いざ出陣

決めたら早いあたし。



お昼までウダウダ言ってたのが自分でも信じられない。



迎えた放課後。



図々しくも友人を教室に待たせて、彼の学年の校舎へと向かった。



学年はあたしの一つ上。出席番号は26。


これを調べるのは簡単だった。



全校集会の時はいつも二年生の列に居たから、あたしの一つ上の学年だとわかる。



二年生とわかれば、二年生の靴箱を見張っていれば良い。



彼が立ち止まった場所が、“26”と記されていた。



となると、うちの学校は出席番号順に靴箱が並んでいるから、26番だとすぐにわかる。



彼の周りにはいつも5、6人の男女が居る。


だいたい男ばっかりだけど、たまに彼女とか…彼女の友達と彼女とか…



とにかく彼は、いつも一人じゃない。



あの日、ファミレスで会った彼は、どちらかと言えば一匹狼タイプだと感じた。



何故なら、友達と群れている想像ができなかった。あの日の彼は、何かと不機嫌そうだったから。



無愛想だった事もあり、周りから取っ付きにくいと思われて…皆が一歩引いてしまうような…そんな印象だった。



でも、ストーカーを初めて1ヶ月もすれば、それは違うとわかる。



逆に、どうしていつも彼の周りにはあんなに人が居るのか、納得した。



一緒に居ればわかる。



無愛想だけど、人の話しはきちんと聞いてるようだし。適当な感じに見せて結構丁寧だったりする。


だから信頼できる。



騒ぐ方じゃないけど、楽しいんだろうなってゆうのは伝わる。



遠くからストーカーしているだけのあたしがそう感じるんだから、きっといつも一緒に居る人はとっくに気づいていると思う。



だからもっと近づきたいと思う。

もっと彼を知りたいと思う。



そう思うのは、あたしだけじゃないのかもしれない。彼自身を知ると、みんなそう思うのかもしれない。



彼の教室がある校舎へ足を踏み入れる瞬間、静かに、深く深く深呼吸をした。



ドックンドックン鳴り止まない心臓が、手足を震わせる。



チョコレートが入った紙袋を握り締め、グレーのマフラーにそっと触れた。



直前まで、マフラーは恥ずかしいから巻いて行かないつもりだった。



だけど、うるさい友人が「巻いて行った方が良い!」って、マジでうるさいから仕方なく巻いて来た。



気合い十分だった筈なのに、すれ違う先輩達からの視線が痛い……



見かけない学年の生徒が歩いていれば、そりゃジロジロ見てしまうと思う。



ここへ来る前に、靴箱の中に靴があるかを確認してきた。まだ校内に居るのは確認済みだ。



部活をしてない彼がまだ学校に居るとすれば、教室しかない。



居てほしいけど、居てほしくないような…極度の緊張から複雑な心境だった。



別に告白をする訳じゃないのに…



そう思うと、馬鹿らしくて少し表情が緩んだ。




視線を前へ向ける―――…



ほら。



すぐ見つけられる。





…―――彼がいた。



遠目でも分かる。


雰囲気で分かる。


だってあの背丈、あの鞄の持ち方、あの歩き方。


あたしの五感全てが、間違いなく彼だと言っている。


隣を歩く人も、少し後ろを歩いている人も、いつも彼と一緒にいるお友達に違いない。



その中に、女子の声が混ざって聞こえた。



しかし。


このタイミングで!



彼がこっちに向かって近づいて来ている!



教室の中を覗く気満々だった。


彼の姿を気づかれない様に拝んだあと、意を決して声をかけるつもりだった。



まさか、廊下で出くわすとは…


さっきまでの冷静さが少しずつ焦りに変わっていく。



なんせ心の準備ができていない。



どこに足を進めば良い!?


どこに視線を向ければ良い!?



さっぱりわからん!!



あたしに気づいているのか、それすら確認する事が出来ない。


だけど確実に、着々とあたし達の距離は縮んでいる。


会話が少し聞き取れるぐらいまで近づいた。

彼の声が耳に届きそうで、視線を向ける事ができないまま、あたしの全身が彼を意識した。



匂いまで届きそうな気さえして、心臓が痛くなってきた時、咄嗟に視線を前へ向けた。




……やっぱり居た。



彼の後ろから現れた彼女。



落胆したのと同時に、納得もした。



そりゃ彼女なんだから、一緒に帰るに決まっている。



そりゃそうだ。



そんな彼女が居る前で、あたしはこれから何をするの?


チョコレートを渡すの?



