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第6話

目が覚めた時、ミーシャは天井ではなく、視界にユージンと、彼が腰を下ろしたソファを認める。

 仰向けで寝台の縁から頭だけを投げ出しているらしく、首が痛い。まずは寝台の上にいそいそと戻って転がり、息を吐く。ころりと転がってユージンを見ながら、一言。

「最高の寝心地だった」

「でしょうね」

 ユージンは呆れるように言って、ぱたんと持っていた書物を閉じた。どうやらミーシャが起きるのを待っていたらしい。

「伯爵を枕にして首があるのは、あなただけでしょうね」

「隣で寝てたの?」

「そこは伯爵の寝床ですからね。あなたが侵入者です」

 それは違いないが、と思いながら、ミーシャは体が沈むに任せてうっとりと最高級の寝具を楽しむ。泊まらぬなどと言いながら、結局あのまま寝入って泊めて貰ったらしい事は早々に理解した。

「伯爵は?」

「さて。そろそろ食事を終えられる頃かと。カシミーアが外で待ってますよ、ずっと」

 ミーシャ付とは言え、伯爵の寝室には入れないらしい。

「それを早く言ってよ」

 ミーシャは名残惜しくあれど、ぴょんと即座に飛び起きる。いつから待っているのか知らないが、立たせたままとは気の毒が過ぎる。やれやれと腰を上げるユージンの横を通り過ぎ、ミーシャは扉にかぶりついた。開けると確かに、廊下に佇むカシミーアの姿がある。

 彼はミーシャの姿を認めて、お、と目を丸くした。

「起きました?」

「部屋でゆっくり待っててくれたら良かったのに」

「とんでもなーい」

 ふふと笑ったが、カシミーアはユージンの姿を認めてきりりと表情を整えた。しゃんと背筋が伸びるのだから、場に合わせた振舞は流石に出来るらしい。

「身なりを整えて、食事へ」

「承知いたしました」

 ぺこりと頭を下げたカシミーアに倣い、ミーシャもなんとなく、頭を下げる。

「あ、ユージン様。お待たせして、ごめんなさい」

 いえ、と素っ気なく、しかしミーシャの目を見て頷くように言い、ユージンは行ってしまった。彼の仕事の手を止めていたのかもしれないと思うと申し訳ないが、別に待っていてくれなくても良かったのに、と思わないでもない。

「ミーシャって、ユージン様だけなんで様付けで呼ぶの。伯爵様でさえ伯爵呼びなのに」

 廊下を歩きながら、カシミーアは不思議そうに言う。

「え。あー、ほんとだ。なんでだろう。一番、怖そうだから?」

「間違いない」

 あははと笑いながら、カシミーアは部屋の扉を開けてくれる。中に入ると、今日着るべき衣装が準備されていて、袖を通せば良いだけだった。着替えを手伝ってくれるというが、ミーシャは辞退を示して一人で着替える。出来る事くらいはしないと、正直落ち着かない。

「伯爵様、一つ仕事を受ける事にされたみたいだよ」

「そうなの?」

 髪を整えて貰いながら、ミーシャは驚く。昨日はそんな素振り全くなかったように思ったが、昨日の今日で仕事を受ける決意をしたという事は、何日も前から打診はあったのだろう。

「怖くない?」

「ん?」

「ミーシャの、初めての仕事になる」

 ああ、とミーシャはぼんやりと返事をしながら、次いで、へへと笑う。

「いや。正直何がどうなるのか、細かな事って聞いてないし。死ぬかもしれないよ、くらいの情報しかなくて。へえ、って感じ。何が起きるか分からないから、実感もないし。それに、仕事させてくれるなら、その方が食事がうまい」

「あー、それはちょっと分かる。何もしないで食ってると、なんか罪悪感あるよね」

「そうそれ。こんな美味しいもの鱈腹食べさせて貰う価値がないっていうか。それこそ昨日、伯爵に自分の価値について話をして貰ったんだけど、僕もこう、価値を認められて、だから食べていいんだって思いたいというか」

 分かるわかる、とカシミーアは同意を示してくれた。大きく頷きながらも櫛を握る手がぶれないのは大したものだ。お蔭で寝ぐせがすっかり落ち着いて来た。

「侍従ってさ、仕事が出来てなんぼな訳。出来る事が多ければ多い程頼られて、任されて、ちょっと立場も良くなっていく。自分に価値付けする為に、頑張る訳だ。追い出されないように、必死さ。行くとこなんてないからね」

