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第7話
翌日、伯爵が言っていた言葉の意味を理解した。
主に上半身が、痛くて堪らない。腕を上げるのが特に億劫で、起き上がった瞬間に痛い、と思わず叫んだ。
体の痛みは徐々に和らぎ、時間の経過と共にミーシャは日常生活を取り戻していったが、時間が経てども安らがぬ心に蟠りが残る。
(お母さん達は、今どうしてるんだろう)
母よりも今の生活を選んでしまったあの時からずっと、ミーシャの中でずっと靄もやと燻る黒いものがある。ユージンにより、母と祖母がよりよい暮らしを始めたと言う報告を受けたものの、以後どのような事を考え、どのように暮らしているのかを知る術のないミーシャにとって、本当に幸せに暮らしているのだろうかと今更ながらに気にかかる。少なくとも、今のミーシャより良い暮らしをしている筈がない事だけは明白で、ユージンを信じていない訳ではないのだが、自分だけが幸せなのではという罪悪感が消えない。
悶々と暮らすミーシャに対し、カタールは見兼ねてか、言った。
「悩みがあるなら相談して下さい」
言ってみようか、と思わないではないが、母が心配だと言って、カタール達に負担をかけるのも嫌だった。どのような状況にあるのかを知りたいが、ミーシャがそれを知る為には、誰かが母達の所へわざわざ赴き、確かめて来なければならない。それが忙しい彼らにとって負担になる事くらいはミーシャとて想像がついたし、だからと言って顔も知らぬ誰かが確かめて来たと報告してくれたとて、正直、信用ならない。この不安は、解消されない。
「間もなく初仕事が待ってます、ミーシャ。心晴れやかに望まなければ、悪い結果になりやすい」
あれから幾日も過ぎ、おそらく仕事は受ける事になるだろうとの報告は伯爵から受けている。それについての覚悟などミーシャには必要ないが、むしろやっと役に立てるという気持ちの方が大きいわけだが、皆が殊更に気を遣ってくれる状況にはある。
「そうなの?」
「負の気持ちは呪いを盛大に取り込むと聞きます。正なる気持ちで、跳ね返す心意気でなければ」
負の気持ち、という程のものではないとミーシャは言い訳しつつも、晴れやかな気持ちではない事だけは認めざるを得ない。実際に食欲が落ち、寝つきが悪くなっているとなれば、カタール達にばれぬ筈もなかった。
センチメンタルになっているだけだ、などと適当に誤魔化しながら日々過ごすうち、とうとうその日は訪れる。
「明日。仕事をする」
伯爵が、自らそう告げに来たのはそろそろ寝る支度をと考えていた頃だった。ぎりぎり着替えていなかったミーシャは、訪ねて来た伯爵の顔が神妙で、殊更あっけらかんと言った。
「はい。それで、何をどうすれば?」
「何も。朝餉は食べられない。禊を行い、陽が昇ると同時に開始する。ただ、ミーシャは私の側に」
「朝餉は食べずに禊をして、伯爵の側に」
ミーシャは復唱しながら頷き、沈黙を持つ。他に伯爵から話があるかと思ったからだが、伯爵の方からは続く言葉がない。
「夕餉をもっと食べておけば良かった」
場を和ませようと言ってみるが、伯爵は苦い顔をしたまま、小さく溜息を吐く。そして徐にミーシャの手を取った。ぎょっとはしたが、嫌だった訳ではない。
「何か悩みがあるのか。様子がおかしいとは聞いている」
カタールかカシミーアの仕業に違いないが、彼らを責める事は出来ない。報告は、彼らの仕事のうちだろう。心配してくれているのも分かっている。
「悩みがあるなら、仕事は延期する。お前の命には代えられない」
「命って」
