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第8話

ミーシャが意識を取り戻した時、そこに居たのはカシミーアだった。

 ぼんやりと天井を眺めていると視界に入って来て、今にも泣きだしそうな顔をして飛び出して行ったかと思えば、伯爵が飛び込んで来た。

「……仕事、完遂した?」

 開口一番にそう聞いたミーシャに、伯爵は馬鹿がと罵りながら抱き着いてきた。聞けば、五日も意識が戻らなかったそうで、随分と心配をかけてしまったそうだ。よく覚えていないが、どうやら生き残ったらしいと安堵する。あの瞬間死ぬ覚悟はしたが、死なぬ方が伯爵の心に傷を落とさないに決まっている。

 生返したというのに散々罵られ、伯爵は拗ねるようにして出て行った。

 照れ隠しだとユージンは小さく、しかしミーシャに聞こえるように言って笑い、伯爵の後を追う。残されたミーシャはカシミーアと、いつの間にやら戸口に佇むカタールに顔だけを向け、小さく笑った。途端に二人共、ぶわっと涙を流す。

「おまえ、ふっざけんなよ!? 死ぬような仕事じゃなかったろ!」

「……えー、あれで?」

 まだ罵られるのかと思いながら、ミーシャは力なく笑いながらあの日の事を想起する。かなり苦しかったが、あれで大した事ないとは、上には上があるのだなとしみじみ恐ろしくなる。確かに生き残ったからには、死に至る更に上の状況があるという道理だが、経験したくはない。

「正直に吐け。何を考えてた。ぜーったいに何か心に抱えて臨んだろ。吐けっ!」

 カシミーアが鬼の形相で詰め寄って来るので、ミーシャは観念する。確かに、これを吐き出しておかなかったのは結果として、ミーシャの落ち度であったかもしれない。最高のコンディションを整えておくことの重要性を、舐めてかかった結果が今である。次にまた仕事をこなさねばならぬ事を思えば、母の問題は片付けておかざるを得ないと判断した。

 正直に打ち明けると、馬鹿が、と伯爵と同じ罵りを残し、カシミーアが飛び出して行った。残されたカタールはと言えば、理性でもってその怒りを抑え込んでいるかのような無表情で佇んでおり、罵られるより肝が冷えた。

「……心配を、かけまして」

 殊勝に言うミーシャに、カタールは詰めていた息を盛大に吐き出し、がっくりと項垂れた。

「伯爵様に、何度でも謝罪なさって下さい。どれだけ心配されていた事か」

「うん。カタールも、ごめん」

 ええ、とカタールは漸く小さく笑い、珍しく椅子にどっと座り込んだ。

「安心したら力が抜けました。座らせて貰いますよ」

「あ、どうぞどうぞ」

 転がったまま言う台詞ではないと思ったが、起き上がれる気はまだしない。

「あの後、僕どうなったの?」

「どうとは。伯爵様がミーシャを抱えて飛び出して来られて、度肝を抜かれましたとも。真っ青な顔をして。外傷はないものの意識が戻らず、今です」

 あの部屋で起こった事は伯爵に聞かねば分からないという訳だ。怒りが収まった頃に聞いてみようと思いつつ、ミーシャは視線を天井に向ける。

「母の事が解決していたら、大丈夫だったのかな」

「と思いますよ。体調が万全で、心に蟠りなく臨んだ場合、死因は基本的に外傷にあるので」

「……へえ?」

 それは、聞きたいような聞きたくないような。曖昧な相槌を打つミーシャに、カタールはその詳細は語らなかった。

「ミーシャのように心的攻撃を受けて昏倒する、或いは死に至った者は基本的に外傷がないので分かります。胸に何やら蟠りを秘めたまま場に臨んだ事は、一目で丸ばれです」

「あ、そう」

 だから聞いたのに、とカタールは言うまい言うまいとしていたであろう恨み言をちらりと零した。そこは謝るしか手がない。

「じゃあ、それを解決しておけば次は安心だ」

「安心、という事はないですけど。可能性の目は潰しておきましょう」

「えー、それで、その、解決方法なんだけど。実は、頼みが」

 こうなっては仕方がない。忙しい彼らに動いて貰うのは気が引けるが、ミーシャとしては、信頼の置ける相手にその目で見て来て貰わねば納得が出来ない。その点、カタールとカシミーアは、心から信頼している。

