四季くんを思い出して、虚しくなった。



こんな時に彼を思ったって、どうにもならないのに…



「離してっ…!」



掴まれた腕を引き離すように抵抗を続けると、少しだけバランスを崩した男子が、わたしの腕を掴んだまま地面に崩れた。



腕を掴まれているわたしの体も、同時に地面へと引っ張られる。



咄嗟に両手を付いて身を守ったわたしは、地面に付いた手の土を払いながら、腕が自由に動く事に気づいた。



すぐ視線を隣へ向けると、松葉杖が転がり、わたしと同じように男子も両手を付いていた。



ついでにギブスをしている足も庇ったようで、



「いってぇな…!」



バランスがとれない体で、必死に起き上がろうとしている。



逃げるチャンスだと思った。



今ならわたしは逃げれると思った。



すぐに鞄を引っ付かんで、足に付いた泥も払わずがむしゃらに走り出した。



「あっ!おい!!彩!!」



怒鳴る声を振り切るように走り、病院の敷地内を出てバス停へと急ぐ。



だけど、バスがすぐ来ないかもしれない。


そしたら追いつかれてしまうかもしれない。



わたしは咄嗟に進路を変えて、横断歩道を渡った。



バスに乗らずに家まで走って帰るのは流石に無理がある。


だから、家へ帰るよりもまだ近い場所を選んだ。



そこへ着いた頃には、夜道を照らすように街灯が灯り、わたしは息も切れ切れの状態。



ポケットから携帯電話を取り出し、



「…亜美っ」



助けを求めて電話をかけた。



家の前に居ると伝えると、すぐに電話は切れ、亜美が玄関から勢い良く姿を表した。




血相変えて近づいて来る亜美に「どうしたの!」と肩を支えられ、そのまま家の中に誘導された。



「こんな時間にすみません…」



一言ご両親に声をかけたわたしを、亜美は自分の部屋へと連れて行ってくれた。



見慣れた室内の、座りなれた場所へ腰をおろす。



「もっと早く連絡くれれば、迎えに行ったのに…」



亜美はわたしの隣に座ると「どうしたの…」と、見つめてくる。



「…わたし、あの後病院に行ったの」



学校を出て、亜美と別れてバスに乗ってからの経緯を少しずつ語った。



「…病院?」


「四季くんが入院してた病院」



わたしがそう言うなり、亜美の表情が曇った。


亜美は四季くんの事を良く思ってない…



「四季くんが入院してた病室に行ったら、四季くんの名前がまだあって…」


「えっ…?」


「てゆうか、何から話せば良いか分からないんだけど…知らない男の人に『彩』って言われて、」


「知らない男…?」


「凄く怒られた…どこかに連れて行かれそうだったから、逃げて来た」



うまく説明が出来ないわたしの話に、亜美が絶句する。



「怖かった…」



そう呟くと、やりきれない様な面持ちで、亜美がわたしの背中に優しく触れた。



「ちょっと待ってて」



そう言って立ち上がった亜美は部屋を出ると、温かい飲み物をマグカップに入れて持って来てくれた。



「とりあえず落ち着こ…」



亜美に言われてマグカップを手に取ると、温かい物が体に染渡る。



「だいぶ落ち着いた」



わたしがそう口にすると、



「あのね…」



待ってましたと言わんばかりに、亜美が話を切り出す。



「あたしの話、聞いてくれる…?」



そして、神妙な面持ちで続けた。



わたしは一つ頷き、亜美の話に耳を傾けた。



「彩は、忘れてるの…」


「…何を?」


「四季くんの事…」


「え?」


「四季くんの事ってゆうか…ある一定の期間のこと…」


「え?どうゆう事?わたし四季くんの事覚えてるよ?」


「違うの…そうじゃない」



首を横に振る亜美も、何から話せば良いのか整理が出来てないように思えた。



「彩は、四季くんがどんな人か知ってる?」


「…四季くんは…」


「四季くんが何してる人か知ってる?」


「…知らない」


「四季くんが何歳かわかる?」


「わからない…」



わたしは四季くんの事を何も知らない。



「違う…知ってるの…」


「え?」



真面目な顔で亜美がわたしを見るから、事実なのかもしれないと理解出来る。


だけど言ってる意味は理解出来ない。



「彩は知ってる。だけど忘れてるの」


「な、なに?」


「精神的な事が関係あるみたい…ショックな出来事があって、辛い現実を目の当たりにした時、彩は自分の心を守る為にその出来事を忘れたの」


「わた、し…記憶喪失って事…?」


「そうだね…特定の所だけ記憶が無い…でも忘れてるだけ。本当は知ってる」


「…怖いっ…」


「ごめん…、何度も言おうと思った!でも、彩が忘れたいんなら、言わないでおこうと思って…」


「わた、わたし、四季くんの何を知ってるの…?」


「それは、」


「あの、松葉杖の人は誰!あの人の事もわたしは知ってるの!?」



まくし立てるように投げかけた言葉は、亜美を責める形になってしまった。



亜美が辛そうに眉を垂らしたから、ハッとして幾分冷静さを取り戻した。



「初めから説明してほしい…何がどうなってるのか、分からない…」



わたしがそう呟くと、彩が小さく息を吸い込んだ。



「あのね、彩には付き合ってる人が居た」


「…えっ」



思いがけない言葉に、ショックよりも驚いた。



「一応、まだ付き合ってる状況だと思う」


「え…」


「付き合う前はわからなかったんだけど…」



わたしに彼氏とゆう存在が居たなんて、想像も出来ない。



「その人、彩に対して束縛するところがあって…最初はヤキモチだと思ってた。でも、彩がすぐに連絡をしなかったり、会えないって言うと凄く怒るようになって、あたしと遊ぶ事にも制限して…束縛が度を越してきた」



