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第9話
何に対して傷ついたのか、最早分からなかった。
伯爵に抱えられて部屋に連れ戻されたミーシャはその日、一睡もする事なくただ、天井だけを眺めていた。
その後二人がどうなったのか、一晩待っていたが報告が入る事はなかった。冷たく二人を放り出した伯爵を恨めしく思えば良いのか、助けに走ってくれなかった兵士を恨めば良かったのか、否、元凶が二人を連れだした自分である事だけは暗く静かで、永遠に続きそうな程長い夜が嫌でもミーシャに解を与えた。最初こそ伯爵の強い言葉を昇華できずに苦しんだが、伯爵もまた、生贄なる命を見捨ててまで拾いたい領民である二人の侍従をミーシャのせいで失ったかも知れない事を理解した。
自分の命を、いつの間にか過大評価していたんだな、とぼんやり、泣きはらした目を天井に向けたまま、思う。
伯爵にとって特別になる事は、伯爵と同等の地位に立てる事だと勘違いしていたのかも知れない。そんな事を望んだ訳ではなかったはずなのに、いつ心に驕りが生まれてしまったのか、ミーシャ自身にも分からなかった。ただ誰かにとっての特別になりたかった筈が、特別であるが故の優越感の味を知り、溺れた結果が今だ。
(……二人が死んでしまったら、どうしたら)
高くついた勉強代、などでは済まない。
ミーシャが驕った後も変わらず勤めていてくれた彼らは、おそらく、ミーシャの変化に誰よりも先に気が付いていた事だろう。思えば、気になる表情をしていた事があったような、気がしないでもない。彼らはその立場上か、ミーシャを強く非難するように諫める事はなかった。生贄であるミーシャを軽んじず、誠心誠意尽くす事を仕事とするカタールとカシミーアは、決してミーシャを邪険にすることなどなかった。尊大な態度をとった事があったかも、横柄な対応をしてしまった事があったかも、覚えはないが、自分の浅はかさを思い返せば、おそらくあったのだろうなとは思う。そういった時にも、生意気な、何様だとは決して言わず、二人はいつもと変わらぬ態度で「はい」と、そう言っていたように思う。今になって思えばでしかないのだが、その笑顔が少し曇っていたような気がしてくるから、心の目の曇りとはどうしようもない。
狩りにと言った時も、伯爵がいる時にと二人はやんわりと提言していた。だが、二人が付いてくれているから平気だと強行したのは自分で、橋を越えて走り出し、危険だ行くなと言われたものを聞く耳持たなかったのも自分だ。それなのに、二人だけが帰らない。ミーシャだけが安全に、兵士を引き連れ伯爵に抱かれ、帰城した。
(頼むから)
ミーシャは体を丸め、もう何度目になるかも分からない祈りを捧げる。どうか二人の命を助けてくれと願うしか、ミーシャに出来る事はない。
明けてからも、ミーシャの部屋を訪ねて来る者はなかった。
さっぱりと腹は空かぬながら、習慣で、いつもならそろそろ兄弟のどちらかが迎えに来る頃なのに、などとぼんやり思っていると、扉をノックする音がした。伯爵はノックなどしないから、反射的に飛び起きた。
「はい!」
二人のどちらかか、それとも二人共か。ミーシャは飛び上がって扉に向かう。力いっぱい扉を開くと、そこに佇んでいたのは見知った顔ではなかった。目を丸くするばかりのミーシャに、苦い顔をした見知らぬ男は小さく頭を下げた。
「……本日よりミーシャ様のお世話をさせて頂く事となりました、お付侍従を仰せつかったカロンと申します」
へなへなと、ミーシャは床に座り込む。
目の前で起こっている事が何を意味するのか、確認する勇気がない。それを尋ねてしまったら、もう戻れない。
