第58話
「…すみません、」
事務所でパソコンを触っていたあの男の人は、私が声をかけるとすぐにそちらから私へと顔を上げた。
「あれ、どうしたの?」
腕時計に目をやりつつそう言ったその男の人のその反応には、驚きや動揺は感じられなかった。
やっぱり、この人は初めからこうなることが分かっていたんだろう。
「ごめんなさい、もう無理そうなので…体験入店はここまでにさせてください」
一時間という約束だったけれど、実際私がそのお店に立ったのはたったの十五分ほどだった。
怒られても仕方ないと思った私だったけれど、その人はあっさりと「はい」と言って私にあらかじめ用意していたと思われる封筒を渡してきた。
「…え、これって…」
「今日のお給料」
「そんなっ、いいです!!たった十五分しか私お店に出てないし、」
「時間は関係ないよ。これ持って早く帰りな」
その言葉は優しいながらもどこかトゲがあるように思えた。
“ここはお前なんかが来るところじゃない、早く帰れ”
そう、言われた気がした。
だから私は、もうそれを素直に受け取りまたその人にも頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言ってお店を後にした。
昨日から私はいろんな人に頭を下げてばっかりだな。
自分がすごく迷惑な人間に思えて仕方ないや…
封筒の中にはきっちり三千五百円が入っていた。
たったの十五分でこれだけのお金がもらえたことに今は素直に喜ぶべきなんだろうけれど、私はなぜか気持ちも頭も重くて重くて仕方なかった。
帰ろうかな…漫喫に。
なんか今日は疲れたし…もう漫喫でシャワー借りてすぐ寝よう。
朝までいたらどれくらいお金がかかるんだろう。
三時間で九百七十円なら千五百円くらいかかるかな…
高いなぁとは思いつつも、手元に本来なら得られなかった三千五百円があるからか私にはもうそこにかかるお金のことなんでどうでも良かった。
はぁ…とにかく疲れた…
トボトボと情けない足取りで歩いていたその時、
「———っ、」
突然後ろから左手を掴まれて私は驚いて後ろを振り返った。
「よかった、いたっ…!!」
そこにいたのは、さっきガールズバーで私が唯一接客をした男性客だった。
「えっ、」
「待ってるのに全然裏から戻って来ないし、それで他の子に聞いたら帰ったらしいとか言われたから慌てて店飛び出したよ…!!」
「あー…えっと…何か?」
「いや、やっぱり君のこと放っとけないから、うちに行こう!!」
「えっ!!??」
「大丈夫、悪いようにはしないよ」
そう言いながら私達のいる道路に身を乗り出したその人は、向こうに見えたタクシーに左手を上げた。
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