「そうなの?」

「城仕えの者は、そういう者も多い。親がもういなくて、住むとこない子供とかが拾われてきて、侍従や女中として育てられたり。単純に奉公だったりもするけど。僕と兄上は、前者。父が死んでからこちら、互いだけの身内で行き場がない。だから、この年だけど割と侍従歴は長い」

 必死さ、とカシミーアは言葉とは裏腹に快活に笑う。口を大きく開けて笑っても上品に見えるこの男の不思議に関しては、答えがまだ見出せない。

「仕事が出来ないと追い出されるかもって、必死。でも必死でやったらやっただけ、出来る事が一つ増えれば増えるだけ、ああ、なんか認められてるかも、出来るかも、僕って価値があるんじゃないのって、思えるようになるから不思議だよなぁ。で、今は生贄様のお付侍従を任されている、と。やるよなぁ僕らも、ってミーシャのお蔭で自分達の価値を噛み締めてるところ」

 へえ、とミーシャは笑う。ミーシャが直接選んだ訳ではないが、ミーシャの側にいれる事を喜んでくれているなら、それは何だかとても、嬉しい。

「はい、おっけー。じゃあ食事に行きますか」

 はっと顔を上げると、鏡に映る自分の姿が目に留まる。鏡なるものを覗いて初めて自分の顔をしっかり見た時、自分はこんな顔だったのかと驚くと同時に、あまりの汚らしさに言葉もなかった。だが今、度重なる風呂に清潔な衣装、暮らしの全てがミーシャを小綺麗な姿へと変え、改めてまじまじと眺める自分は、そう価値がなくもないように思えるから不思議だ。まだ、何もしていないが。

 食堂は、二階にある。

 ミーシャが到着すると、カシミーアの声掛けで中から扉を開けてくれる。良い食事や良い寝床も勿論そうなのだが、この瞬間がなんとなく、ミーシャの中でどこぞの貴族になったように感じる瞬間の大きな一つである。

「起きたか」

 伯爵はまだ食事をしていたらしく、ミーシャの姿を認めて声をかけて来た。カシミーアが椅子を引いてくれて、そこに座しながらミーシャは少し、照れ臭くなって目を伏せる。

「いや。えっと、結局、泊めて貰ったみたいで?」

「蹴られるわ枕にされるわ、こんなに大変だとは思わなかった」

「狭い所で寝て来たから、寝相は、悪い方ではないと思ってたんですけど」

「単純に転がるスペースがなかっただけの話だろ。縦横無尽だったぞ」

 朝起きた時の体勢を思うと、知らぬ事とは言え強く否定できない。怒っている様子はなく、むしろどこか楽しそうに見えるので、そう恐縮する事もないような気がした。

 カシミーアが運んできてくれる食事に手を伸ばしながら、既に殆ど食べ終わっている伯爵はもしかしたら、ミーシャが来るのを待っていてくれたのではと少し、期待する。

「起こして行ってくれても良かったのに」

「気持ちよさそうに寝ていたから」

 ふふと笑う伯爵の目がどこか優しくて、ミーシャは妙に安心する。

「起こしてくれたら、一緒に食べれたのに」

 言うと、伯爵は目を丸くする。伯爵ではなく、給仕の侍従達が吹き出すように数人笑った。くすくすと笑う彼らは何も言わないが、それを受けて気まずそうに目を伏せたのは伯爵だ。何となくカシミーアを見上げてみると、ミーシャの侍従はにやりと笑ってオッケーのサインを出してくる。何がオッケーなのかはさておき、話題を変えるかとミーシャは頭を捻る。困った時は話題転換、これに限る。

「あー、えっと、仕事を受けると小耳に挟んだんです、けど」

 ああ、と伯爵は思い出したように顔を上げて、神妙に頷く。

「受ける方向で調査に入る、が正しい。これから調査を行い、結果次第では仕事をする」

「いつ頃になりそうなの?」

 ミーシャはパンを頬張って、うま、と喉の奥で呟く。

「そうだな、二週間程」

「はーい」

 ミーシャは殊更事も無げに、言う。本当に緊張も恐怖もないのだが、死ぬかもしれない仕事をするのだと全員が知っている手前、強がりにしか思われないようにも思うが、それでも、大した事ではないのだと強調してあげたくて、軽く答えた。

「調査を依頼したところで、私も今日は体が空いている。狩りでもどうだ、ミーシャ」

「狩り!?」

 ミーシャはぎょっとしてカップを取り落としそうになる。カシミーアが即座に手を添えてくれたので割らずに済んだが、少し零した。拭いてくれるカシミーアに何度も謝りながら、ミーシャは伯爵に顔を向ける。

