第60話

「特に今日みたいに雨が降ってる時とかはさ、畳が雨吸ったみたいな匂いがしてなんかすごい懐かしい感じする」


「そういやお前が昔住んでた家って畳だったもんな」


「あー………あぁ…」




なんだ、


それで懐かしいとか思ったのか。




「やっぱり嫌いだわ、この匂い」


川口は「無理矢理意見変えんなや」と言って笑いながら持っていた携帯を畳の上に置いた。



余計なことを考えるのはやめよう。


今は目の前にあるこの漫画を読めばいい。



昔のことなんか思い出したところで何の得もないんだから。





そう思っていたのに、川口は隣から私の読んでいた漫画をスッと取り上げるとあっさりとそれを閉じて適当に床に放った。



「漫画…」


「お前もう大して読んでねぇだろ」


「……それもそうだね」


私は今度はポケットに入れていた携帯を取り出してそれを開いたけれど、川口はそれも右手で押さえるようにその画面を覆った。



「…なに?」


「俺思ったんだけどよ、」


川口はそう言いながら、私の手から優しく携帯までをも取り上げて適当にその辺に放った。



人の携帯に対してなんて雑な扱いをするんだろうなんて思いながらも、私は川口の話に耳を傾けていた。



「お前がさっき言ったのって畳じゃなくて俺のじゃね?」


「え?」


「だから匂いだよ」


川口は口元を緩ませて左手を私の後頭部へ伸ばすと、そのまま体ごとこちらにずれるように前に出て私の体にぶつかった。



「俺の匂いが好きなんだろ」



もどかしかった私達の距離はこれでゼロになった。


そうなってみて、さっきの距離のもどかしさは遠いという意味のものだったんだと分かった。




だってやっぱり私達を繋ぐものは一つしかないと思うから。




「そうなのかな」


「そうだろ」


「分かんないよ」


「なら今から確かめろよ」


川口は左手を後頭部からそのまま私の左の首筋に回すと、体ごと私を引き寄せるようにして顔を近付けてきた。



今度のキスはちゃんと分かるよ。


始まるための、セックスのためのキスだ。



電気が付いているはずなのに薄暗いこの部屋で、唾液の混ざるようなリップ音と依然強く振り続ける雨の音が私達を包み込んでいた。



電気ストーブの音は、もう私の耳には届いてはいなかった。

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