第57話
「手ぇ出してみて」
私が素直に右手を差し出すと、お兄さんはそのチューブからクリームを少し出して私の右手の甲に乗せた。
私はすぐにそのクリームを左手の甲で薄く伸ばした。
「薔薇の香りするよ」
右手に鼻を近付ければ、すぐにその匂いが私の鼻の奥まで届いた。
「本当だ。いい匂いする」
「これ実物の薔薇の匂いに限りなく近いよ」
お兄さんは自分の手の甲にも同じようにクリームを絞り出していた。
「…てか俺、どんだけ花が好きなんだよって感じだよね」
そう言って笑ったお兄さんにつられるように、私も思わず笑った。
ここは不思議な場所だ。
なんだか自分が自分じゃないみたい。
だから、ここにいる時間は本当に楽しい。
「じゃあ俺は中で片付けしてるから」
「分かった。帰る時声かけるね」
「うん」
お兄さんは返事をするとすぐに店の中に入って行った。
別に帰る時に声なんてかける必要もないんだけど、でもそんな会話に違和感なんて感じないくらいに私達は仲良くなっていた。
それからあっという間に七時になって、店の閉店とともに私はお兄さんに別れを告げて家の方へ歩き始めた。
帰る時は声をかけるとか言いながら、結局閉店まで居座っちゃったな…
真冬のせいで、まだ七時なのに路地裏はもう真っ暗だった。
それに加えてすごく寒い。
私の楽しい時間は一瞬で終わってしまった。
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