第75話
私によって強引に通路を塞がれて足を止めざるをえなくなった彼には、今はもう逃げ場はない。
そして彼はやっぱりいつもの作業着に、黒のネックウォーマーを身につけていた。
でもそのネックウォーマーに顔の半分は埋まっているだろうと思っていた私だったけれど、実際の彼はしっかり口元まで顔が確認できた。
出だし早々、私はすごくラッキーだ。
「……」
「……」
彼は依然驚いた顔で私を見ていた。
それも無理はない。
突然現れた私はまるで彼がドアの手前に来るのを狙っていたかのようにドアを開けて、そのあとすぐに挨拶の言葉を口にしたんだから。
その不自然さには自分でも十分気付いていたから何か言い訳をしたいところではあったのだけれど、昨日の失敗をいまだに引きずる私にとって彼との沈黙は自然と私の心を焦らせた。
「今から出勤ですか!?偶然ですね!私も今から学校に行くんです!」
何度も頭の中でシミュレーションをしたつもりだったけれど、最初の挨拶があまりにも唐突すぎて今日の私も“偶然”を装うのがかなり下手くそになってしまった。
それでも始めてしまったものを引くことなんて今更できるわけもなく、そのまま私も通路に出るとすぐにドアを閉めて鍵を差し込んだ。
「まだ六時過ぎですよね?お仕事の時間早いんですね!ちなみにお仕事っ———…っ、あっ…!」
足止めしていたはずの彼は、私がドアを閉めて鍵を差し込んだその隙に私の背後にできた道から呆気なく行ってしまった。
急いで鍵を引き抜いた私はすぐに彼の後を追って階段のところまで行ったけれど、その時にはもうすでに彼は階段の最後の一段からちょうど降りようとしていたところだった。
「っ、待ってください…!」
———…カンカンカンカンッ…!!
昨日よりも大きく聞こえた階段を駆け下りるその音は、早朝で周りが静かなことに加えてこの冷えた空気がまたさらにそのやかましさを煽っているみたいにも思えた。
私の声は確実に届いたはずなのに振り返らないのはおろか足を止めることもない彼は、なんだかまだ薄暗い道路のその先に消えていなくなってしまいそうだった。
そんな彼の背中が私をなぜか無性に寂しくさせて、それからの私は考えるよりも先に足が動いていた。
彼は話しかけ続ける私をずっと完全に無視していたけれど、その足はずっと早足ながらも歩き続けていたから走る私が彼に追いつくのはとても簡単だった。
「っ、待ってって言ってるじゃないですかっ!」
「……」
「ていうか挨拶くらいしてください!おはようございます!!」
「……」
彼はやっぱり何も言わずこちらに背を向けたまま歩き続けていて、足の長さが違うからなのか私がそのスピードについて行こうとすると少し小走りにならなきゃついては行けなかった。
それでも一定であるそのペースを掴むのは案外容易くて、私は彼の一メートルほど後ろから彼の歩く速度に合わせるようにしっかり足を前に動かし続けた。
「挨拶をするのは嫌いですか?」
「……」
「それとも話すことそのものが嫌いですか?」
「……」
ここまでくれば私にだって耐性というものがついてくるわけで…
もちろん言葉を返して欲しい気持ちはどうやったって無くならないけれど、もう無視をされることそのものにショックなんて何も感じなくなっていた。
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