「調子の良し悪しは、ある。私にもある。体調が悪いからと言って戦場で待ったなどないが、私の仕事は多少遅れても問題等ない。明確に期限がある事は少なく、殆どの場合が私の都合次第、天才なる私の匙加減が全てだ。だから、遅らせる事など造作もない。調子が悪いなら、言え。咳が出るだけの事でも構わない。お前が思っているより、コンディションは大きな影響がある仕事だ」
「……そんな、死ぬ前提の僕の采配で、大事な仕事に遅れが出てもいいの」
「死なぬ方が良いに決まっている。私の代わりに呪い返しを受けて貰うつもりである以上、殺さぬつもりだとは言わないが、死なれて心が痛まない訳では決してない。死なないでいて欲しいと心から願っている。死なずにいてくれるなら、一日や二日、一週間や一ヶ月の遅れなど、先方を待たせれば良い」
ミーシャは真剣な伯爵の目を見返しながら、薄っすらと笑う。この命にそこまで言って貰えるなど、身に余る光栄とはこの事かとその心が理解出来た。死なずに生き延びて、伯爵にとっての特別になる。生き残るだけで、特別になれる。
「僕だって、死ぬ気は全然ない。伯爵の爪先ほどの価値の命って自覚はあるけど、生き残ったら今の生活を何度も楽しめるんだから、敢えて死にたいって思ってる訳じゃないもの」
「……この際だからはっきり言っておくが、生贄として招いた少女達は、全員死んだ。一度の仕事で死んだ少女もいるし、三度、四度と仕事をこなして死んだ少女もいる。仕事の重さにもより、少女達の適正にもより、私との相性にもより、それこそ、コンディションにもよる。私も馬鹿ではない。都度、彼女達の命で、学んで来たつもりだ。死ぬ可能性を減らせる道は当然、選択する。それが死んでいった彼女達の為でもある。無駄には出来ない」
伯爵は少女達の事を思い起こすように一度目を伏せ、今一度ミーシャの目を覗き込んで言った。
「お前とは相性が良い。それは確信している。仕事の重さについても、此度のものは相手を殺す為のものではない程度故、そう重いものでもない。私は今回の仕事でお前は死なないとほぼ確信している。だが、お前のコンディションが悪いとなれば些かの不安が残る。だから、言え。死なずに済むなら死にたくないと言ったお前だ。正直に、言え」
悪くない、とミーシャは呟くように言う。
「悪くないです、伯爵」
ミーシャは笑う。正直に言えば、ずっと母が気がかりであった。今の今まで、気になって気になって、心の殆どの部分を最近では占めていたと言っても過言ではない。だが、今、まさにこの瞬間、伯爵の熱い目を見ていて癒えた。ミーシャを心から心配してくれる目が、言葉が、ミーシャの心を晴れやかにしている。単純に言い換えるなら、今、心配して貰えている自分を心から喜ぶ気持ちで一杯だ。
「今、満たされてる感じがしてる。これってきっと、正の気持ちとやらでしょ?」
仕事に対して悲観的な気持ちはそもそもなかったが、重き仕事でないと聞いて更に不安という言葉に縁遠くなった。この城の主で、この城下町を、領土の全てを統べる伯爵が、ミーシャを心配している。ミーシャの為に仕事の日取りを変更しても良いとまで言ってくれる。死なないで欲しいと、言ってくれる。これが如何程凄い事かくらいは、もう、分かる。
(生き残ったら、特別になれる)
心配してくれるだけでも嬉しいというのに、「特別」をミーシャにくれる。それがどれ程嬉しく、ミーシャにとっての希望か、伯爵には決して分かるまい。
(特別に、して)
伯爵にとっての、特別に。
明日生き残れば、一歩近づく。
伯爵の特別になる事も然る事ながら、カタールやカシミーアに世話される我が身への正当な理由が付き、貴族然とした生活を許される事への道理が立ち、ーー置いてきた母達への、言い訳も立つ。どこか絵空事だった暮らしの中の光明、ミーシャにとって、伯爵の仕事を命を懸けて手伝う事は、皆に認められ、ここに在る事を赦される為には絶対に、必要な事だ。