知らない…



「だけど、彩は我慢してた。その人の事好きだから…あたしとも学校以外で会わなくなって…」


「…そんなっ」


「丁度その頃だよ、彩に暴力を振るうようになった…」


「えっ…?」


「殴る蹴るは当たり前で…彩も限界で。彩は何度も別れるって言ったけど、その度に暴力振るわれて、別れてくれなかった…」



思い出せない…



「彩達が付き合って半年ぐらい経った頃かな…四季くんと出会ったの」



ここで出て来たその名前に、胸がトクンと音を立てた。



「四季くんは全て知ってて、彩の支えになってくれてた」



四季くん…



「彩が毎日バスに乗って通学してるから、バス停まで一緒に行ってくれたり…毎日連絡とって、休みの日にはあたしも誘ってくれて、遊びに連れて行ってくれたりもした」



四季くん…



「そうやって段々、彩とその人が会わないようになって…自然消滅みたいになったと思ったんだけど…」


「……」


「彩が四季くんと会ってるのを知って、学校の前で待ち伏せされた…」



わたしはどこか、客観的に亜美の話を聞いていた。


自分に起きた出来事ではなく、一つの物語を聞いているような…



「彩がっ…目の前で…引きずり回されて…」



亜美が今にも泣きそうだったから、わたしの表情も歪む。



「あたしっ…やめて!って、叫ぶ事しか出来なくて…彩が…殺されると思ったっ…」



わたしはやっぱり思い出せないでいた。


思い出したくないのかもしれない…



「学校の前だったし、人通りも少しあって、誰かが『警察呼ぶ!』って叫んで…そしたら、やっとやめてくれて…」


「うん…」


「それで病院に行って…」


「亜美…」


「ごめんっ…」


「亜美、」


「ごめん彩っ…」



亜美は泣いてた。



亜美の涙にでさえ、わたしは実感が持てない。



「四季くんにもすぐその事が伝わって…四季くん、凄く怒ってて…四季くんが怒ってるところ初めて見たから…」



わたしも、彼が怒っているところなんて想像がつかない。



「その日の内に、四季くんがその人に会いに行ったらしいの…」


「えっ?」


「四季くん、その人の事…入院しちゃうぐらいの酷い怪我負わしちゃって…」


「四季くんがっ?」


「うん」


「そんな…」


「あたしも驚いたよ!でもホッとした…入院したなら、彩には近づけない…」



これだけの事を聞いても、わたしは信じられない程記憶になかった。



「でも…」



亜美が視線を落とす。



「それで終わらなかった…今度は、四季くんが狙われた…」


「えっどうして…?その人入院したんでしょ…?」


「したよ…だから別の人にやられたの…」


「何でっ…どうして…」


「頼んだんだよ…入院して動けないから、自分の仲間に頼んで、四季くん襲ったんだよ…」



その言葉を聞いて絶句するわたしに、



「しかも、彩の目の前で…」



亜美は信じられない事を口にした。



「わ、わたし…居たの…?」


