第92話
「…もしかして私に許しを乞おうとしてます?」
「は?」
「仲直りしたいんですか?」
「揉めた覚えねぇんだけど」
「言っときますけど、私はこんなガム一枚では許しませんよ?」
「…意味分かんねぇ…」
独り言のようにそう呟いた彼は、私からすぐにさっと目を逸らした。
でもやっぱり不満そうには見えなかった。
だからきっと彼は今怒ってはいない。
「やっぱり顔を合わせて言葉を交わすことはとても大切なことですね」
「……」
彼からもらったガムを持つ右手に左手を添えるように両手でしっかりそれを持った私は、一度大きく深呼吸をしてからまた彼へと顔を向けた。
彼はまたまっすぐに私を見上げていた。
「今日は何時に帰ってきますか」
今日“は”なんて、まるでいつもここで彼の帰りを待つ私を彼も承知であるかのような言い方になってしまったな。
私に本気でそれを隠す気があるのかどうかも疑わしいところだ。
でもこの際もうそんな細かいことなんてどうでもいいや。
この人相手にそんなものに気を遣っていたら一生何も始まらない気がする。
きっと彼にはストレートすぎるくらいがちょうどいい。
「は…?」
「だから今日はお仕事から何時に帰ってくるのかって聞いてるんですよ」
「何でそん」
「あの、さっきも言いましたけど私今から学校に行くので早く言ってもらえませんか」
彼の言葉を遮った私は、そう言いながらホームの時計に目をやった。
時刻はまだ六時二十分だった。
もちろん急いでなんていない。
ただ、今日はもう彼の隣に座るつもりはなかった。
時計から彼へと視線を戻すと、彼は少し驚いた顔で私を真っ直ぐに見ているだけだった。
「…もしかしてまた隣に座るとでも思いました?」
「……」
「座りませんよ?言ったじゃないですか。こんなガム一枚で私は許したりはしないって」
我ながら勝手で図々しくて、私のこの物言いは彼からすれば勘違いも甚だしいことだろう。
もちろん彼はこの女は何を言っているんだと言わんばかりの顔で私を見ていた。
そんなことは私だってちゃんと分かっている。
でもそれくらい強引にでも、私は今ここで彼に踏み込むべきだと思った。
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