5
四季くんを思い出して、虚しくなった。
こんな時に彼を思ったって、どうにもならないのに…
「離してっ…!」
掴まれた腕を引き離すように抵抗を続けると、少しだけバランスを崩した男子が、わたしの腕を掴んだまま地面に崩れた。
腕を掴まれているわたしの体も、同時に地面へと引っ張られる。
咄嗟に両手を付いて身を守ったわたしは、地面に付いた手の土を払いながら、腕が自由に動く事に気づいた。
すぐ視線を隣へ向けると、松葉杖が転がり、わたしと同じように男子も両手を付いていた。
ついでにギブスをしている足も庇ったようで、
「いってぇな…!」
バランスがとれない体で、必死に起き上がろうとしている。
逃げるチャンスだと思った。
今ならわたしは逃げれると思った。
すぐに鞄を引っ付かんで、足に付いた泥も払わずがむしゃらに走り出した。
「あっ!おい!!彩!!」
怒鳴る声を振り切るように走り、病院の敷地内を出てバス停へと急ぐ。
だけど、バスがすぐ来ないかもしれない。
そしたら追いつかれてしまうかもしれない。
わたしは咄嗟に進路を変えて、横断歩道を渡った。
バスに乗らずに家まで走って帰るのは流石に無理がある。
だから、家へ帰るよりもまだ近い場所を選んだ。
そこへ着いた頃には、夜道を照らすように街灯が灯り、わたしは息も切れ切れの状態。
ポケットから携帯電話を取り出し、
「…亜美っ」
助けを求めて電話をかけた。
家の前に居ると伝えると、すぐに電話は切れ、亜美が玄関から勢い良く姿を表した。
血相変えて近づいて来る亜美に「どうしたの!」と肩を支えられ、そのまま家の中に誘導された。
「こんな時間にすみません…」
一言ご両親に声をかけたわたしを、亜美は自分の部屋へと連れて行ってくれた。
見慣れた室内の、座りなれた場所へ腰をおろす。
「もっと早く連絡くれれば、迎えに行ったのに…」
亜美はわたしの隣に座ると「どうしたの…」と、見つめてくる。
「…わたし、あの後病院に行ったの」
学校を出て、亜美と別れてバスに乗ってからの経緯を少しずつ語った。
「…病院?」
「四季くんが入院してた病院」
わたしがそう言うなり、亜美の表情が曇った。
亜美は四季くんの事を良く思ってない…
「四季くんが入院してた病室に行ったら、四季くんの名前がまだあって…」
「えっ…?」
「てゆうか、何から話せば良いか分からないんだけど…知らない男の人に『彩』って言われて、」
「知らない男…?」
「凄く怒られた…どこかに連れて行かれそうだったから、逃げて来た」
うまく説明が出来ないわたしの話に、亜美が絶句する。
「怖かった…」
そう呟くと、やりきれない様な面持ちで、亜美がわたしの背中に優しく触れた。
「ちょっと待ってて」
そう言って立ち上がった亜美は部屋を出ると、温かい飲み物をマグカップに入れて持って来てくれた。
「とりあえず落ち着こ…」
亜美に言われてマグカップを手に取ると、温かい物が体に染渡る。
「だいぶ落ち着いた」
わたしがそう口にすると、
「あのね…」
待ってましたと言わんばかりに、亜美が話を切り出す。
「あたしの話、聞いてくれる…?」
そして、神妙な面持ちで続けた。
わたしは一つ頷き、亜美の話に耳を傾けた。
「彩は、忘れてるの…」
「…何を?」
「四季くんの事…」
「え?」
「四季くんの事ってゆうか…ある一定の期間のこと…」
「え?どうゆう事?わたし四季くんの事覚えてるよ?」
「違うの…そうじゃない」
首を横に振る亜美も、何から話せば良いのか整理が出来てないように思えた。
「彩は、四季くんがどんな人か知ってる?」
「…四季くんは…」
「四季くんが何してる人か知ってる?」
「…知らない」
