第68話
牛丼を食べ終わり煙草も吸わない私がずっと隣にいることに、その人は今朝のように“さっさとどっか行け”とは言わなかった。
それを私はやっぱり優しいなぁと思った。
「優しいついでに一個お願いがある」
「お前の一個は信用ならねぇな」
「え?」
「お前のことだから一個とか言いつつもあとから次々出てくるだろ」
そう言ったその人は、言葉とは対照的に口元は笑っていた。
「そんなことないよ?今回は本当に一個だけ」
…だって今度こそこれでこの人に会うのは最後になるかもしれないから。
「なんだよ」
「またあの絵が見たい」
「絵?」
そう言ってその人はまたこちらに顔を向けた。
「うん。あのお兄さんのお店に貼ってあった刺青の写真の絵」
私が見たいのはあの写真じゃない。
あの写真の中に映るあの“絵”だ。
「昨日も本当はもっと見たいなって思ってたんだけど、さすがに遠慮しちゃったから…でも今なら言える!見せてほしい!」
その人は少し驚いたような反応をしていたけれど、すぐにフッと笑った。
「いいよ。その代わり条件がある」
その人はそう言って、吸っていた煙草をお店の灰皿に投げ入れた。
「え?」
私がそう言うと同時にその人の左手がこちらにスッと伸びてきて、その手が私の後頭部をぐっと押さえ込むように掴んだかと思うとその人は私にグイッと顔を近付けた。
「っ、」
「一発ヤらせろ」
あまりに突然のその行動と言葉に、私は思わず息を止めて固まった。
「えっ…!?」
驚き焦る私にその人は何も言わずその距離を保ったままで、口元はやっぱり笑っていた。
「いやっ、あのっ…わっ、私処女じゃないんだけどっ…」
私のその言葉は何を伝えたかったのだろう。
“処女じゃないけどいい?”なのか、
“処女じゃない私に何言ってんの?”なのか、…
まぁ大方後者で間違いないとは思うのだけれど、私のその口調は間違いなく前者のそれだった。
それがその人にも伝わったのか、その人は息を漏らすようにまた小さく笑って私から離れていった。
ここから何がどうなるのかと少しオドオドする私に、その人は詳しいことは何も言わずに「帰るか」と言って歩き始めた。
えっ…!?
“帰るか”!?
まさかそう来るとは思わなかった。
今のって私に言ったんだよね!?
これってつまりヤる流れ!?
でも私処女じゃないじゃん!?
マコちゃんのこともさっき話したんだからそれはこの人も分かってるはずじゃん!?
何の答えも出ないまま、その人の真意も掴めないまま、私はなんとなくそのあとをついて行った。
この人のことだ。
無理矢理どうこうというのはさすがにないだろう。
…でも、私も私だ。
昨日の今日で私はこの人の一体何にそこまで信用しきってしまっているのだろう。
さっき笑っていたことを考えると、今の“ヤらせろ”発言は私をからかう冗談だったのかもしれない。
でももし、
もしそれが本気だったとするならば、
私は何で今この人について行っているのだろう。
きっと発言の内容は変わらないのに、この人とさっきの男性客の違いは何なんだろう。
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