カロンは下げていた頭をゆっくりと上げて、伏し目がちに言う。
「お食事の準備が出来ております。ミーシャ様」
確認せずにはいられないが、言葉が喉を通らなかった。唇を震わせるばかりで言葉を発する事が出来なかったミーシャは、よろよろと、カロンに続いて食堂へと向かう。ぐるぐると頭を巡るのはただ、あの二人の事だけだった。まさか、であるとか、そんな筈は、であるとか、希望を捨て難く目を泳がせてばかりいたミーシャだが、目の前を歩くカロンの見慣れぬ背中に、涙が浮かぶ。最悪の結果しか、考えられなくなっていた。生きていたならば、それを隠す意図に見当が付かない。
(どうしよう、どうしたら)
がたがたと震えるミーシャが食堂に入ると、既に伯爵が席についていた。涙目のミーシャを一瞥し、伯爵は座れ、と目で促してくる。半ば崩れ落ちるようにしてミーシャが座ると、さっと全員が席を外す。初めから人払いが指示されていたのか、食事は随時運ばれてくるわけではなく、既にテーブルに並んでいた。
二人きりになっても、伯爵は何を語り掛けてくるでもなかった。ただ黙々と食べ続ける姿を呆然と見つめながら、ミーシャはぽつりと、漸く口火を切る。
「……二人は、どうなったの」
「さあ」
間髪入れずに返答はあったが、解は得られない。ミーシャはわなわなと震える拳を握りしめたまま、唇を噛む。責められる事への恐怖や、不要だと捨てられる恐怖、カタールとカシミーアの二人の現状全てがミーシャの驕りである事への恐怖、ーー人を殺してしまったかもしれない、恐怖。ミーシャの心を完全に支配している恐怖が、どうあっても全身を震わせて止まない。抑え込もうとしても、胸が苦しくて息も出来ない。
「さあって、何」
言葉を発する事すらも、苦痛だ。動悸が口から漏れそうで、ミーシャは方々の程で、何とか息を吸い、言葉をのせて吐き出す。
「さあ、としか」
伯爵は口元を拭いながら、至って冷静に言う。
「帰ってこない、としか答えられぬ」
眉根を寄せるミーシャに、伯爵は食事を終えたのか手を完全に止め、真っ直ぐにこちらを見た。やっと、こちらを見た。
「死体を確認した訳でも、生存を確認した訳でもない。ただ、あれきり戻って来ない。だから、さあ、としか言えぬ」
伯爵は徐に立ち上がると、座していた椅子を掴んでこちらに向かって歩いて来ると、ミーシャの直ぐ側にどっかりと座り込んだ。足を組み、仰け反るように背凭れを使う。
「生きていても戻れない状況にあるのか、死んだか。我々も把握していない。戻らない以上、お前の世話をする侍従の仕事に穴は開けられぬ。だから、カロンに任せた。何か問題が?」
「……カロンの事じゃ、なくて」
ミーシャは伯爵の目を見つめている事が出来ず、俯く。
「二人を、探してくれないの?」
「言ったろう。あの時助けに行かなかった事と同じだ。危険と知っていて、人は出せない。不注意を犯した者の責任に対し、他の命を懸ける事を私は良しとしない」
「心配じゃないの!」
ミーシャは思わず、叫ぶ。伯爵が二人を心配していない筈はないと思うのに、あまりにも淡々とした言い草につい、言葉が口を吐いた。失言にはっと顔を上げたミーシャに対し、伯爵は怒るでもなく、やはり淡々と告げる。
「私は、伯爵である。この城を、領土を、領民の全ての命を預かる責務を負うが故に贅沢な暮らしを赦される、このレノで最も尊い身だ。私の役目は、一人でも多くの領民の命を守る事。二人の為に、他の兵士を危険に晒す事が、本当に正義か」
伯爵はずいと身を乗り出し、ミーシャの目を覗き込む。
「私にとって、それは否と言わざるを得ない。カタールとカシミーアは、幼い頃よりこの城で育てた私が守るべき愛しき部下達であるが、他の兵士達もまた、私の大切な部下である。分かるな?」