「四季くんが何歳かわかる?」
「わからない…」
わたしは四季くんの事を何も知らない。
「違う…知ってるの…」
「え?」
真面目な顔で亜美がわたしを見るから、事実なのかもしれないと理解出来る。
だけど言ってる意味は理解出来ない。
「彩は知ってる。だけど忘れてるの」
「な、なに?」
「精神的な事が関係あるみたい…ショックな出来事があって、辛い現実を目の当たりにした時、彩は自分の心を守る為にその出来事を忘れたの」
「わた、し…記憶喪失って事…?」
「そうだね…特定の所だけ記憶が無い…でも忘れてるだけ。本当は知ってる」
「…怖いっ…」
「ごめん…、何度も言おうと思った!でも、彩が忘れたいんなら、言わないでおこうと思って…」
「わた、わたし、四季くんの何を知ってるの…?」
「それは、」
「あの、松葉杖の人は誰!あの人の事もわたしは知ってるの!?」
まくし立てるように投げかけた言葉は、亜美を責める形になってしまった。
亜美が辛そうに眉を垂らしたから、ハッとして幾分冷静さを取り戻した。
「初めから説明してほしい…何がどうなってるのか、分からない…」
わたしがそう呟くと、彩が小さく息を吸い込んだ。
「あのね、彩には付き合ってる人が居た」
「…えっ」
思いがけない言葉に、ショックよりも驚いた。
「一応、まだ付き合ってる状況だと思う」
「え…」
「付き合う前はわからなかったんだけど…」
わたしに彼氏とゆう存在が居たなんて、想像も出来ない。
「その人、彩に対して束縛するところがあって…最初はヤキモチだと思ってた。でも、彩がすぐに連絡をしなかったり、会えないって言うと凄く怒るようになって、あたしと遊ぶ事にも制限して…束縛が度を越してきた」
知らない…
「だけど、彩は我慢してた。その人の事好きだから…あたしとも学校以外で会わなくなって…」
「…そんなっ」
「丁度その頃だよ、彩に暴力を振るうようになった…」
「えっ…?」
「殴る蹴るは当たり前で…彩も限界で。彩は何度も別れるって言ったけど、その度に暴力振るわれて、別れてくれなかった…」
思い出せない…
「彩達が付き合って半年ぐらい経った頃かな…四季くんと出会ったの」
ここで出て来たその名前に、胸がトクンと音を立てた。
「四季くんは全て知ってて、彩の支えになってくれてた」
四季くん…
「彩が毎日バスに乗って通学してるから、バス停まで一緒に行ってくれたり…毎日連絡とって、休みの日にはあたしも誘ってくれて、遊びに連れて行ってくれたりもした」
四季くん…
「そうやって段々、彩とその人が会わないようになって…自然消滅みたいになったと思ったんだけど…」
「……」
「彩が四季くんと会ってるのを知って、学校の前で待ち伏せされた…」
わたしはどこか、客観的に亜美の話を聞いていた。
自分に起きた出来事ではなく、一つの物語を聞いているような…
「彩がっ…目の前で…引きずり回されて…」
亜美が今にも泣きそうだったから、わたしの表情も歪む。
「あたしっ…やめて!って、叫ぶ事しか出来なくて…彩が…殺されると思ったっ…」
わたしはやっぱり思い出せないでいた。
思い出したくないのかもしれない…
「学校の前だったし、人通りも少しあって、誰かが『警察呼ぶ!』って叫んで…そしたら、やっとやめてくれて…」
「うん…」
「それで病院に行って…」
「亜美…」
「ごめんっ…」
「亜美、」
「ごめん彩っ…」
亜美は泣いてた。
亜美の涙にでさえ、わたしは実感が持てない。
「四季くんにもすぐその事が伝わって…四季くん、凄く怒ってて…四季くんが怒ってるところ初めて見たから…」
わたしも、彼が怒っているところなんて想像がつかない。