「是非、やらせてください」
ミーシャは、頭を下げる。どうか、期待に応えるチャンスを、奪わないで。
認められる為の、自分の判断に理由を付ける為の、罪悪感から逃れる為の、チャンスが欲しい。心から、欲しい。
「分かった」
ミーシャは、はっと顔を上げる。真っすぐにミーシャを覗き込む伯爵の目には決意が浮かび、にやりと笑ったその顔に強烈に惹かれる。覚悟がある人間の目だと思った。
「カタール。後は任せた。早く休めよ、ミーシャ」
はい、と頭を下げたカタールの横を、伯爵は通り過ぎていく。離れた熱を名残惜しく思うミーシャに、伯爵はやはり笑って、振り返る。
「良い夢を」
うん、と呟いたミーシャはその日、カタールとカシミーアに見守られながら、長い眠りについた。流石に緊張して眠れぬかと思ったが、我が身は随分と図太かったらしい。夢も見なかった。
翌日、暗いうちから起こされたミーシャは、しずしずと侍従にのみ付き従われて風呂へと通された。
絶対にミーシャに触れぬという気概が見えたのは、カタールとカシミーアが揃って目元以外を覆っていたからだ。手袋は当然、マントを羽織、フードを被り、首に巻きものまでして口元を隠していた。寝起きに二人のそんな出で立ちは心臓に悪かったが、それで目が覚めたのも事実だ。
「今日は殊更に、絶対に、触れる訳にはいかないので」
「唾飛ばす訳にもいかないからさぁ。仕事の日の侍従の正装みたいなもん」
二人はそう言って、明るく努めようと笑顔を見せた。少しばかり無理のある笑顔だったが、二人揃って付き従ってくれる事への感謝に、心が和む。
いつもより念入りに体を洗うように促され、手袋越しでも極力触れぬようにと着替えは自分でと言われた。徹底している。
髪を拭いて湯殿から出て来たミーシャを、二人はおそらくは伯爵の元へ、案内してくれる。しずしずと、音を立てぬように歩きながら、暗い廊下に前方を行くカタールの提げた蝋燭の灯だけが浮かぶ。明ける前から働く侍従は多い筈だが、その日はしんと静まり返っており、自分達以外の人の気配はなかった。要所要所に佇む兵士の姿さえない。
喋ってはいけないのだろうかとそわそわするミーシャに、後ろからカシミーアが小声で話しかけて来た。
「ほんとは喋らない方がいいけど。逆に緊張するよなぁ」
「いや、ほんとにそうで」
いつもとは違うのだと嫌でも知らしめられているようで、落ち着かない。誰もいないせいで些か緊張して来た。
「気軽に行け。俺達二人が迎えに行くから」
「あ、そうなの」
「迎えに行くというか。ずっと部屋の前で待ってる。お前が出てくるまでずっと待ってるから、気楽に行って来な」
うん、とミーシャはくすくすと笑う。それはまた、心強い事だ。
階段を上り続け、塔の最上階だと知らされる。扉が重々しく見えたのは暗いせいか、カシミーアがミーシャを追い抜いて扉の前に立つと、カタールと二人並び、ミーシャに向かって深々と一礼をした。
「行ってらっしゃいませ」
「こちらで無事のお戻りを、心よりお待ち申し上げます」
言ってから、二人は扉を左右へと同時に開いた。
中は薄暗く、急に視界が開ける事はなかった。蝋燭の灯が四方を照らしているだけで、伯爵が既にいると聞いていたのだがその姿は確認出来なかった。
来たか、と中から声をかけられ、直後に部屋の中央に灯りがついた。人影らしきものがあり、そこで漸く伯爵の所在を知る。
「こちらへ」
言われて中へ入ろうとしたミーシャに、通り過ぎ様に二人は言った。
「「行ってらっしゃい」」
ただいまの言葉を待つ、と言われたようで、ミーシャは嬉しくなってうん、と小さく答えた。