心配であるとか、心配でないとか、そういう問題ではないのだと、ミーシャは項垂れる。ミーシャのように何の責任もない人間とは感情の置き場が違う人間なのだ。
(……いや、そうせざるを得ない人なんだな)
伯爵にだって感情はあり、愛しき部下とまで言い切った二人を心配しているに決まっている。だが、そうと言う事は出来ない人間なのだと、ミーシャは項垂れた。二人の事はミーシャの責任だというのに、誰もそれを責めない。
「……僕が、生贄だから、誰も責めないの。責めてくれた方がいいのに、誰も、それをしてくれない」
「何も言わぬ方が堪える事だってある」
顔を上げるミーシャに、伯爵は前のめりにミーシャの目を覗き込んだまま、ふっと小さく笑った。途端に泣けて来る。
「責められなければ、罰せられなければ堪えぬ阿呆もいるが、お前はそうではないと思っている。ただ、それだけの事」
「……自分がどれだけ驕っていたのだろうと、後悔してる」
「うん」
「二人が死んでたらどうしようって、そればかり考えて、後悔してるっ」
震えるミーシャの手をとって、うん、と伯爵は優しく言う。
「何をどうしたら二人が帰って来てくれるだろうって、思ってる!」
ミーシャはとうとう伯爵の胸に飛び込んで、泣き崩れた。あんあんと泣くミーシャの頭をぽんぽんと優しく叩きながら、伯爵の落ち着いた声が降って来る。
「命だけは償いのしようがない。だから未来永劫、奪ってしまった命に対する後悔がついて回る。生贄を迎える我々はその覚悟を持って暮らしている。生贄を想う我々の気持ち、少しは理解出来たか」
うん、と嗚咽の中に返事をしたつもりだが、果たして声になったかは分からない。
「お前が本当に死なぬ生贄であったとしても、次が本当に死なぬのか誰にも分からない。お前は実際、驕っても良いだけの働きはしている。だからお前が驕り、踏ん反り返り、侍従をぞんざいに扱おうとも別に責めはしない。だが、命を粗末に扱った場合にはその限りではない。領民を助ける為にしている仕事だ。お前が領民を殺すならば本末転倒、我々は生贄よりも領民を選ぶだろう。言い方は悪いが、生贄は他にも、いる」
うん、と胸の中で頷くミーシャに、伯爵は続ける。
「だが、我々は本当に、死なぬ生贄を求めている。命を奪いたい訳では決してない。お前が今回の事で学び、改め、侍従の命を預かっているという責任を覚えてくれるならば、我々はお前をやはり、歓迎していたい。死なぬ生贄として、末永くここにいて欲しいと、心から願っている」
伯爵はぎゅっとミーシャを抱きしめ、囁くように言った。
「命への懺悔は、今この瞬間の反省でもって死なぬ生贄としての職務を全うする事で返せ。私達は死んでいった生贄達に対し、日々命がある事への感謝でもって応えると決めている。お前もまた、二人への懺悔は二人の気持ちに報いる事で返せ」
震えながら咽び泣くばかりのミーシャは、その胸の中で何度も何度も頷く。ミーシャの心が不安定である内は、仕事が出来ない。今の状況のままでは、働く事すら出来ないミーシャは、何とかして立ち直る他報いる術すらない事になる。
泣き続けるミーシャに、まあ、と伯爵は打って変わって可笑しそうに、軽い口調で言った。
「死んでいるとは限らんだろ、あの二人も」
「えっ」
「言ったろう。生きているか死んでいるか分からない、と。死んでいる事を確かめなければ、どこかで生きていると思えるではないか。お前の御守が嫌になって、これ幸いとばかりに逃げたのかも知れないだろう?」
ミーシャは鼻水を垂らした顔で、呆然と伯爵の顔を見上げた。
「……もしかして、それで生死の確認をしないの?」