「カシミーアがもう向かいました」

「えっ」

「飛び出して行ったでしょう」

「母の所に行ったの!?」

 開いた口が塞がらなかったが、馬で翔るカシミーアを想像すると胸の辺りがじわじわと温かくなって来て、ミーシャは一人、照れる。

「……御礼を言わなきゃ」

「そうしてやって下さい。なので、暫くは私が毎日来ます」

 基本的には交代で付き人をしてくれる兄弟だが、カシミーアが暫く不在とあらば、自然とカタールが毎日仕事に就く事になる。

「ごめん」

「ごめんでなく、御礼が欲しいですね。私にも」

 ミーシャは言われて、またしても少し赤くなる。妙に気恥ずかしいのは、何故だろう。

「ありがとう、ございます。いつも」

「ええ。こちらこそ、伯爵様に仕事を完遂させて下さり、感謝申し上げます」

「え、気付いた?」

「伯爵様が、お気付きでした」

 苦しんでいるのがばれていたらしい。我慢に我慢を重ねたつもりであったが、目を閉じていて尚ばれていたとなると、余程震えていたのかもしれない。

「伯爵、いつ会えるかな。だいぶ怒ってたけど」

「直ぐお会い下さいますよ。まずは立てるようになって、お腹に何か入れてからですけど」

 言われると、現金にも腹が鳴った。五日食べていなければ動けないか、とミーシャは納得しつつ、カタールを見遣る。食べたいと言う前に、彼は徐に立ち上がりながら言った。

「軽いものからですよ。肉はまだ駄目です」

 はあいと笑ったミーシャは、食を重ねるうちにあっという間に回復した。

 そもそも外傷がなかったのが一、カシミーアが母の様子を見に行ってくれた安堵による精神的な安定が一、あとはやはり、伯爵だった。

 翌日、伯爵はミーシャの部屋を再び訪ね、話す機会をくれた。

 昨日の取り乱した様子を恥じているのか、ぶすっとした顔でやって来た伯爵だったが、やはり罵声を投げつけ投げつけ、漸く溜飲が下がったのか、話が出来る体勢に入るまでに正直時間がかかった。だが、申し訳ない事をしたと自覚するミーシャとしては、甘んじて罵声を受ける他なく、やっと話が出来る事に安堵さえした。

「次は大丈夫、伯爵」

 へらっと笑って言うと、怒鳴り疲れたらしき伯爵は小さく溜息を吐いた。良く見ると、少しやつれた。

「……お前は、本当になれると思っているんだ。死なない、生贄に。だからこの程度と言ってはあれだが、人の生死がかかる訳でもない軽度の呪い程度で、まさかあそこまで吹っ飛ばれるとは、思わなかったんだ。心臓が止まるかと思った」