ミーシャが完全に室内に入ると、背後で扉が閉められたのが分かった。神聖な場なのか、厳かな雰囲気を保つべきなのか、ミーシャは話しかけるに話しかけられず逡巡する。そんなミーシャに、影らしきものが小さく笑った。
「こっちへ来い」
「こんなに暗い意味ってあるの」
ミーシャがおずおずと言いながら一歩を踏み出すと、伯爵は笑った。
「朝日が昇ると明るくなる。蝋燭は、それまでの仮初の明かりだ。日の光で、浄化しつつ行う」
「はあ」
「暗い方が、日が昇ったと分かりやすいのさ。さ、こっちへ」
その仮初の明かりとやらを頼りに、ミーシャはおっかなびっくり進む。段差の存在の有無すら見えない。
灯の側まで来ると、ぐいと手を掴まれた。どっと倒れ込むミーシャは誰かに抱えられ、そこに伯爵がいるのだと知る。
「お前の席は、私の真隣だ。椅子がある、分かるな?」
手探りで、うん、とミーシャは応じる。なんとかそこに腰を下ろして漸く、一息吐けた。
「よく眠れたか?」
「夢も見なかった」
「それは良かった」
ははと笑う声から緊張は感じられず、いつも通りの伯爵の様子に安堵する。
「ずっと、ここに座っていたらいいんだよね」
「ああ。ずっと、ただ黙って座っていればいい」
「終わったら分かる?」
「はは、分かる分かる。私が立ち上がる時は、終わった時だ」
「成程」
ミーシャは自身の緊張を解す意味合いも兼ねて、積極的に伯爵に話しかける。話しかけても良いと判断した。
「伯爵も緊張するの?」
「ミーシャは緊張しているのか?」
「死ぬのが怖いとかそういうのじゃなくて。場の空気、というか」
もにょもにょと言うミーシャに、伯爵は笑う。
「天才に失敗はないからな! 失敗したらどうしようなんて緊張は微塵もない!」
「僕は死なないから、それじゃあ今日は全く緊張しなくていいね」
言うと、伯爵はふん、と鼻で笑った。
「なんだなんだ、私を元気づけようとでもいう気か。生意気な」
「割と神経細いよね、伯爵って」
「分かったように言ってくれるじゃないか」
「いやいや。強がってるだけで、割とか細いよ。絶対か細い」
「なんと失礼な! 死ぬかもしれないのを恐れるのはお前の方だぞ!? 私はぜーったいに死なないからな、お前のお蔭で!」
「死ぬより死なれる方が恐ろしい事だってあるよ。だから安心していいよ、僕、死ぬ気ないし」
伯爵が黙った。これは言い勝ったのではと、ミーシャはよく見えぬ隣の人影の顔を覗き込もうとする。明かりがあまりにも頼りないが、面喰ったように、見えなくもない。
「……ここに来て、よくもまぁそれだけ軽口を叩いていられるのはお前だけだ」
「ほんと? 喋ってた方が気が紛れるのにね」
「そもそも私に軽口を叩くのが、お前だけだがな」
「嘘でしょ。伯爵相手に軽口以外何を言えと!?」
「おま、え! 私が誰か分かってるのか!?」
「でっかい子供でしょ!?」
「私は十八だ!」
「大人は子供の言う事に目くじら立てて反論なんてしませーん」
「馬鹿が! お前に合わせてやっているだけで、私は本来もっとスマートで、気品に満ち満ちた高貴なる、」
「はいはい、明るくなってくるよー」
はっと我に返った伯爵の表情が、先程よりも良く見えた。それが日が昇って来たからだと、ミーシャは薄っすらと笑む。動揺の色が見えた伯爵は、ミーシャの笑みを見て苦く笑う。
「……お前のせいで、心を落ち着ける暇もなかったわ」
「僕のお蔭で、悩んでる暇なかったでしょ」
言ってろ、と小さく呟いた伯爵の表情が、良く見える。日が差し込んで来て初めて、部屋には無数の窓がある事を知った。ガラスの入っていない、窓というより穴に近い。十間隔で無数の四角い穴があり、そこからさあっと日が差し込んできている。
部屋には燭台の他にはミーシャ達が座っている椅子が二脚のみ、だが、床一面に見慣れぬ絵が描かれていた。絵、と評するには全く何を描いているのか分からない。幾何学的な模様に見える。