…渡せない。


彼女の前では渡せない。



彼もきっと受け取らないと思う。


彼女の前で、チョコレートなんて渡したくない。



まるで透明人間にでもなったみたいに、その場に佇んだ。


彼が通り過ぎる時、その振動で空気が動き、香りが混ざる…



あ、泣きそう。


マジ涙出そう。



ふーっと深い息を吐いて、震える唇を抑えようと噛み締めた。




「今日遅れんなよ!駅前の店な!」



数メートル先から、男子生徒の大きな声が聞こえた。



視線を前に戻すと、こっちに向かって歩いて来る彼の、隣を歩く男子の声だった。



「声がでかい」



そう言って呟いたのは、泣きたいぐらい好きな人…



彼は、あたしの存在に気づくのかな…


こんな所に佇んでいるあたしを、あの日、マフラーをあげた相手だって気づいてくれるのかな…



また高鳴り出した胸の音。それが響く度に凄く苦しくなる。




あ…


気づけばもう、すぐそこまで来ていた彼と目が合った。


同時に、ドクンッと響くあたしの心臓。



体中が震えだして、咄嗟に目を逸らすと――…



「……」



…――彼はあたしの隣をスッと通り過ぎた。



目が、合った…



「あれ、あの子…、一年じゃね?」


「だね。何してんだろ?」



彼の友達が、通り過ぎた後ろであたしの事を言ってるってわかった。


それが余計に虚しさを感じさせる。




…やっぱり彼は、あたしの事なんて覚えていない。


心にポッカリ穴が空いた気分。



さっきとは違う、動悸や息切れに似たドキドキがあたしの胸を締め付ける。



でも、渡す前で良かったと思った。


これがもし、チョコレートを渡そうとしている時だったら…


今みたいに素通りされたら…



…立ち直れない。



やばい。


今度こそ涙を止められない。



今にも零れ落ちそうに、瞳いっぱいに溜まった涙を、何とか零れないように瞬きすらも惜しんだ。



とりあえず友達の所に戻ろう。


話しを聞いて貰おう。




「…おい」



深呼吸をして、自分の教室に戻ろうと決意した時、背後から届いた低いその声に、反射的にピクッと背中が震えた。



自分にかけられた声なのか…


けど、その声の正体を知りたい…と、本能で思ってしまう。



大きく深呼吸をして、恐る恐る振り返る――…



「そのマフラー、」



無愛想な口調で、その視線をあたしのマフラーへと投げかけるのは―…



「似合ってるな」


さっき通り過ぎた筈の、彼だった。



去年のバレンタインに、ファミレスで出会った時より、紺色の制服が馴染んで見える。



彼がかもし出すその雰囲気は、何も変わっていない。


それをとても嬉しく思った。



ダルそうに歩く感じも、その口調、表情、全てが――…




「…おまえ、俺の事忘れた?」


「え、」


「は?」


「わすれてない…!」


「…あぁそう」




…――物凄く、愛しいと感じる。



こうやって会話するのは、丁度一年ぶり。


去年ファミレスで会った時以来になる。



何とも言えないものが込み上げて来て、全身に鳥肌がたってた。



「なに?知り合い?」



ドキドキの再開に、彼との事でいっぱいなあたしの思考を、その彼の友達が遮った。



視線を周りに向けると、彼の取り巻きがあたしを見ている。



「こいつ、ミズキ」



そう答えたのは、彼だった。



名前を呼ばれた事に、嬉しさよりも驚きの方が強かった。


…あたしの名前を覚えてくれている。



「いや、名前とか聞いてねぇし」



彼の発言が可笑しいと言うように、友達が笑った。


その笑いにつられて、他の友達もクスクスと笑うから感じが悪い。



彼との再開に感動していたあたしの存在は、そんなやり取りの中で消えつつ…



「おい」


声の方を見上げると、彼があたしを見ていて…



「おまえここで何してんだ?」


今更な事を聞いてくる。




「俺ら先行くな!」



あたし達を交互に見て、彼の友達が叫ぶと、彼は手を軽く挙げて友達を見送っていた。



そしてあたしの方に向き直ると、数メートル開いていたあたし達の距離を、一歩一歩、ダルそうに縮めて来る。



あたしは身動き一つとれず、迫って来る彼を硬直したまま目で追っていた。



「なぁ、誰かに用とか?」



2回目に質問された時は、彼の声がやけに近くで聞こえた。



「えー…っと…」



……あなたに用があるんですけど…



視線を逸らし、どう伝えようか考えた。




「それ、何?」


あたしの答えを聞く前に、彼はまた次の質問をしてくる。



「……」


だけどやっぱり答えるのを躊躇してしまう。



彼の視線の先にあるのは、あたしの右手。


ガッツリ握り締められた、紙袋がある。



どうしようどうしよう…と、頭の中がどうしようでいっぱいになっていると、「あー…」と彼が気まずそうな声を漏らした。



何だろう?と彼を見上げると、その表情は不機嫌そうで…



「えっなに?」



彼の心境が分からず、思わずそう聞いていた。



彼はグッと偉そうに腕を組むと、益々あたしを見下ろして来るから、何か…威圧的に感じる。



「それ、渡しに来たのか?」



その低い声に、胸が跳ね上がった。



「う、うん」



何で分かったんだろ?