「その日の内に、四季くんがその人に会いに行ったらしいの…」
「えっ?」
「四季くん、その人の事…入院しちゃうぐらいの酷い怪我負わしちゃって…」
「四季くんがっ?」
「うん」
「そんな…」
「あたしも驚いたよ!でもホッとした…入院したなら、彩には近づけない…」
これだけの事を聞いても、わたしは信じられない程記憶になかった。
「でも…」
亜美が視線を落とす。
「それで終わらなかった…今度は、四季くんが狙われた…」
「えっどうして…?その人入院したんでしょ…?」
「したよ…だから別の人にやられたの…」
「何でっ…どうして…」
「頼んだんだよ…入院して動けないから、自分の仲間に頼んで、四季くん襲ったんだよ…」
その言葉を聞いて絶句するわたしに、
「しかも、彩の目の前で…」
亜美は信じられない事を口にした。
「わ、わたし…居たの…?」
「うん…」
「偶然かわざとかは分からない…だけどその日、彩と四季くんは一緒に居て、彩の目の前で複数の人に襲われたって…」
「分からない…」
「彩が救急車呼んだんだよ…!」
「知らない…分からない…」
「警察沙汰にもなって、病院にも警察が来たって…」
「知らない…記憶にない…」
だけど、
「四季くん、凄い怪我だった…顔面血だらけで…わたしが見かけた時には、四季くん意識なくて…この人死んでる…って思った…」
そこからは、何となく覚えてる。
「彩はその時、四季くんを見つけて助けたって思ってるけど、違うんだよ…」
「覚えてない」
「彩はずっと四季くんと居たの…」
分からない…
わたしはその時、あまりにも大きなショックを受けて、心が悲鳴をあげて…
思い出したくない記憶を、自ら手放してしまった…とゆう事になる。
「彩が四季くんの話をする時に、いつもと違う事に気づいて、一定期間の記憶がないってわかってあたしも驚いた。そんな筈ないって思った。でも、彩の両親が専門医に相談して…」
「親が…?」
「うん…それで、精神科を受診したんだよ」
「あたし、そんなの…」
「覚えてない?」
「病院には行ったかも…」
「行ってるんだよ」
「うちの親、どこまで知ってるの?」
「彩が彼氏に暴力振るわれてた事も知ってるし、四季くんが彼氏から守ってくれようとしてたのも知ってる」
「…そ、んな…」
「四季くんは…四季くんの事を忘れてるわたしに、お見舞いに来るように言ったの…?」
「そうだと思う…」
「でも、亜美、四季くんの所には行くなって言ったよね?わたしてっきり、亜美は四季くんが嫌いなんだと思って…」
「そうじゃない…あたしの自分勝手な言い分なの…彩から四季くんの話を聞くのが辛かったから」
「ごめんね、忘れてしまって…」
「そうじゃない。どっちにしたって辛いのは彩…」
「…四季くんは?今どうしてるの…?」
亜美は申し訳なさそうに首を横に振った。
「あたしにはわからない…でも、退院したなら四季くんが彩から離れるのは腑に落ちないよ」
「…ねぇ、」
わたしは何も思い出せないけど、別に鈍い訳じゃない。
「わたしが付き合ってた人って…」
「…うん」
「松葉杖…の…?」
「多分…さっき彩が遭遇したってゆう人で、間違いないと思う」
…やっぱり。
「あの病院に通ってるみたいだった…」
「四季くん知ってたのかな…?」
無性に、四季くんに会いたかった。
この3ヶ月の間で、一番会いたいと思った。
「病院に行くの、危険じゃない…?」
亜美は心配そうにわたしの顔を伺う。
「でも、行かなきゃ…他に確かめる方法がないもん…」
「じゃあ彩の親に頼んで…」
「お願い…親には言わずに行かせて」
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