「吹っ飛んだんだ」

「ああ! それはもう、盛大に吹っ飛んだ!」

 そんな気はしていたが、定かではなかったのでようやく確認が出来た。

「強かに壁に激突して、そのまま撃沈さ! どれだけ吃驚したか。驚き過ぎて怒りしかなかったわ!」

「あー、すみません」

 怒りがまたヒートアップしていきそうだったので、ミーシャはさっと謝って直ぐに話題を変える。

「あー、強かに激突した割には、あまり、体は痛くないというか」

「五日も寝てればな。それだけ心的負荷の方が大きかったって事だろ」

 また怒り出すな、と思ったミーシャは、更に話題を変える。

「伯爵、伯爵。でも今回の事で、僕気付いた事あるよ」

「なんだ」

「死ぬかもって思った時、伯爵や皆の顔が浮かんだら、感謝しか出てこなかった」

「……は?」

 怪訝そうに言われて、ミーシャはだから、と口を尖らせる。

「僕の前に死んでいった子達? も、さ。恨んでなんてないと思うよ。伯爵がどう思ってるか知らないけど」

 唖然とした顔をして視線を泳がせた後、伯爵は大きな息を吐きながら顔を覆うようにして俯いた。座った自身の膝の間に頭を垂れるようにして、顔が全く見えなくなる。

「……照れてる?」

 寝台の上からでは高さ的に顔は見えないが、覗き込もうとして怒られた。

「顔を隠している時に見ようとする奴があるか!」

「あ、照れてるね」

「お前は偶に、猛烈に、恥ずかしい事を言う!」

「恥ずかしくなんてないじゃない。伯爵の温かい気持ちは皆察してて、きっと愛されてましたよーっていう、優しい優しいご報告じゃ!?」

「死ねと言った相手を愛せる訳ないだろ!」

 がばっと顔を上げた伯爵の頬は、やはり少し赤い。

「えー、僕は少なくともそう思ったのに」

 素直に言っているのだが、伯爵はとうとう真っ赤になってしまい、ミーシャは可笑しくなる。

「そんな顔してると、やっぱり子供だよね。伯爵って」

「私は十八だ!」

「子供でしょ!」

 前にもあったなこのやり取り、などと思いながら、ミーシャは同じやり取りが出来る事に感謝する。伯爵の後ろに控えて笑いを堪えていたらしきユージンが、とうとう吹き出したのが見えた。

「ほらぁ。ユージン様も子供だと思ってるんだってあれ!」

「違うぞ、絶対に違う。なあ、ユージン!?」

 水を向けられ、ユージンはにーっこりと、愉快気に笑った。

「言われ慣れてないので、照れておいでなだけですよ。子供と言う訳では」

「微妙にフォローになってない!」

 生きていて良かったな、とミーシャは胸に手を当てて心臓の鼓動を確かめる。命があったおかげで、こうしてまた伯爵を揶揄う事も許される。

 少し、不思議な感覚ではあった。死んで良しと思っていた自分が、生きていて良かったと思える日が来ようとは夢にも思わなかった。カタールが、カシミーアが、ユージンが、そして伯爵がいるから、生きていて幸せだ。

 そして最後の心残りであった母については、帰還したカシミーアから幸福に暮らしているという報告を受けた。

 祖母はやはり床着いているそうであったが、清潔な暮らしに満足していると聞く。母もまた、三食を用意され溌溂と顔色良く、ミーシャの話ばかりを聞きたがったという。幸せに楽しく奉公していると様子を伝えると、許されるならまた顔を見せて欲しいと言伝があったという。奉公に出るという事は、売られていくに近い。二度と会えぬ事の方が多い事は、母とて分かっているようであったし、ミーシャもそのように理解している。

「稼いでくれるお金のお蔭で元気だから心配するなと。ありがとうと言っていた」

 約束通り金銭的援助も行われているようで、少しふっくらとした母を想像してミーシャは大いに満足した。

「ミーシャが会いに行くのは難しかろうから、時折見に行ってやるよ」

 カシミーアがそう言ってくれたので、益々安堵した。気持ちが晴れるようにすっきりとして、今また仕事を受けてくれさえすれば完璧にこなしてみせるのにと意気込んで見せるミーシャに、伯爵は笑ったものだった。

 そんな風にして初仕事を辛くも終えたミーシャは、以前よりも精神的に居心地の良さを感じていた。

 一つ仕事をした事により恩を返せたという思いからか、前程何をするにも申し訳がないという気持ちはなくなった。依然として仕えられる程の人間であるとは思えなかったが、それでも食事を与えられるだけの事はしたよな、と自分に言い聞かせるだけの種の一つにはなり、自分の価値が一つ上がったような、始まりの自信が持てた。

 伯爵程の自信家になれる自信はなかったが、それでもあそこまで大きく出られる自己評価は羨ましい。一つ、また一つと自信を積み上げて、いつか伯爵の特別になるまで一体幾つの山を越えれば良いのだろうと思いながら、ミーシャは一月後、また一つ仕事をこなした。