「狩りって、あの、なんか殺すやつ」

「なんか殺すやつ」

 復唱して、伯爵は腹を抱えるようにして笑い出した。間違った認識だったろうかときょとんとするミーシャの前で伯爵はげらげらと笑い、例にもよって給仕侍従達が顔を隠すようにして忍び笑っている。笑われてむっとする事などないが、理由が分からずひたすらに謎が深まる。

「違う?」

「いや、まあ、違わない。違わないんだがっ」

 くくく、と伯爵はまだ笑っている。皆楽しそうでいいな、などと思いながら、ミーシャは小さく笑う。皆が笑っているという光景は、想像以上に幸せな気持ちにさせられる。その理由を自分だけが理解できない事が少し残念には思うが。

「お前は、人に笑われて笑うんだな」

 ほのぼのと皆の笑顔を眺めていたミーシャは、声をかけられてはっと我に返る。

「え?」

「普通は怒る」

「なぜ? だって、皆が楽しそうだから僕も嬉しい」

「そういう所だなぁ。お前は一々可愛い」

 可愛い、と小さく呟きながら、ミーシャは首を傾げる。

「……ん? 可愛いから笑われてる?」

「その通り」

「可愛いと、笑うもの?」

「面白いともいえる」

「訳分かんない」

 だろうな、と伯爵はやはり、また笑った。伯爵が笑っているならまぁどうでも良いか、という事にしておく。

 一頻り笑って満足したのか、伯爵は続けるように言った。

「狩りとは、まあ、対象は腕にもよりけり様々あるが、要は打ち落とす事だな。庶民でも食用に狩りはするはずだが、ミーシャは経験ないのか?」

「ないかな。大概が葉っぱ食べて。お金が入った時だけパンを買ってみたり」

「瘦せこけてる筈だな」

 伯爵は言いながら、ぽんと手を打った。

「ではまず、弓だ。弓の練習をしよう。中々に楽しいぞ」

 へえ、とミーシャは目を輝かせる。弓が武器であるくらいの認識はあったし、少なからず憧れもあった。

「男たるもの弓くらい持てねばな。早速準備をしておいてくれ、カシミーア」

「承知いたしました」

 ミーシャはスープを口に運ぶ事も忘れて、弓を携えた自分の姿を想起する。なんだか、とてもかっこいい。

 まずは食べろと言われて、ミーシャは慌てて食べ物を口に運ぶ。出されたものを残すなど、そんな粗末な事は断じて出来ない。ミーシャは全てをしっかり食べきって、ただ、ミーシャが食べ終わるまで待っていてくれる伯爵の姿に照れる。見られている事に、照れる。

 終わったかと、伯爵は立ち上がる。ミーシャはそれに倣い、カシミーアに着替えにと促された。それに適した服装なるものがあるらしく、エントランスで伯爵と待ち合わせをした。待ち合わせ、それは何とも甘美な響きで、ミーシャの中で渦巻く高揚感が留まる事を知らない。

「僕、待ち合わせも弓も初めて!」

 ミーシャがカシミーアに言うと、でしょうね、と彼は笑う。

「なんかカシミーアも嬉しそうだね?」

「分かる? ミーシャに追随して練習にご相伴出来るなんて、光栄で! 今日が担当で良かったー」

 心なしかうきうきして見えると思ったら、なんという事はない。カシミーアも弓の練習に追随出来る事を喜んでいるようで、追随される方の身としては恐縮せずに済む。

「弓得意なの? それとも、出来ないから練習を見てたい?」

 んー、とカシミーアは迷うような素振りを見せ、苦く笑った。

「弓は正直、どうでもいいかな。一通り習って、一応出来るし。じゃなくて、伯爵様の側にいれて嬉しい方。内緒だぞ」

「……何故内緒?」

「恥ずかしいだろ」

 側にいれて嬉しいなんて言われたら、ミーシャなら嬉しいが。憧れているんだ、と俄かに赤くなる彼に突っ込んだ事は聞き難く、ミーシャは自分の胸の高鳴りにだけ忠実に向き合い、着慣れぬ服に目を落とす。いつもよりも分厚く、ごわごわとした肌触り、おそらくは皮だ。着方が分からず、今回ばかりはカシミーアの世話になる。

「なんで、いつもの恰好じゃ駄目なの?」

「素人なので、弦での怪我を避ける為、一応」

 何だか沢山着せられている理由は、怪我対策らしい。

「伯爵は、弓は出来るんだよね?」

「勿論。ただ、」

 カシミーアは言葉を切り、なんでもない、と言葉尻を濁した。言いたくない事は、基本的には聞いても碌な事がない。こちらが気まずくなるだけの可能性は大いにある為、ミーシャは「気になる」とは言わない。短い人生の経験として、ミーシャにも学んで来た事はある。顔色を見る、空気を読む、聞かぬ方が良い事は聞かない。これに尽きる。

