第86話
ここまで帰りが遅いのは想定外だったな…
朝もあんなに早かったのに、彼の体は大丈夫なんだろうか。
心配…
でも私は分かっていなかった。
『想定外』とはあらかじめ想定していなかった状況や出来事のことであって、
それは私が“あの彼のことだから”といくら時間をかけてありとあらゆる展開を推測してシミュレーションをしたところで、絶対にそれにはたどり着くことはできない。
だからこその“想定外”なのであって、回避するためにそれを推測している時点でもはやそれは“想定外”でも何でもない。
起こりうる現実を空想しただけにすぎないのだ、ということを。
だからこんな展開、私には最初から想定なんてできるわけがなかったんだ。
アパートに着いて自分の部屋の鍵を差し込んだその瞬間、
———…カタンッ…
隣から聞こえた物音に、鍵に手を添えていた私は思わず動きを止めてそちらに目をやった。
えっ……?
それはもちろんあの彼の部屋の方から聞こえたもので間違いなくて、一瞬私には訳が分からなかった。
まだ帰ってきていないはずの彼の部屋からどうして物音が聞こえたりするんだろう。
それを確かめたところで何がどうなるわけでもなかったのだけれど、気付いた時には私は自分の部屋の鍵をそのままにそこから手を離して彼の部屋のドアの前まで歩き進めていた。
それから私は、そっと左耳をそのドアに近付けようと少しだけ前のめりになった。
こんなの、側から見たら本当に私は変態だしストーカーだし変質者だし…
でも誰かにそんな誤解を招くことなんかよりもとにかく気になった。
———…帰ってるの…?
ドアにピタリとくっつけた左耳に流れ込んできたのは、微かに聞こえる笑い声だった。
でもそれは壁を一枚隔てて届くには遠い上にいくつも重なって聞こえてきたから、それがテレビから流れているものなのだということはすぐに分かった。
すぐそこで女の声でも聞こえようものならば私は今の私がどうなってしまうか分からなかったけれど、テレビはテレビでちょっとそれもどうなんだろう。
だって、…
…なんでいるの?
私、帰ってきた彼を見逃した?
いやいや、そんなわけない。
これまで以上に彼の帰りを待ち侘びていた今日の私がそんな簡単に見逃すわけはない。
いつ帰ってきたんだろう。
何も知らずに、私は五時間以上も…
怒りなのか虚しさなのか、はたまた悲しさなのか…
よく分からない感情で私の中に漠然とあった不安は一瞬でどこかへ消え去った。
…ていうか、やっぱりちょっとムカつく。
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