 また大きな仕事ではなかったというが、それでも初回とは何もかもが違った。

 こういう事が起こるだろうと心の準備をしてかかれたのが大きかったのか、それとも母への罪悪感なる種を潰して行った事が良かったのか、驚くほど呆気なく終わった。意識を失うでもなく、吹っ飛ぶでも震えるでもなく、終わったぞと声をかけられた時、ミーシャは平然とした顔で椅子に座したままであった。

 伯爵はそんなミーシャの様子を、非常に喜んでくれた。顔色一つ変えなかったミーシャを歓喜のあまりか強く抱き締め、よくやった、と何度も何度も嬉しそうに言った。そんな伯爵の様子にミーシャまで心が晴れるようだった。

 これは愈々本物かと皆に喜ばれ、ミーシャは満更でもない。

 人に喜ばれる人間になれるとは、正に夢のようであった。次も平然とした顔をして戻り、皆を喜ばせたい。死なない生贄として皆に幸せを、そしてミーシャをここの住人として受け入れて貰いたいと強く願うようになったミーシャは、それから一度、また一度と仕事をこなし、経歴を積み上げていく。

 飽きもせず、皆、ミーシャが生き残る度に喜んでくれる。どうせまた生き残るだろうとは思わず、彼らは何度でも、何度でも全力でミーシャの命が在る事を喜んでくれた。一方で、生き残る事が当たり前となっていったのはミーシャの方であった。どうせまた大丈夫だろうと高を括るようになり、今までよりも少し大きな仕事だと言われても平然としていた。結果として実際何ら前の仕事と変わりなく、皆はミーシャの耐性に驚きを隠さない。凄い、凄いと褒められ、有難がられる内に、ミーシャはいつの間にだろうか、死に対する恐れを忘れ、自身がすっかり認められここの住人になったような気にさえなっていた。

 傲慢になっていたのだと、今なら、思う。

 ミーシャがレノ城に迎え入れられて、半年が経とうとしている。

 その日、ミーシャは狩りに行きたいと申し出た。弓の扱いにもだいぶ慣れ、まだまだ生き物は狩れないと言われたが、最初がなければ上達などしないと言い放ち、無理やりに橋を下ろさせた。伯爵は忙しく暇がなかったので、カタールとカシミーアを伴い、狩りへと赴いた。最も、乗れぬ馬に乗りたいなどとは言わない。歩いて、野生の小さな生き物に弓を射てみたいと思っただけだ。奥へ行くなどと言った無謀な事もしない。きちんと謙虚に自分を管理出来ていると、ミーシャは思っていた。

「それ以上奥へは行かない方が」

「平気だよ。カタールは心配性だなぁ」

 驕っているつもりなど、微塵もなかった。湖も城も見えている内は、迷子にもなりようがない。奥へ奥へと進んでいるつもりもなく、ミーシャはかさかさと葉が揺れる方へ、足跡の続く方へと夢中で進む。危ない、止まれと声が聞こえるが、大丈夫、大丈夫と繰り返すばかりで、ミーシャは草むらでやっと見つけた小動物に目を輝かせた。

 そっと弓を構えてみたが、放つには狩りをしたいという気持ちとは裏腹に勇気が必要であった。

(死ぬ、よな)

 食べる訳でもないのに殺して良いのかと、逡巡する気持ちが生まれる。可哀想だと思ってしまった瞬間、躊躇に手が震え、ミーシャは結局、矢を射る事が出来なかった。

「……僕に狩りは早かったかなぁ」

 苦く笑いながら振り返ったミーシャは、ぎょっとする。カタールとカシミーアが、いない。

(逸れた? いつ!?)

