第96話

それからしばらくして、私はバイトに向かう時間になり席を立った。



「じゃあ私もうバイト行くね!」


「お前それで行くのかよ」


ナツメがそう言うのも無理はない。



マコちゃんの家を出たあの日から私は、今も変わらずこのTシャツとスウェットのショーパンにサンダルだ。


こんな真夏にずっと同じ服を着て洗濯もしていないんだから、どこからどうみたってこれは汚いしたぶん匂いもそれなりに臭かったと思う。


おまけにこれでさっきまで爆睡をかましていたからシワもすごいことになっているけれど、今の私にそれを恥ずかしいと思う余裕はなかった。


…ていうか、今というよりだいぶ前からもうこの格好で繁華街を歩くことに抵抗なんて全くなかった。



今はむしろ気が楽だよ。


一時的なものとはいえ、住む場所を得られたことでこの先の不安が少しは和らいだんだから。



「今はこれしかないの。帰りに買い足すから文句言わないでよ」


「ついでに下着も買ってこい。お前が今つけてんのきったねぇから」


「うるさい!!」


私が割と本気で怒ってそう言うと、ナツメは肩を揺らして笑っていた。


そんなナツメにも腹が立った私はそのまま店を出ようと細く短い通路の方へ向かったけれど、




「———…カヤ、」




その直前に名前を呼ばれて私はすぐにそちらを振り返った。



「お前あの約束忘れんなよ?」


「約束?」


「ここに来た奴とは誰とも口きくなってやつ」



“条件”が“約束”に変わったのはどうしてだろう。


もちろん内容は変わっていないんだからその表現の仕方が変わったところで特に何がどうなるわけでもないのだけれど、私達の間にあると思った服従関係はより一層和らいだ気がした。



「うんっ!分かった!行ってきます!」


「ん、」



たった二日前に出会ったばかりのまだほとんど何も知らない私達が当たり前のようにそんな別れの言葉を交わすことが、私には少しむず痒かった。



それでも次のない“じゃあな”よりは断然しっくりくる。



ナツメのこの店が自分の家のような気持ちになったからなのか、入り口の鬼のステッカーも不思議とそこまで怖いものには見えなくなっていた。


人間、何事にも時間や気持ちで慣れちゃうもんなんだな。



「お前もよく見たら可愛い顔してるわ…」



入り口のドアを閉めた私は、そんな独り言を言いながらそのステッカーの鬼の顔を指先でツンツンとつついた。

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