 実際、ミーシャに言葉の続きをごねられない事で、カシミーアは安堵しているように見えた。彼に困った顔をさせたい訳ではないので、「ただ」という言葉は聞かなかった事にする。

「あー動いちゃ駄目駄目、ミーシャ。触っちゃう」

「あ、ごめん」

 後ろがどうなっているのか気になって上半身を捻ろうとしたミーシャに、カシミーアは慌てたように、ぱっと両手を上げて後退する。着替えを手伝うは言っても、彼は手袋をしているにも関わらず徹底してミーシャの素肌に触れぬようにしていた。動きがあまりにも自然で避けられているような感じはしなかったので忘れていたが、そういえば、触れられないのだった。

「あんまりにもうまく距離をとってくれるから、忘れてた」

 触れるを恐れて離れ過ぎるでなく、且つ彼らはミーシャが寂しくないように適切な距離の所に居てくれる。あまりにも遠いとおそらく孤独を感じるのだろうが、そうはしない彼らの距離感の有難さを、今思い出した。

「あまりにも露骨に離れたんじゃ、寂しいだろ? でも着替えの時とかはミーシャも気を付けてくれないと。咄嗟に飛び退くにも限度がある」

「あはは、ごめんごめん」

「ったく」

 着替え終わった自らの姿には違和感があって、自分が自分でないように見えた。どこぞの貴族の子みたいだ、と正直思ったが、烏滸がましいのでそれは口にしない。

 エントランスに向かうと、伯爵は既にユージンを伴って到着していた。

 伯爵の方は大きく服装が変わったという事はないが、足元の履物が長いブーツへ、髪をきちんと束ねて帽子を被り、そして手袋を提げているのが見えた。

「恰好は一人前だ」

 伯爵はそう言って笑って、先を歩き始める。その後ろをユージン、その後ろをミーシャが続く。カシミーアは最後尾だ。

 伯爵が足を止めずに済むように、絶妙のタイミングで橋が落とされる。さあっと陽光が差し込み、眩しさに細めた目をそっと開いた時に眼前に広がる景色が、ミーシャは好きだ。輝く湖面、その向こうには森林帯がある。そこを抜けると城下町だ。自由にさせて貰っているミーシャだが、橋の向こう側にはこの城に到着以降、まだ降り立った事がない。

「裏手が山だからな。割と獰猛な生き物もいる。湖に水を飲みに来る事もあるので、きちんと人を連れた時でなければ橋を越えてはならない」

 そう言った事情で、許可が下りなかった。獰猛な生き物がいると言われてしまっては、太刀打ちできないミーシャとしては是が非でもとは言えない。橋の延長にある開墾された道は整備され、馬車も通れば行き来も容易いが、一歩木々の中に足を踏み入れたならそこは野生の山に近しい。

 山なる場所に足を踏み入れた事がないミーシャの第一印象としては、薄暗く足元が悪い、見たこともないような虫の生息する陰気な場所だった。ぷんと土の臭いがしたが、それは懐かしいものであり、不快ではない。虫も見慣れている。正直、「汚い」に慣れているミーシャとしては、土埃に顔を顰めるユージンの反応が一番面白かった。

 伯爵は淡々と、貴族様にしては珍しいのか土を蹴り上げながら、汚れを気にするでなく歩いているように見受ける。カシミーアも後ろから臭い、汚い、と小声でぶつぶつ言っていたので、ユージンやカシミーアの抱く感想の方が普通と捉えるなら、伯爵はおそらく、変わっている。

「馬を覚えたら狩りが出来る。まずは弓を引けるようになるところからだ」

 橋を渡りきり、湖畔沿いを歩いて森林帯に入る事暫し、そう奥入りする事無く伯爵は足を止めた。視界には湖も、聳え立つ城も入っている。獰猛な生き物がいるというだけあって、練習にそう深入りなどしていられなかろう。

「まずはただ、弓を引く練習だ。湖に向かって引く。誰にも当たる心配がなく、安全だからな」

 成程、とミーシャは大きく頷く。伯爵はユージンから弓を受け取り、構えた。

 伯爵がすらっと弦を引いた瞬間、ミーシャは胸が高鳴るのを感じた。ミーシャには見えぬ獲物を狙うような鋭い眼光と、しゃんと伸びた背筋が分からぬながらに美しく、伯爵の無表情がまた妙に、どきっと胸を打つものがある。これが色っぽいという事かな、と密かに思った。

