辛気臭いですね」


 驚いたことに、自分しかいないと思って呟いたその声は、しかし1人の人間に聞かれてしまったらしい。

 そして私はその声の主を確認してまた驚いた。

 声質からして、私はてっきり中年の方に声をかけられたのだと思っていたのだ。

 しわがれたような、酒焼けしたような、そんな声。


 だから振り返ってみて、私はつい声を上げてしまった。

 そこには後ろ毛を肩まで伸ばし、前髪は眉毛の上で誤差なく切りそろえられたウルフカットの女子高生が立っていたのだ。

 ちなみになぜ高校生だと断定できたのかといえば、それは彼女が制服を身にまとっていたからだ。


 「人の顔みてそんな声出さないでくださいよ酷いな」

 「や、ごめん.......なさい」


 彼女の奏でるハスキーボイスに気圧され、全く意図せずに敬語になってしまう。

 それに彼女はなまじ身長がある分妙に高圧的に感じてしまうのだ。


 「なんで敬語なんですか?あなたの方が歳上でしょうオバサン」

 「オバッ......!?まだそんな歳じゃないわよ!」

 「はぁー、たまにいるんだよねー。時間の流れが受け入れられない人。悲しくないんですか?そういうの」

 「だっから私はまだ25歳なのオバサンじゃないの!」


 すると彼女は不思議そうに首を傾げ衝撃の一言を放つ。

 「25ってオバサンじゃないんですか?」


 私は普段温厚だし、何よりもこの世の中に何も期待すらしていないから取り立てて感情を表に出すことは少ないのだけれど、それはそれとして、今この瞬間、私は信じられないほどの怒りを抱いていた。

 だいたい、初対面でオバサン呼ばわりされること自体がおかしいのだ。


 「ちがうよ!あと、君もいつかは25歳になるんだからね!?ちゃんと分かってる!?」

 私がそういうと、彼女はなぜか遠い目をしながら独り言のように呟いた。

 「いつかは.......ね」


 そうして動かなくなってしまい、心配になり彼女の目元を覗き込むと、彼女は急に意識を取り戻しこちらにぐいっと顔を近づけてきた。


 「おねーさん、名前なんて言うんですか?」


 私はこのとき、名前を訊ねられた理由よりも自身に対する呼び方が変わったことへの感動の方が大きかった。

 「私は、神崎 ルミ。あなたは?」

 「私は​────ミレイ」

 「素敵な名前ね。羨ましいわ」


 私がそう返すと、ミレイはニヤリと笑う。

 ミレイは何も言わず私の隣で肩に掛けていたバッグからスケッチブックを取り出しながら私の左隣に空いていたスペースに座る。

 私はそれを見てなんだか嬉しいような、息苦しいような、そんな感覚を覚えた。

 私にとって、栄光であり──呪いでもあるそれ。


 「あら、人物画でも書くの?」

 私の何気ない問いかけにミレイは短く息を漏らすと、イタズラをする前の子供のような笑みを浮かべた。

 「いいえ、生憎。私は風景画が得意なんです」

 「そうなんだ。見せてもらっても?」

 「いいですよ。面白いものではないですが」


 そういってミレイはスケッチブックを差し出してくる。

 私はそれを受け取り、一番最初のページを見たとき。

 私は、そのスケッチブックを開いたことを後悔した。

 そこには、河川敷の風景があった。

 絵ではなく、そのものが。


 私はその絵の中にいて、風が吹き、草木の匂いに包まれ、太陽光に照らされているような錯覚に陥る。

 いや、本当は錯覚ではないのかもしれない。

白と黒のみで描かれたそれに、私は自然と色を感じた。

 陰のみしか見えなかったはずのそれに、私は温かみを連想した。

 驚くほど鮮明に、繊細に描かれていながらも、無駄なものを感じさせない風景画。

 私は、スケッチブックを開いたそのままの姿勢で、何も言えず固まってしまった。


 「どうしました?」

 そんな私の様子を見兼ねたミレイが不思議そうに問いかけてくる。

 「いや、なんでもないの。ただ、吸い込まれてただけ」

 「ふふっ、嬉しいです」

 「進路はやっぱり美大に?」


 当然、そうするのだろうとも思ったし、そうするべきだと思った。

 だからミレイの返答に、私は不意を打たれる形になった。


 「今のところ、そのつもりはありません」

 「そうなの?もったいない」

 「もったいない.......ですか?」


 一気に、彼女の纏う空気が冷たく、重くなったような気がした。


 「こんなに才能があるのに、それを諦めてしまうなんて」

 「.......才能だけで、生き残れる世界ではありませんよ」


 私はその言葉を聞いて一気に目を見開いた。

 かつて私が、何よりも渇望したもの。

 かつて私が、何よりも追い求めていたもの。

 けれど世界は、それだけでは認めてはくれないのだ。


 「えぇ。本当にそう。熱意だけではだめなのよね」

 「ルミさんも、なにか?」

 私は、ミレイの質問に、俯きがちにため息をこぼしながら答える。


 「馬鹿な話よ。過信、盲信、慢心......。私も昔、描いてたの。風景画。高校で美術部に入って、中でも1番上手いなんて持て囃されて。調子に乗って、大した覚悟も野望もないのに中途半端に美大に行って。親の反対を振り切ってまで進学した美大で周りとの才能の違いを見せつけられて、絵を描くことさえ嫌になって。でももう引けなくて、必死になって、描いて描いて描き続けて。なんの実りもないまま無為に4年がすぎた。それでもまだ諦めきれなくて、就活もしないままフリーのイラストレーターとして活動を始めた。けれどなんの仕事もなくて、気がつけば25で、こんな生活してて。ほんっ.......とうに嫌になる。一体どこで間違えたんだろうって、何度問いかけても分からないの。私は何がしたかったんだろうって、何をするべきだったんだろうって」