果てしなく鈍そうなのに、何で分かっちゃったんだろ?



「まぁバレンタインだもんな…」


「そ、そうなの」



でも何か凄く、機嫌が悪そうに見える。



もしかして…迷惑…なのかもしれない。


…彼女、居るし。



そもそも彼女を先に行かせてまで話してやったのに、目的はバレンタインのチョコ渡す事かよ…みたいな…?



それで機嫌が悪いのかもしれない。



そう考えたら、一気に沈んでいく気持ち。


さっきまで浮かれていただけに、惨めさが半端ない。



「じゃあ、」



そして…



「俺行くわ」



沈みかけていたあたしを、奈落の底へと突き落とした。



ここへ来て、何度目になるんだろう。


泣きそうだ泣きそうだ…と、何度も思って…


でも涙を流さずにいたのに。



本当に失恋したんだ…と、この時ようやく実感していた。


瞬きもしていないのに、涙がポロポロ流れていく。



こんな事なら、約一年もストーカーなんてせずに、積極的に話しかけていれば良かった。



そうしたら、友達ぐらいにはなれていたかもしれない。



後悔ばかりが駆け巡り、余計にあたしの胸を締め付けるから…



「うっ…」



漏れる声を抑えようと、首に巻いているマフラーを少し上げて口元を覆うと、彼の匂いを感じた気がした。



それが余計に、あたしを後悔へと導く。



「おまえな…」



涙でいっぱいの瞳は、視界がボヤけて良く見えない。



「…何で泣いてんだ」



左手でマフラーを押さえたまま、数回瞬きをすると、彼が溜め息を吐きながらこっちを見ていて、



「泣く意味がわかんねぇ」



立ち止まっていた足を、またこちらに向かって進ませた。



そしてあたしの目の前に来ると、



「おまえ…俺のマフラーがグチョグチョになってんぞ…」



そう言ってあたしの左手を掴むと、マフラーからそっと離させた。



「あたしのだもん…」



鼻声で不細工な声が出た。



「今はあたしのマフラーだもん…」



掴まれていた左手を振り払った。


下ろそうとしただけなのに、思いの外強く振り払ってしまい、自分でも驚いた。



同時に彼から視線を逸らした所為で、彼がどんな表情をしているのか、分からない。



失恋と言う痛み。嫌われたかもしれないと言う悲しみ。浮かれていた自分への惨めさ…ごちゃごちゃに混乱したあたしの頭は、



「とりあえず、何で泣いてんだ?」



彼の発言によって、新たに怒りが加わった。




「はっ…?」



この人何言ってんの?