 ミーシャは慌てて来た道を戻る。いつの間にか湖も、城も見えない。

(大丈夫、大丈夫。真っすぐ、来ただけだし)

 ミーシャはどきどきと高鳴る胸を押さえながら、来たと思しき道ならざる道をひた戻る。同じような景色、右か、左か、曲がった記憶などないから真っ直ぐの筈だと言い聞かせながら、ミーシャは侍従を呼ぶ。

「か、カタール! カシミーア! どこ!?」

 こんなに走った筈はないが、とミーシャは徐々に強くなってくる不安に押し潰されそうになりながら懸命に走る。いずれ湖にさえ出れば、現在地が必ず把握できる。湖面に沿って歩けば、橋に戻れる。

 そんな事を考えながら走るミーシャは、斜め後方に気配を感じ、振り返る。

「カター、」

 言葉を切ったミーシャが見たのは、人ならざる生き物であった。何という生き物かは分からないが、ミーシャよりは大きい。

「か、タール……カシミーア」

 ミーシャは、呟きながら、後退る。攻撃してくる生き物だろうか、それとも。

 生き物は、姿勢を低くする。攻撃態勢だと、本能的に理解した。こちらに、向かってくる。

 逃げれば良いのか、背中から攻撃を受けるよりは弓を構えるべきなのか、全く分からない。パニックに陥ったミーシャには何ら判断する事が出来ず、真っ白になった頭のまま、咄嗟に逃げ出してしまった。それが正解かも、分からずに。

「ひっ……」

 声に、ならなかった。侍従達の名を呼ぼうにも、声が出ない。いつの間にかぼやけた視界に涙の存在を知るも、それを拭く事も出来ず、ミーシャは獣に背を向けひた走る。全速力で逃げなければと思うのに、足がもつれてうまく走れない。スピードが出ない。

 恐怖が全身を襲い来る。呪い返しを受ける時の比ではなかったのは、何故だろう。漠然と大丈夫だと高を括っていたからなのか、伯爵が側にいると思ったからなのか、否、あの頃は死に恐れなどなかった。今は、違う。生きて美味しい物を食べ、皆に喜ばれ崇められるようにして掴んだ今世の幸せに、すっかり胡坐をかいだ結果、命がこれほどまでに惜しくなってしまった。呪いでは死なぬが、獣に、あの鋭い爪に襲われたらきっと、

(ーー死ぬっ)

 驕っているつもりなどなかったが、驕っていたのだ。危ないと言われたものを無理やりに決行して、行くなと言われたものを走り出し自ら迷子になった。これが驕りでなく、何だったというのだろう。選ばれた人間だと、積み重ねた価値に踏ん反り返ってしまったから、そんな事に今気が付いても、遅い。

 皆の厚意あっての今の生活に、図に乗ったのだ。

「たす、けて。助けてー」

 手を伸ばした先には誰もいない。

 ふっと耳元に、自分のものではない吐息を感じ、世界から音が消えた。

(人の上に、立ってみたかったのかな)

 ミーシャは息がかかる程近くにいる獣を振り返り、大きく目を見開いた。獣の目に映る自分の姿はあまりにも小さく、自惚れ上がった自分の姿はあまりにも滑稽であった。

(伯爵の身代わりでさえなく死ぬ僕は、誰かに哀れんで貰えるだろうか)

 役に立って死ねよと、蔑まれるような気がした。伯爵の為に死ぬ事で価値を見出す生贄が、その責務から離れた所で、勝手に死ぬ。食事を与え、身の回りの世話をして来た甲斐なしと打ち捨てられる自分の姿を想像して、ミーシャは死の恐怖のあまり、我知らず笑った。

(……馬鹿だなぁ)

 ミーシャのような者でさえ自惚れるのかと、自分に驚いた。何も持っていなかったというのに、与えられる事に慣れるだけで有難さを即座に失うとは、なんと愚かな。

 ひゅっ、と振り下ろされる爪を見つめているばかりのミーシャを掠めるようにして、何かが飛んで来た。

 矢だと判じた瞬間、ミーシャは頭で考えるより先に身を翻して走り出していた。それを射た人間を確認するより前に、走り出している。

「カタール!!」

「早く、あっちに!」

 カタールは左手を真っ直ぐに伸ばし、咥えた笛を吹いた。言われるがままに右折したミーシャは、暫し走った所でこちらに向かってくるカシミーアに遭遇した。触れてはならぬなどと考える頭があろうはずがない。その胸に向かって飛び込むミーシャを、カシミーアは避ける事なく抱きかかえる。