伯爵は目を丸くして黙り、ふいとばつが悪そうに目を逸らした。
「何のかんのと言って、伯爵も確認するのが怖いから、確認しないんだ」
「うるさい」
図星であったようで、ミーシャは苦笑する。この人は伯爵としてとても強い信念のある人間だが、年相応に幼い部分のある、ミーシャと同じ、人間だ。
「確認しなければ、生きてるかも知れない、か。……生き残ってしまった僕にしてみれば、それって結構、救いというか」
「だろ。死というものは、実際にこの目で確認した瞬間に心に闇を落とす。確認しなければ、死んでる事になんてならない」
「いい事言う」
ミーシャはしみじみと言い、涙を手の甲で拭う。
「あははは、これが年の功だ!」
「四つしか違わないのに」
「四つも、違う」
執拗に訂正する伯爵が笑っているのを見ていると、段々と心が落ち着いて来た。ただ手をこまねいて二人の安否に恐れ戦くでなく、今、出来る事を考える事が出来る。やっと頭が働いて来たと言って良い。
「僕が、安否を確認に行きたいと言ったら、付いて来てくれる? 伯爵」
「死んでたらどうする」
「死んでても、連れて帰ってあげないと」
ミーシャは、野垂れ死ぬ者達を見て育って来た。大概が凍死か餓死であったが、蠅を集らせて周囲に疎まれ、苦い顔をされて捨て置かれる死体を、見て来た。見苦しいとばかりに土をざっとかけられて、骨になるまで臭いを放つ。動物に食い荒らされる遺体もあった。
生きていても碌な事がなかったというのに、死んでからもごみのようだなとミーシャは胡乱な目で、それを眺めていた。何のために生まれて来たのか皆目見当も付かない、あまりにも哀れな末路ばかりを見て来た。それがあまりにも当たり前の光景で、何も感じなくなっていくミーシャの心もまた、生きながらにして死んでいるに等しかった、あの頃。まさかそこを抜け出す機会が与えられるとは夢にも思わなかったし、今のミーシャはきっと、あんな風に打ち捨てられて死ぬ事はない。
ちらりと伯爵を見上げる。
(きっと、この伯爵が手厚く葬ってくれる。する必要のない無謀な狩りで死ぬんじゃなくて、ちゃんと仕事をして、生まれて来た価値をちゃんと抱いて皆の為になる死を迎えたらきっと、ちゃんと眠れるんだろうな)
ごみのようだ、などと誰かに思われるでなく。
邪魔だからとぞんざいに土をかけられるで、なく。
よくやったなと誰か一人にでも思われて、死んでいきたい。
「死んでたら、お墓を作りたい」
冷たい土の上に放置されて腐るのを待つ遺体には、したくない。自分が死んだ時にこうして欲しいと思う事をせめて、してあげたい。
「食い荒らされていてもか」
苦く言う伯爵に、ミーシャは一瞬それを想像する。当然、その可能性を考えていない訳ではない。
「……僕なら、たとえ首だけになっても、温かい居場所に帰りたい」
わなわなと震える手で伯爵の胸元の服を掴んだまま、ミーシャは俯く。
「カタールもカシミーアもこの城が好きで、この城に大切な人がいたから。二人共、帰りたいに決まってる」
「そのために、私の部下がいらぬ怪我をする事になってもか?」
「それを言われると、……これ以上は頼めないけど」
ミーシャは項垂れる。自分一人では助けに行けないから頼む他ないが、だからと言って他の怪我人を出したい訳ではない。ましてやミーシャの頼み事のせいで誰かが死ぬ羽目になったらと考えると、もう言葉がない。
「生死を確認しようと思うあたり、お前は私より強いな」
「え?」
言われてはっと顔を上げると、伯爵は苦く鼻の頭を指先で搔いている。はあ、と溜息を吐き、今回だけだ、と小さく言った。
「実は、次に大きな仕事が入っている。今までとは違い、人を呪い殺すつもりだ」
