第76話

「…それとも私だからなんでしょうか…」



少し躊躇いながらそれを口にした私は、引っ越しの挨拶の時に玄関のドアを開けてくれなかったことをいまだに気にしていたらしい。


嘘でもいいから否定の言葉が欲しかった私だったけれど、彼はやっぱり何も言わずに依然こちらに背を向けたまま歩き続けていた。




…ま、これはさすがにもう想定内。




「…あっ、そうだ…昨日はごめんなさい!」


「……」


「壁…叩きましたよね?うるさかったですか?」


「……」


「…あの、———…っ、」





私が性懲りも無くまた口を開いたその直後、彼の足が突然止まった。



だから私も思わず、足を止めた。




「……」



「……」




彼と共有してきたまだ数える程度の時間の中で、訳が分からなくなるのは一体これで何度目だろう。


それも今回ばかりは背を向けられたままだったから、彼の表情が見えないことが私をより一層訳が分からなくさせた。



「———…あ」


「———…ついてくんなよ」



私が口を開くとともにぴたりと重なった彼の言葉は、私がこれまでに聞いたどの言葉よりもはっきりと聞き取れた。



そして私にはやっぱりそれなりの耐性がついていたらしい。


もうその言葉そのものの意味なんて私には正直どうでもよくて、



“彼が足を止めた”、“言葉が返ってきた”



もうそれだけで私にはこの上なく嬉しかった。



玄関でドアを閉めた瞬間にさっさと行かれた時はまた今日も私は失敗に終わるのかと思っていたけれど、諦めず追いかけてよかった。



「ついて行ってなんていませんよ!?私も駅に向かってるんです!偶然ですね!」


思わず“私も”なんて言ってしまったけれど、彼は私がなぜ自分が駅に向かっていることを知っているのかということには何も思わなかったらしい。



「こんな早い時間に学校なんかまだ開いてないだろ」



そう言ってゆっくりこちらを振り返った彼は、しっかりと真後ろにいた私を自分の目に映した。




一昨日は言葉を返してくれたけれど顔を合わせてはくれなくて、昨日は顔は合わせてくれたけれど言葉は返ってこなかった。


今はその両方が私に向いている。



たったそれだけで私はすごく大きく前進したように思えた。




…にしても私は本当に偶然を装うのが下手くそだ…


なんなら開き直るかのように雑な言い方の“偶然ですね!”になってしまったことには我ながらちょっと笑えた。

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