どう考えたってあたしは、失恋して泣いてるに決まってる。


さっきのやり取りを見てれいば、誰だってあたしが彼を思って泣いているってわかる。



なのに…



「…俺なんかした?」



素っ惚けた事言って来やがる。



だけど、強気に返せないあたしは…



「何でもない…」



そうやって、距離を作る事しか出来ない。



「じゃあ泣くな」



平然と言ってのける彼に、言葉すら返せず見上げる。



「それ、渡しに行くんだろ?」



彼はあたしの右手にある紙袋をチラッと見た。



「…泣き泣き渡されたって気持ち悪いだけだろ」


そう言って溜め息を吐くと、こっちに向かって伸びてくる手。



「えっ…?」



驚いて後退あとずさると、彼はあたしの首からマフラーを外した。



「これは取って行け」



「ん」と差し出されたマフラーを、反射的に受け取る。



「じゃあな」



彼はまた背を向ける。



唖然としたのは一瞬で、すぐに何かが違うと感じた。



「ちょちょ!待って!ストーップ!」


歩き出していた彼の腕を急いで掴みに行くと、その腕を引っ張りながら後ろへ体重をかけた。



振り返った彼は、伸びたブレザーの裾には目もくれず、ただあたしを見下ろしている。




「…何か、おかしくない?」



沈黙に耐えきれず、思いのままを口にした。



「なにが…?」


「行き違いが…」


「行き違い?」


「誤解…?」


「誤解?」


「解釈が違うような…」


「…分かるように話せ」



どう伝えれば良いのか、言葉を詰まらせるあたしの話を、彼は呆れながらも聞いてくれるらしい。



話がどこでどう拗れたのか…そんな事は考えても分からない。



だから、



「これ!」



右手を振り上げ、持っていた紙袋を彼へ向けて差し出す。



「はぁ?」



なのに、物凄く顔をしかめた彼は、そこまで嫌がらなくても…と思う程、嫌そうな顔をする。



「…何その顔」



彼の反応に、あたしまでしかめっ面になる。



「これって何だよ」


「あげるって意味!」


「はぁ?」


「だから何でそうゆう顔するの?」


「あのな…」



溜め息を吐いた彼は、心底嫌そうな目で見てくる。



「…頑張って作ったもん」



情けないような、悲しいような、もどかしい思いに視線を落とした。



「なにおまえ…」



やっぱり呆れたようなその声に、物凄く落胆したあたしは、



「…えっ?」


次の瞬間、顔を上げた。



「貸せって…」


握っていた紙袋がグイッと引っ張られている。



「…これ、俺に渡しに来たの?」


紙袋を手にした彼は、それを見つめて呟いた。



「そ…うだよ。だから、どっかで誤解が…」


「ミズキ」



彼に名前を呼ばれると、一々胸がときめいてしまう。


全身が動かなくなり、まるで自分の意思ではない様で、そーっと彼の表情を伺った。



「ありがとな」



そう言った彼は、優しく笑ってくれた。



廊下に立ち尽くしていたままのあたし達は、「とりあえず帰るか?」って言う彼の言葉をきっかけに、動き出した。



そこで思い出した友人の存在。



彼には先に靴箱へ行ってもらい、急いで友人の待つ教室に向かったけど、誰も居なかった…



慌てて友人に連絡をしようと携帯を開く。


そこには、「先に帰るからね」と、友人からメールが来ていた。ごめんねとありがとうを打てるだけ打ち込み、メールを返信すると、再び駆け足で靴箱へと急ぐ。



自分の靴を履いてから、彼が待つ2年の靴箱へ行こう。


そう思って、先に自分の靴箱へと向かった。



「…えっ!!」



走り込んだ先には、ロッカーに寄り掛かるまさかの姿。



「すげぇスライディング…」



あまりにも素早く滑り込んだからか、彼がフッと口元を緩ませた。



片手を紺色のズボンのポケットに突っ込んでいる。


これはいつも。


その脇に紺色の鞄を挟んでいる。


これもいつも。



あたしの好きな、彼の立ち姿。



だけど今日は、もう片方の手に、あたしが上げた小さな紙袋を持っている。



好きが加速して行く。



どうしてあたしのロッカーがここだって分かったんだろ?



靴を履き替えて校舎を後にする。



「良く分かったね、あたしの靴箱」



半歩前を行く彼の腕を引いた。視線を向けてくれた彼は「知ってた」と小さく呟いた。



「えっ?」



…知ってた?



「どうして!?」


驚くあたしを他所よそに、「見かけたから?」と、何故か曖昧に答える彼。



「いつ!?」


「入学して直ぐくらい」



まさかあたしのこと…



「知ってたの!?」


「何を?」


「あたしが同じ高校に居るの!」


「あぁ」




えぇーっ!!!!