「何が出た」

「わ、わ、分からないっ。僕より大きくて、爪を、こう、振り下ろして来てっ」

「……この季節にそんなに大型の獣がいるとは、時期外れだが」

 泣きじゃくるミーシャに、カシミーアはやはりカタール同様に、左を指差す。

「行け。笛を聞きつけて直ぐに兵士が来る。保護して貰え」

「カシミーア、カシミーアは」

「兄上を一人には出来ない」

 カシミーアはミーシャの弓をそっと取ると、にやりと笑った。

「行け、ミーシャ! 伯爵様を頼むぞ」

 駆けだすカシミーアの熱が離れると同時に、ミーシャはへたり込む。待ってと言う事も出来ないミーシャは、直ぐに兵士に保護された。数人の兵士に囲まれ、こっちだと先導されるも、腰が抜けて立てない。

「……カタールと、カシミーアが」

「二人なら平気ですから、こちらへ」

 平気なのか。本当に、あの獣相手に、二人で平気なのか。

 がくがくと震えるミーシャは、悲鳴が聞こえない事をただひたすらに祈りながら、カシミーアが走り去っていった方角を指差す。

「行って、行って、下さい! 二人を、助けて」

 叫ぶミーシャに、兵士達は首を振り、一人がマントを羽織る。失礼、と声をかけられたかと思うと抱え上げられ、肩に担がれるようにしてミーシャはカシミーアの行った方角とは正反対の、おそらくは帰路に向かう。

「待って! 行かないで、誰か、誰か二人を助けに行ってっ!!」

 ミーシャが何度叫ぼうとも、兵士達は苦い顔をしたまま無言で走る。

 どうして、何故と叫ぶミーシャの願いが届いたのか、兵士がぴたりと足を止めた。ふわりと体が地面に下ろされたかと思うと、目の前に佇んでいたのは伯爵だった。

「……伯爵」

「酷い顔だ」

 伯爵は真顔で呟きながらミーシャを見下ろし、前方を見遣る。

「侍従はどうした」

「おそらくは、戦っているかと」

「何が出た?」

 分かりません、と答えるのは兵士だ。がくがくと震えるばかりのミーシャと前方を交互に見遣り、伯爵は溜息を漏らしてミーシャを抱き上げた。そしてやはり、踵を返す。

「ま、待って、二人を助けて」

 ミーシャの言葉に、伯爵は真っ直ぐに前を見たまま淡々と言う。

「兵士の命まで差し出す事は出来ない。二人の責任だ」

 ショックのあまりミーシャは言葉を失い、わなわなと唇を震わせる。

「……どう、して。二人の責任なんて、どうして! 助けに行ってくれたら、勝てるのに!」

「勝てるかも、だ。何が出たか知らないが、お前を守るお付侍従として、あの二人はお前を危険に巻き込むと言う罪を犯した。自らで責任を取るが当然。他の者の命は関係がない!」

 言った筈だ、と言葉を失うミーシャに伯爵は鋭く、しかし淡々と言う。

「生贄は二度三度助かったからと言って次も助かるとは限らない。だからこそ皆毎回死地へと赴く生贄に敬意を払い、最大限にもてなし、尽くす。そのようにせよと命じてある。何度でも、何度でも何度でも! 助かる事を祈り、喜ぶ! 生贄を大切に思う事で、私が喜ぶからだ! 領民は私を生かしてくれた事に感謝するからこそ、常に生贄への感謝を示すのだ! 私の命を守る為の生贄の命を守るのがお付侍従の最大の役目。二人を巻き込んだのがたとえお前だろうと、全ては留める事をしなかったあの二人の責任だ。お前の行動一つ一つ、全てがあの二人の責任。お前が何をしようと勝手だが、責任をとるのがあの二人の役割だ!」

 胡坐をかいたな、と伯爵は低く言う。

「何をしようと皆が助けてくれると高を括ったのだろう。ああ、その通りだ。お前の為に、あの二人は喜んで命を差し出す。そういう仕事をしている。お前の思った通り、守って貰えたわけだ」

 震えるばかりのミーシャに、伯爵は無表情のまま、鼻を鳴らした。

「お前は、お前の命とあの二人の命を天秤にかけてしまったんだ」

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