ミーシャは生唾を飲む。恐怖からではなく、伯爵が人を殺さなければならない事に対して。
「大抵の生贄は、……人を殺す時の反動で死ぬ」
「うん」
ミーシャは小さく頷くだけだ。カタールとカシミーアの安否に比べたら、自身の死の確率の話など、生憎と恐ろしくもなんともない。
「生き残ったらなんでも褒美をとらせようと思っている。その褒美の、先払いでどうだ」
ぽかん、とミーシャはその言葉を何度も反芻し、ぺこりと頭を下げた。生き残るか分からないというのに、生き残った後に貰える筈の褒美を先にくれるという。
(なんだかんだ、……優しい)
ミーシャは絶えぬ感謝に、中々頭を上げる事が出来なかった。
カタールとカシミーアの捜索は、その日のうちに始められた。
一気に片を付けると伯爵は言った。その日のうちに見つからない場合には諦めると最初に宣言され、捜索隊は精鋭を数十人配置、正に短期決戦を仕掛けた形らしい。長々と捜索するには人員を割く余裕がなく、また捜索範囲が広すぎると説明を受ける。
ミーシャは捜索に出かける一人一人に頭を下げて、お願いをして回った。皆嫌な顔一つせず、無事だといいがと言ってくれる。
随行は許されなかった。
ミーシャを補助する人手を割く位なら、一分一秒を惜しんで二人を探した方が効率が良いだろうと言われては、そうかとしか言えない。日没までと時間を限定された大捜索にあたり、そうは言ってもじっとしていることなど出来ず、ミーシャは邪魔にならないようにと架け橋の上で、じっと捜索の様子を見守った。
そんなミーシャに付き合ってくれたのは、ユージンとカロンだった。
「……正直、確率として、どの位だと思いますか」
ミーシャがユージンに問うたのは捜索が始まってどの位が経った頃だったのか、時間への焦りがミーシャの額に浮かんでいた。
「五分五分です」
ユージンはさらりと、そしてはっきりと言った。
「わあ割と確率高い、と喜ぶところ? 絶望するところ?」
「喜ぶところですかね。丸一日が経過しているのですから、生きていたらとっくに帰って来ているでしょう、普通」
「ですよね」
限りなく可能性が低いように思えるが、ユージンはそれでも五分五分だと言った。
「どの辺りに五分の可能性があるのか、聞きたい。……です」
ユージンは手を後ろで組んで、捜索が行われているである方向を眺めながら言う。
「あの二人、個々の能力が比較的高いので。弓も使えますし、剣も一通りは使えます」
「そうなんですか?」
「元々は兵士志願で。二人の父親ガジルは腕の立つ剣士で、兵士長を拝命されていましたが、伯爵様を守り殉職を。それで確か、カタールの方が剣を握れなくなったんでしたか。それを受けて、侍従へと転向を。カシミーアも、なんとなく兄に付いて行って」
そうなんだ、とミーシャは呟く。知らなかった。
「ですがまぁ、元々その腕を期待されていた若者達でしたから、それなりに腕が立つ筈です。腕が鈍っていなければ、或いは」
ちらり、とユージンが視線を向けた先を見遣ると、一人の兵士がこちらに向かって小走りにやって来る所であった。近くまでやってきて、小さく頭を下げる。
「現状のご報告を」
「お願いします」
ユージンが兵士に体を向けると、頭を下げたまま兵士は言った。
「腕が、見つかりました」
頭が兵士の言葉を理解する前に、ふらりとミーシャがよろけた。ユージンは支えてくれるでなく、片手でミーシャの背を跳ね返すようにして押す。後ろにはひっくり返らなかったが、へなへなとその場に座り込んだ。
「幾つです」
「左腕、一つ。カタールか、カシミーアか、どちらのものかは分かりません。血痕が点々と続いており、今追っている所です」