「うん…」


「偶然かわざとかは分からない…だけどその日、彩と四季くんは一緒に居て、彩の目の前で複数の人に襲われたって…」


「分からない…」


「彩が救急車呼んだんだよ…!」


「知らない…分からない…」


「警察沙汰にもなって、病院にも警察が来たって…」


「知らない…記憶にない…」



だけど、



「四季くん、凄い怪我だった…顔面血だらけで…わたしが見かけた時には、四季くん意識なくて…この人死んでる…って思った…」



そこからは、何となく覚えてる。



「彩はその時、四季くんを見つけて助けたって思ってるけど、違うんだよ…」


「覚えてない」


「彩はずっと四季くんと居たの…」



分からない…



わたしはその時、あまりにも大きなショックを受けて、心が悲鳴をあげて…


思い出したくない記憶を、自ら手放してしまった…とゆう事になる。



「彩が四季くんの話をする時に、いつもと違う事に気づいて、一定期間の記憶がないってわかってあたしも驚いた。そんな筈ないって思った。でも、彩の両親が専門医に相談して…」


「親が…?」


「うん…それで、精神科を受診したんだよ」


「あたし、そんなの…」


「覚えてない?」


「病院には行ったかも…」


「行ってるんだよ」


「うちの親、どこまで知ってるの?」


「彩が彼氏に暴力振るわれてた事も知ってるし、四季くんが彼氏から守ってくれようとしてたのも知ってる」


「…そ、んな…」


「四季くんは…四季くんの事を忘れてるわたしに、お見舞いに来るように言ったの…?」


「そうだと思う…」


「でも、亜美、四季くんの所には行くなって言ったよね?わたしてっきり、亜美は四季くんが嫌いなんだと思って…」


「そうじゃない…あたしの自分勝手な言い分なの…彩から四季くんの話を聞くのが辛かったから」


「ごめんね、忘れてしまって…」


「そうじゃない。どっちにしたって辛いのは彩…」


「…四季くんは?今どうしてるの…?」



亜美は申し訳なさそうに首を横に振った。



「あたしにはわからない…でも、退院したなら四季くんが彩から離れるのは腑に落ちないよ」


「…ねぇ、」



わたしは何も思い出せないけど、別に鈍い訳じゃない。



「わたしが付き合ってた人って…」


「…うん」


「松葉杖…の…?」


「多分…さっき彩が遭遇したってゆう人で、間違いないと思う」



…やっぱり。



「あの病院に通ってるみたいだった…」


「四季くん知ってたのかな…?」



無性に、四季くんに会いたかった。


この3ヶ月の間で、一番会いたいと思った。



「病院に行くの、危険じゃない…?」



亜美は心配そうにわたしの顔を伺う。



「でも、行かなきゃ…他に確かめる方法がないもん…」


「じゃあ彩の親に頼んで…」


「お願い…親には言わずに行かせて」

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