「どうして!?嘘だ!!」


「何が?嘘なんか言ってねぇって」



色んな事が起きすぎて、頭も心も追いつかないあたしと、相変わらず冷静な彼。



「だって!さっき無視した!」


「はぁ?」


「無視したじゃん!」



立ち止まった彼は、校庭で騒ぎ散らすあたしを意味が分からないって目で見つめてくる。



「…話しが見えねぇ」


「さっき!さっき!!2年の廊下で会った時、目が合ったのに知らん顔して通り過ぎたじゃん!だから覚えてないと思って…」



勢いに任せて言葉を吐き出した。



彼は「あー…」と呟いた。



「あーじゃない!」


「分かった。悪かった」



あたしの怒りを遮った彼は、「でもあれは…」と、弁解を口にする。



「おまえが目ぇ逸らしたんだろ」



いや、反論かもしれない…



「えっ?」


「あんな風にあからさまに目ぇ逸らされたら、話しかけずれぇだろ…」



確かに。それはそれは堂々と目を逸らしたかもしれない。



だけどあれは…



「嫌とかじゃなくて!ちょ、ちょっと緊張して…」


「うん」



視線を逸らした彼が何を想っているのか分からなかったけど、その存在にドキドキせずにはいられなかった。



「おまえんちどっち?」



校門まで来ると、彼が立ち止まるから…あたしの足も自然に立ち止まる。



「うち?うちは、こっちだけど…」



そう言って家のある方角を指差すと、



「送る」



彼はその一言だけ呟いて、あたしの家の方へと歩き出した。



「…送ってくれるの?」


「あぁ」


「ありがとう…」



まだ一緒に居れると思うと、安堵あんどした。



「あの、」


彼に声をかけると、こちらに視線を向けてくる。



「今日、」


「……」


「バレンタインなんで…」


「……」


「他にもいっぱい貰いました?」



最後まで黙って聞いてくれた彼は、少し間を開けて、思い出したように鞄を持ち直し、両手で鞄の持ち手を掴むと、あたしに中身を見せようとする様に、目の前へ差し出した。



「え?」


見ろと言わんばかりに、近づけてくるので当然困惑する。



「そんなに貰ってない」


「え?」


「これだけしか貰ってない」



あたしが覗き込もうとしないからか、差し出す様にして持っていた鞄の中を見ながら、教えてくれた。



彼が鞄を持ち直す時に、少しだけ見えた。


バレンタインの贈り物だろうなと思われる包みが。


きっと、あたしが朝、靴箱のロッカーで見たものだと思う。


鞄の中に収まるぐらいの数だったのかなと、朝見かけた印象より少なく感じた。



だからって、そんな事言えないし、聞けない。



靴箱のロッカーの中を覗いて、ストーカーみたいな事をしていたなんて…


…言えないでしょう。



「なんか、詮索してごめんなさい」



バレンタインにチョコレートを貰ったかどうかなんて、彼女でもないくせに。何を聞いているんだと、自己嫌悪。



何も話さなくなった彼に、言葉が見つからない。


会話が急に無くなって、訪れた沈黙に耐えられない。



再び歩き出した彼の後ろ姿を見ていた。


この人は誰かの彼氏で、あたしは隣を歩く事も、手を繋ぐ事も、親しげに話す事もできないんだなと思うと、何だか凄く寂しい。



半歩前を行く彼の顔は見えなくて、ポケットに入れられたままの彼の手を、凄く握り締めたくなった。



ポケットから手を出さないかな?って。彼の手に視線を向け続ける。



「あのさ…」


「…え?」



突然振り返った彼に、声が上擦ってしまった。




「詮索とか気にしなくていい」


「……」




い、いまさら…?



ここまで歩いておいて、軽く50メートル前の話だよそれ…と、言いたかった。


言いたかったけど、ツッコミたい言葉を飲み込んだ。



そして、吐き出したい言葉の代わりに、頷いてみせた。



初めて出会った時、彼は突拍子もなくあたしの世界に現れて、突如消えてしまった様な、そんな感覚だった。


まるで、自分が都合の良い夢でも見ている様な、夢の中でしか会えない様な、そんな存在。



こうして再び話ができて、同じ時間を共有できている事が不思議なくらい。



今日のこの日を忘れないでおこう。


彼を忘れる事はできないけど。


これからも好きな気がするけど。


そんな風に想いを巡らせていると、ギュッと胸が締め付けられた。



意識して思いを口に出来ないまま、彼の背中を追いかけた。



距離が離れないように、彼の半歩後ろを歩いて…



「あそこ…」



暫くして見えて来た自分の家を指差すと、彼は家の前まできちんと送り届けてくれた。



「どうもありがとう…」


「あぁ、じゃあ」



そして彼は、すぐに背を向けて来た道に向かって歩き出す。


名残惜しさとか、まるで感じられない。



しばらくその背中を見つめた。



振り返るかな…立ち止まるかな…そんな事を想って、彼の後ろ姿を見送りながら、あの日…去年のバレンタインを思い出した。



またあのファミレスに行けば会えると思っていたのに。会えることのなかった日々…




思想を掻き消すように、家の中に入った。



ドキドキが鳴り止まなくて、今になって恥ずかしさが湧き上がってくる。



変な事言ってないかな?

髪型変じゃないかな?



急いで玄関を駆け上がり、洗面所へ向かうと…おもむろに鏡を見つめる。



首もとが寂しい事に気がついて、マフラーを鞄に入れたのを思い出した。



視線を鞄に向け、そこからマフラーを取り出す。



「……」



確かに…洗わないと使えないな。



そのまま洗濯機にマフラーを入れて、自分の部屋に向かった。

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