 才能なんてものは嫌い。

 生まれながらに差を生むんだから。

 努力なんてものは嫌い。

 報われるとは限らないんだから。

 理想なんてものは嫌い。

 叶うわけがないんだから。


 「ルミさんは、絵は嫌いですか?」

 私の、青春全てをかけたもの。人生の半分を占めているもの。

 言わば私の半身を、私は、愛しているのだろうか?

 心から、受け入れることができるのだろうか?

 それはまだ分からないけれど、少なくとも目の前の河川敷を見て、私はまた芸術に魅入られつつある。


 でも、それでも。今までの葛藤や思いや不満が、全て解消されているわけではないのも事実だ。


 「私は、才能が嫌いだった。憎くて憎くて仕方がなかった。私が持っていないものを持っているくせに、それだけじゃ満足しない人が嫌いだった。何も持っていない人間の前で、なぜ持っていながら多くを望めるのかと、本気で疑問だった。努力すればするだけ伸びていく周りの人が──心底、羨ましかった」


 私のその言葉にミレイはおかしそうに笑うと、彼女にはため息にも似た息継ぎをして話し始める。


 「私も、才能は嫌いです。それだけあれば全てが上手くいくなんて思われているようで。才能の一言で片付けてくる人が嫌いです。けれどそれは、仕方のないことだと思うんです。どうしても、他人に羨望してしまうことは」

 「私はたぶん、才能があったとしてもこうして不平を垂れていたと思う。だって、そんなに思い期待を、私は背負いきれないもの。どうせいつかは投げ捨ててしまっていたと思う」


 責任は、負いたくないから。

 できるだけ気楽に、そうして生きていたいから。

 だから私は、才能を欲しながらも、それを本当に手に入れることを恐れていた。

 恐らく私の中での才能は、半ば夢に近いものだったのだろう。

 『才能のある人間になりたい』という夢。


 「あなたは、小さい頃の夢はなんだった?」

 私の突拍子も脈略もない質問に、ミレイはひどく困惑しているようだった。

 けれど私の確固たる口調を前に、真剣に悩み込む。


 「私ですか?なんだったかなぁ.......。たしか魚になりたい、とかでしたよ」

 あまりにも彼女に不釣り合いなその夢に、私はつい吹き出してしまった。

 「なにそれ、変なの。私はね、空が飛びたい」

 「おかしいですよね、叶うはずもないのに」


 そう。叶うはずがなかったんだ。どんな夢も、どんな理想も。

 でも、それでよかったんだ。

 「だって、だからこそ『夢』なんでしょう?」


 だから『現実』ではないんでしょう。あくまでも理想なんでしょう。

 まるで自分に言い聞かせるように、言葉を紡いでいく。

 私はそういった理想は嫌いだ。掲げる掲げて、それを実際に実現出来る人なんてほんのひと握りなんだから。

 でも、夢は好きだ。努力をしなくても誰だって語れるんだから。

 好きなことを言っていいんだから。

 そういう無責任さが、私には気楽で好きだ。


 「叶う必要もないんですかね、夢なんてものは」

 「それはそうでしょう。叶ってしまったら怖いだけよ」

 「でもたぶん、私は私じゃないものになりたかったんでしょうね」

 「何の話?」

 「魚のことですよ。私、昔から運動はからっきしだったんです。特に泳ぎなんかが」


 だから自在に泳げるようになりたかったと。


 「でもそれって、その他の全てを投げ打ってでも叶えたいと思うものなの?」

 「もちろんですよ。でも、それができないから夢で終わるんです」

 

 なるほど、それも1つの真理かもしれない。叶えられてしまった夢は、ただ1つの現実に成り下がる。

 だから私は、未だ芸術に夢を見てしまうのだろう。

 けれど、それを醜いことだとは思わない。

 夢を語ることができるのは、最後まで自分を盲信し続けることができる愚か者だけなのだから。

 だったら私は、自ら進んで愚か者になろうじゃないか。

 好きなように、好きなことをして生きればいい。

 何も恥じることはない。今までも、これからも、全てを含めてそれが私だ。



 いつからなんて分からない。

 けれどたしかに生きたくない。

 死にたいわけではないけれど、明日が怖くて仕方がない。

 朝日なんて昇らなければとどれだけそう願っていても、神様は、私のことなんて見てもいないんでしょう?

 だったら私は、何も気にせず好きに生きよう。

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