第56話

私が動きを止めた彼を不自然だと思ったのは、私が声をかける直前に鍵穴に差し込まれた鍵に彼はずっとそのままの状態で手を添えていた上に、顔はドアの方へと向けられたままだったからだ。



「えっとっ…お仕事帰りですかっ!?お疲れ様です!」



そう声をかけながらタン、タン、と微妙に離れていた彼との間の距離を埋めるように私は自分の部屋の玄関前へと足を進めた。


その間彼からの返答は何もなく、顔も依然正面にあるドアへと向けられたままだった。



聞こえてる…よね?



その反応は想定外だったけれど、一応動きを止めてくれた彼に一切引く気のない私はまたすぐに口を開いた。



「昨日はあんな挨拶…ていうか洗剤なんか渡しちゃってごめんなさい!」


「……」


「ここって洗濯機置けないからたぶんみんなコインランドリーですよね!?それなら洗剤なんかもらったところで使い道なんてないですよね!?」


「……」


彼が動きを止めた瞬間から実は心臓がバクバクと激しく暴れていた私は、ついついテンションも声の大きさも間違えてしまった。


偶然を装いたいならもっと落ち着いて自然な話し方で声をかけるべきだったのに、気持ちが前のめりになっていたせいか私の話し方はずっとどこか焦っているようだった。



何も言わないあたりからすると、彼はきっと私に声をかけられたことをあまりよくは思っていないのだろう。


それなら冷たい態度を取られるのだって一瞬で覚悟をした私だったけれど、彼はやっぱり動きを止めたままでこちらを見ようともしない。



「……」


「……」


昨日に引き続き、また訳の分からない状況になってしまった。



ていうか直接話しかけたのにこちらを見ようともしないなんて想定外すぎる。


でも、私にその意思がない以前に声をかけたからにはどうやったって引くことはできない。





「あの…そこでなんですけど…何が良かっ———…」



「……」



その直後、いきなりこちらに顔を向けた彼に私は思わず話すのをやめた。




…何の反応も示さないのかと思えば急にこっちを向くなんて、本当にこの人は何もかもが想定外すぎる———…


目が合ったその瞬間指先が震えるのが分かって、それを悟られないように私は鞄を持つ手にグッと力を入れた。



それでも彼はやっぱり何も言わなかったけれど、その目はしっかりと私を見ていた。


彼の目は少し黒目が大きな奥二重で、その目を見つめ返していると私はさっき自分が何を言おうとしていたのかを一瞬で忘れてしまいそうになった。



それと同時に、さっき駅で目が合ったと思ったのは気のせいだったんだなと思った。

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