伯爵が目を閉じ、両の手を合わせた。ミーシャは目を閉じろとは言われなかったので、そんな伯爵の横顔を眺めている事にした。
湖からの風が吹き込んで来る。
薄明を迎えたと同時に風が吹き込んで来る不思議を噛み締めるミーシャの前で、ふっと蝋燭の灯が消える。緩やかに上がる煙がゆらゆらと揺らぎ、伯爵の口から何やら言葉が漏れ始める。隣に座っていても、何を言っているのかは聞き取れなかった。
伯爵の向こう側から差し込む陽光が、徐々に強くなってくる。円形の部屋を、風が出口を探せぬように旋回し渦巻く。伯爵を中心に、風が四方の蝋立てを順に倒して行くと、今度は伯爵目掛けて突進してくるように風が襲い来る。
思わず悲鳴を上げそうになったが、ミーシャは両手で口を塞ぎ、風の行方を見守った。足元から、頭上に突き抜けていくように上昇していき、風を見上げるようにして初めて天井にも穴が開いている事に気が付いた。伯爵の丁度真上に、ぽっかりと一つ、空が臨める穴が見える。そこに風が抜けて行っているのだと分かった。
立ち上る伯爵の髪は日の光に黄金に輝き、何かを導くように靡く。目を固く閉じたまま手を合わせる伯爵の横顔は一つの絵画のように美しく、同じく風に煽られながらもミーシャはそれに見入っていた。
(死んでいった子達も、こんな美しいものを見ながら死んだのかな)
呪いが返って来た瞬間、今この場で死ぬのか。何日か寝込んでから死ぬのか、死に様は聞いていないので知らない。流石に自分の死に様を想像出来てしまうような描写を知りたいとは思わない。だが、この美しい光景を目に焼き付けながらすうっと意識を失って死ねるなら、それはとても、美しい死に様のような。ミーシャのように溝の中で虫に這われながら死ぬ事を想定していた身としては、それはとても光栄な事のようで。
伯爵を巻き込む風の煽りで、ミーシャの軽い体はふわふわと浮くような心地にさえなる。目を閉じて風に身を任せたら、あの天井の穴から空へ飛びたてるような、そのまま天へ昇っていけるのではとさえ、錯覚する。
伯爵の声に少し力が入ったような気がして、ミーシャははっと我に返る。
とても穏やかで心地の良かった風が、ひやりと冷えた気がした。すっと背筋が寒くなって、ぶるりとミーシャは一度、身震いをする。相変わらず伯爵は美しく、日は益々高くなっていくというのに、肌に沸々と冷気を感じた。
咄嗟に両手で我が身を抱きしめた瞬間、不意に母の事を思い出した。否、思い出してしまった。
拙い、と何故か思った。
母の処遇や安否、優遇される我が身に悶々としていた事に思考が向き、それは負のコンディションだと自覚するや、急激に体が重くなってきた。ずしんと肩に重りを載せられたような、そう、炭鉱で荷袋を担いでいた時の重さに強いて言えば似ている。
(これ、多分よくないよね)
今は母の事は気にするな、と自分に言い聞かせれば言い聞かせる程、母の顔が浮かんで離れない。どうしてお前ばかりと罵る母の姿が目の奥に浮かび、そんな事は絶対に言わないのにと頭を振って掻き消そうと試みる。何故か、一度考え始めると嫌な事、不快な事ばかりが頭に怒涛のように浮かんできて、吐き気がした。
(どうして、考えた事もないような、事が)
悩んでいた時でさえ考えもしなかった、ミーシャを疎んじる母の姿ばかりが浮かぶ。見た事がないはずの表情、聞いた事がないはずの強い言葉、罵声が押し寄せるように聞こえてくる。既に、返された呪いを身に受け始めているのではと直感的に思った。
(最高の心持ちで望んでも、悪い事を考えるようになっているのかも)
