第82話
この場所からじゃよくは見えなくて、私はまたさっき座っていたカウンターの前まで足を進めた。
私がいる場所から見えたその部屋の中には、病院の診察室にあるようなシンプルなベッドが一つと肘置きのようなもの、その横には背の高いライトと背もたれのある椅子が二つ置かれていた。
「彫ってくれって奴が来たらここで彫る」
「あぁ、なるほど…」
それからすぐにその人はその部屋の電気を消して扉を閉めると、こちらに戻って定位置であるカウンター内の椅子に座った。
「じゃあ改めて、これからお世話になります!!」
私が笑顔でそう言うとその人もつられるように少し口元を緩ませて、「やっぱりお前の一個は信用ならねぇわ」と独り言のように呟いた。
それがどこか嬉しそうに見えたのはきっと私の都合の良い勘違いだけれど、やっぱりここに一人でいるのは寂しかったのかなぁと思わずにはいられなかった。
それに歓迎されたようですごく嬉しかった。
「はぁ…なんか安心したら喉渇いたな」
私はそう言いながらさっきと同じ席にまた腰を下ろすと、その人が飲み干したことで空になったグラスを持ち上げてその人に差し出した。
「おかわり!」
「はあ?お前自分の立場分かってんのかよ」
「だって飲めって言われたってことはさっきのアイスコーヒーは私のだったはずじゃん?半分残してたのに勝手に飲んだのはお兄さんじゃん?私何も悪くないよね?」
「“残してた”って…一度は出て行こうとした奴が何言ってんだ」
「でも出て行かなかったわけじゃん?ってことはやっぱりさっきのアイスコーヒーは私のじゃん?それを私の許可なく勝手に飲んだのはお兄さ」
「はいはいはい…!もうお前うるせぇよ…!」
イラついた様子でそう言いながら立ち上がってアイスコーヒーのペットボトルを取りに行ってくれたその人に、私は笑いが止まらなかった。
「ったく…あんまり生意気だと俺はお前をいつでも追い出すからな?」
そう言いながらも私の目の前のグラスいっぱいにアイスコーヒーを注いでくれたこの人は、やっぱり悪い人なんかじゃないはずだ。
「うん!ねぇねぇっ、」
そんなことよりといった勢いで前のめりになった私に、その人は呆れた顔をしつつも「今度はなんだ」と言った。
「そろそろ名前教えてっ!」
また煙草に手を伸ばそうとしていたその人は、一瞬その手を空中で止めたけれどまたすぐに動かしてその箱を掴んだ。
「…名前?」
「そうだよ!一緒に住むならさすがにずっと“お兄さん”は嫌じゃん!今更だけど歳は同じなんだし」
「住むってほどじゃねぇだろ」
「まぁ…でも私の名前だけ知られてるっていうのは不公平だと思う!」
箱から口で一本煙草を引き抜いたその人は、それを咥えたまま小さく「ナツメ」と言った。
「ナツメ?」
「あぁ」
そう答えながらカチッとライターを鳴らして煙草に火をつけたナツメに私はすかさず「良い名前だね」と言ったけれど、煙を吐き出しながら両手をカウンター内についたナツメは
「早速だけど俺の言うことを一つ聞け」
そう言って私の優しさいっぱいの言葉を丸っ切り無視した。
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