「何しかの形で、見つかるのも時間の問題ですね。カロン、直ぐに救護班に大量失血の可能性について伝達を」
「嚙み千切られたように見受けますが、食われた様子はなく。逃げた後を追ったのか、獣らしき遺体はなし」
がくがくと震える手を何とか握り込むも、橋が揺れているのではと思う程に視界が歪んでいる。覚悟はしていたつもりだが、生々しい報告に意識が遠のいて来たのは事実だった。ぐるぐると悪い思考が頭を巡り始めるミーシャが呆然と橋板を見つめている内に、続くようにしてまた一人、兵士が走って来る。
「見つかりました」
二人目の兵士の報告に、ミーシャははっと顔を上げる。見つかった、と喉の奥で低く呟くミーシャは、次の言葉を聞きたいのか聞きたくないのか、ごちゃ混ぜになった感情に吐き気を覚える。喉元まで吐瀉物が上がって来るのを感じたが、なんとかそれを飲み下した。
「生死の報告を」
ユージンが、ミーシャに代わって淡々と問う。
「二人共息はあります」
ああ、とミーシャの目から涙が流れ落ちる前で、兵士は苦く続ける。
「獣の方は既に絶命。カタールは背中に攻撃を受けた跡があり意識混迷、会話になりません。カシミーアは左肘から下がありません。止血はされていましたが、こちらは意識昏睡」
「……弟の方の腕だったか。捜索を打ち切り、直ぐに二人の救護を」
ユージンはミーシャに手を伸ばすでなく、言う。
「立ちなさい、ミーシャ。二人が通ります。貴方にそれを見る度胸はないでしょう」
「……腰が、抜けて」
呆然とミーシャは言う。腕がないなどと、想像しただけで眩暈がする。
「生きているだけで大したものだ」
言われてはっと顔を上げると、いつの間にやって来たのか伯爵が佇んでいた。ぐいとミーシャの腕を引っ張り立ち上がらせると、抱えるようにして支えてくれる。
「お前の為に戦った者達だ。お前が労いの言葉をかけてやらないと。出来るな、ミーシャ」
「……なんて、言えば」
「よく生き延びたと言ってやれ。様子から聞くに、お前が今日私を動かさなければ死んでいただろう。助かってくれた事に対し、素直に感謝すれば良い」
「でも、そもそも、僕のせいで」
「そんな事を今更言っても始まらないだろう」
どやどやと人が集まって来る気配があって、視線を向けると兵士達が群れたって戻って来る所であった。木の板に乗せられた二つの影に、心臓がひやりと悲鳴を上げる。完全に息をすることを忘れて立ち尽くすミーシャの目の前を、ミーシャの侍従が城に向かって担ぎ込まれていく。一行は伯爵の前で少し速度を落としたが、構わん行け、と伯爵は短く言った。各々が小さく頭を下げてそのまま走り去る中で、ミーシャはただ、二人の侍従だけを見つめる。
薄っすらと目を開いてはいるものの焦点の合っていないカタールと、固く目を閉じて開かないカシミーアが流れるように視界から消えていく。揃って血の気のない顔色をしていて、布がひっかけられていたので体は見えなかった。
「声をかけろ、ミーシャ。このまま死なれたら、二度と言えなくなるぞ」
わなわなと震えるミーシャの背中を、ばん、と伯爵が叩いた。
「聞こえていなかろうが、生きているうちに、言え!」
「ーーっ、ありがとう!!」
反射的に、声が出た。ミーシャは一声叫ぶと、涙と共に次から次へと言葉が出た。
「カタール、カシミーア! ありがとう、ごめん! ごめんなさい!」
何度も、城に向かって消えていく影に、それだけを叫び続けた。
返事はなかったが、二人の姿が完全に見えなくなるまで声の限りに叫び続け、ミーシャは泣く。
ただ、伯爵は無言で、ずっと側にいてくれた。
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