だから伯爵は、せめてと最高のコンディションを求めたのでは。体の不調も心の不調も、同じだ。思考は悪い方、悪い方へと向かいがちになる。それを交わしきるだけの、伯爵の仕事が終わるまで耐え凌ぐ時間を稼ぐ為の、ーー最高のコンディション。
(駄目だ、拙い)
ミーシャは浮かび来る母の顔を打ち消さんと必死で頭を振りながら、伯爵の横顔に目を向ける。
(まだ、終わらないの)
いつまで耐えれば凌いだ事になる。どういう状態になれば呪い返しを交わした事になる。このまま堪えていたらこのまま終わるのか、それともまだもっと大きな感情の波が来るのか。分からない、何も分からない。分からない事が、不安だ。
思わず伯爵の服を掴みそうになって、ミーシャは辛うじて拳を握り込んだ。邪魔は出来ない。失敗させたくない。自信家で仕事の失敗などないと豪語した伯爵に、他の少女達が命を賭してでも成功に導いてきたものを、ミーシャが断たせたくない。悪い意味で特別になりたい訳では、決してない。
(違う、違う違う。お母さんは絶対、幸せに暮らしてる! ユージン様を信じろっ)
信用できるものかと心が叫んでくる。既に殺されていても分からないじゃないかと、黒い影が囁いて来る。
はたはたと、ミーシャの額から大粒の冷や汗が膝に向かって落ちる。自分の腕を抱き込んで丸くなり、動くな、動くなとミーシャは喉の奥で唱える。動くと、声を上げると、気付かれる。ミーシャが苦しんでいると伯爵に勘付かれたら、しっかりと合わせた手を離してミーシャに手を伸ばそうものなら、おそらく仕事は失敗だ。紡ぐ謎の言葉を切ってミーシャに一声かけようものなら、仕事はやはり、失敗だ。教えられていないが、分かる。きっと、否、間違いなくそうだと言える。
意識が遠のいて来て、ミーシャは思う。
(成程、中々に、難しい)
そう簡単に特別にはなれないか、とミーシャは目を閉じたまま、ゆっくりと頭を膝に落とす。どこが震えているのか、建物自体が振動しているのではと疑う程に世界の全てが揺れていた。
胸の中を侵食してくる黒い何かが、這うようにして口から出てこようとする。もよおす吐き気と抗いながら、頭が急激に真っ白になっていく。
(あと、少し。きっと、あと少し)
せめて、仕事が終わるまで。
伯爵のプライドに傷がつかないように、仕事に穴を開けないように、ーーあと、少しだけ。
このまま意識がなくなって、死んだとして、伯爵への憎悪など生まれよう筈がなかった。せめて役に立って死ねる事が自分にとってのプライドであり、尽くしてくれた皆への感謝であり、死後きっと惜しんでくれるであろう事への喜びすら、あり。
(そうか。たとえ死んでも、伯爵にとっての特別にはなれる)
だから怖くなかったのか、とミーシャは一人、小さく笑む。
伯爵の為に命を賭した者としてきっと、この伯爵ならきっと、顔も、名前も憶えていてくれる。惜しんでくれて、きっと忘れないでいてくれる。それは、打ち捨てられるようにして死ぬはずであった自分にとって、誰かの特別になれる事に変わりない。
皆、こうして死んでいったんだろうなとミーシャは思う。
他の少女達がどのような人間で、どのような思考を持ち、どのような死を迎えたのかは分からない。だがきっと、ミーシャと同じように、恩返しになればと歯を食い縛って死の瞬間を引き延ばそうとした子がいたのだろうと信じたい。
死にたくないと喚きながら死ぬ姿を、伯爵の傷として残したくないと思った。
ーー声が、途切れたような気がした。
刹那、激しい力で体全体を押されたように思う。うっ、と思わず声が出て、しまったと思いながらミーシャは昏倒する。おそらくだが後ろに吹っ飛ばされたように思うのだが、記憶が鮮明ではない。
以後の記憶が、ミーシャにはない。
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