第85話

彼を思って待つ時間なら、私はそれが五時間を超えても苦痛にはならなかった。






…そう、あれから五時間以上。




時刻はすでに二十一時を回ったというのに、彼はいまだにこの駅に帰ってきてはいない。


彼がいつも電車の同じドアから出てくることを知っている私がそんな彼を見逃すわけはないし、もっと言えば私は彼の帰宅を待ち侘びすぎてその方面から来た電車が到着してドアが開くたびに全てのドアに注目しながら彼を探した。



ここに来て何かしらの理由で違うドアから出てくる彼だって、私はちゃんと事前にシミュレーション済みだった。



そんな思わぬところに想定外が転がっていて彼をみすみす見逃してしまうなんて絶対にあってはならない。





…だから、彼がまだ帰ってきていないのは間違いないはずだ。



残業かな…


三時間以上も残業とかあるのかな?


彼の仕事のことはまだよく分からないけれど、こんなに遅い帰りはこれまでになかったからちょっとだけ漠然と不安のようなものが私の中に渦巻き始めていた。



帰ってこないことは絶対にない。


だって彼の家はあのアパートの二階のあの角部屋なんだから。


今朝だってそこから仕事に行ったんだし、この一年半以上の間だって私はほぼ毎日彼がこの駅に帰ってくるのを見てきたんだから。



だから私は今日もいつものように彼をここで出迎えて、それで、他人じゃなくなった今、私は彼に直接声をかける。



“お疲れ様です”とか“おかえりなさい”とか、…



それで家まで一緒に帰って———…





———…トントンッ



突然左肩をつつかれて、ベンチに座ったまま俯いていた私は勢いよくそちらへと顔を上げた。



もちろんあの彼を期待した。



「あの…高校生ですよね?もう二十二時になるから、お家に帰らなきゃいけませんよ?」



そこにいたのは小綺麗な制服を着た駅員の男の人だった。



「…あ…はい…」



こんなことなら一度帰って着替えてからここで待機しておくべきだった。


そうなれば学校帰りという“偶然”は通らなくなるけれど、そんなことは今はどうでもいい。



遊びに行った帰りだとかなんとか言えば、あの人にならそれもまかり通るでしょ…



でも私は決して大人っぽい見た目なんかじゃないから、私服だろうと結局この駅員さんには未成年であることがバレてしまっていたかな。



…って、今はそんなたらればなんてどうでもいいか…



返事はしたものの一向に帰ろうとしない私に、まだすぐそばにいたさっきの駅員さんは「帰りましょうね」と念押しのように私に声をかけてきた。




———…“帰りましょうね”



今言われた言葉を正確に捉えるならば、



“めんどくせぇから早く帰れよ、クソガキ”



ホームで待てないなら駅の外で待とうかとも思ったのだけれど、なんだかそこまでしたって今日は彼にはもう会えない気がして私は駅を出るとそのままアパートを目指してトボトボと歩き始めた。









今になって思えば、まだ帰ってきていない彼が今私の目の前に現れるとするならばそれは電車が到着する私のあの真正面しかないはずで、左側から現れるなんて絶対にありえないことだ。



でもそれ以上にありえないのは、彼が私に声をかけることだった。



さすがの私でもこの五時間で繰り返したありとあらゆる展開のシミュレーションにさえ、彼から声をかけてくるなんて奇跡は一度も考えはしなかった。

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