第90話
それから彼はもちろん、私も何も話さないまま私達は駅に着いた。
真後ろをピタリとくっつくようにしてここまで歩いてきた私だけれど、今日は何も話さない上に彼もこちらを振り返ることはなかったからこれじゃあここまで一緒に来たのかどうかもよく分からない。
…いや、彼からすれば一緒に来てはいないんだけど。
でも私が言いたいのは“私にとって”という意味だ。
私の中ではもうすでに、朝同じタイミングで家を出ることの目的は彼に声をかけることからそのまま一緒に駅に行くことまでがセットになっていた。
だから私は当たり前のように改札を抜けてそのまま彼と同じベンチの目の前まで来たのだけれど、今日の私はいつものようにベンチに腰掛けた彼の隣へ腰掛けはしなかった。
なぜか横でそちらを向いて立っている私に、彼は横目でチラッとこちらを見たけれどすぐにその目線は正面に向けられて、かと思えばすぐにいつものように閉じられた。
その雰囲気はどこか不満そうだった。
それはもちろん私が隣に座らなかったことにじゃない。
もっと言えば座ったって彼はきっと不満そうな顔をする。
そんなところも彼らしいと言えば彼らしいけれど、今日ばっかりは不満があるのは何も彼だけじゃない。
正直なことを言えば声をかけて駅に一緒に行って彼が電車に乗るその時間までの間に少しでも親睦を深めることが私のこの朝の目的なのだけれど、それも今日だけは例外だ。
「…昨日の夜壁を叩いたの、気付きました?」
「……」
「二十二時くらい…一度だけ」
「……」
真横で立ったまま彼を見つめてそう言った私に、彼は当たり前のように無視を続けて目もしっかりと閉じられたままだった。
「絶対気付きましたよね?」
「……」
「だって私、思いっきり叩きましたもん」
「……」
本当は“どうして”と彼の方から気にかけてもらいたかったけれど、彼は絶対に言わないだろうからもう自分から言うことにする。
「不満があって叩きました」
「……」
「もちろんお隣さんに対してです」
「……」
私のその言葉に、お隣さんの目がゆっくり薄く開かれた。
私の話を聞く気はあるようだ。
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