 空を切るような聞き馴染みのない音がして、伯爵が弓を放ったのだと知る。慌てて弓を目で追おうとしたが、気付いた時には遥か彼方、湖面に落ちる瞬間だった。弓を放ったと思しき瞬間、ふわりと束ねた伯爵の髪が跳ね、ゆらりと揺れた。金の波が躍ったようで、思わず見惚れたとは口が裂けても、言いたくない。

「こうだ。見ていたか?」

 まあ、とミーシャは曖昧に言う。見たは見たが、学ぼうと言う意識で観察はしていなかった。

「剛腕でならした者ならば、城まで届く事もあるという。か弱き私には無理だがな」

 伯爵に無理なら、ミーシャとて無理だが、そんな事よりも、この湖を放たれた弓が飛び越える事の方が衝撃であった。

「そんな凄い人がいたら、なんていうか、遠くから狙われ放題というか、危ない!」

「城の壁を貫く事はないから大丈夫だろ」

 けろりと伯爵は言うが、そういう話ではない。呪いで人を殺す伯爵を恨み、命を狙われるような事はないのだろうかとふと思ったのだ。外征中、城から一歩でも出ている折、目に映らない程遠くから、弓で狙われたら避けようがない。まさに現状も危険なのではと、ミーシャは我知らず慌てて周囲を見回した。鬱蒼とした木の茂る背後には、人が隠れられる場所が五万とあって、急に空寒くなる。

「城下町から城へは一本道。城壁が城と城下町を隔離している。侵入者は、直ぐに分かる」

 ミーシャの反応から察し良く言って、伯爵は苦く笑う。

「刺客よりも野生の生き物に警戒した方がいい。ま、この辺りは大丈夫さ。大きな生き物が近づいてくれば、ユージンが討つ。後ろの事は気にするな」

 やってみろ、と伯爵は背後ばかりを気にするミーシャに、自らの弓を持たせる。思っていたより重い。ずっしりと、とまでは言わないが、何時間も練習するのは難しいように思えた。

「わっ」

 伯爵が手を離すと、地面に弓が落ちた。長さもあって、小柄なミーシャでは構えても地面に擦ってしまう。

 伯爵はユージンから三周り程小さな弓を受け取り、今度はそれをミーシャに手渡す。自分の弓を拾い上げて今一度構え、こう、とミーシャに手本を示した。

 小さな弓を見よう見まねで構えると、伯爵の動きに倣って弦を引く。これがまた、想像以上に力が必要だった。弓はこう、姿勢はこう、と伯爵に倣ううち、ミーシャは背後の懸念などすっかり忘れて没頭する。初めて引いた矢は胸を擦り、カシミーアの言っていた「怪我対策」の意味を身で以て理解した。薄着だとおそらく、かなり痛い。

 弦を引けるようになってくると、楽しくなってくる。矢が前に飛ぶと、思わず感嘆の声が漏れる。ミーシャはすっかり夢中になって、気が付くと日が暮れていた。一心不乱に練習した甲斐あってか、飛距離は伸びぬが弦が胸を掠める回数が減り、意識せずとも成型がとれる。

 城への帰り道すがら、またやりたいと目を輝かせるミーシャに、伯爵は笑った。

「明日は体全体が痛いぞ?」

「どうして?」

「慣れぬ事をすると体が悲鳴を上げるものだ」

 ふうん、とミーシャは分からぬと示すように適当な相槌を打ち、伯爵の前に回り込むようにして話しかける。

「次、次はいつできる?」

「んー」

 伯爵は茜色の空を見上げるようにして、言葉を切る。伯爵が立ち止まると、全員が立ち止まる。見晴らしの良い橋の上、湖面に立つ波が風の存在を知らせる中、やはりふわりと、長い金髪が揺れた。夕陽に少し赤味が差し、美しいがどこか、物寂しく見える。

「次は、……仕事の後かな」

「そう」

 では、少し間が空く。

「じゃあ、忘れないように、部屋で型の練習だけする」

 にこにこと言うミーシャを見下ろし、伯爵は何を考えているのか、薄っすらと優しく笑った。ミーシャを見る目が、母のそれと重なって一瞬どきっとしたが、直ぐに伯爵は表情を改めて悪戯に言う。

「間違えてもカシミーア目掛けて放たんように」

「失礼な」

「窓を割るなよー」

「放たないって!」

 伯爵とミーシャがげらげらと笑いながら進む後ろを、ユージンとカシミーアが付いて来る。日が暮れて家に帰る家族のようで、ミーシャは四つもの影が伸びる事に揚々と気分が跳ねた。日が暮れたら帰る家があって、仕事を終えて帰る事を許される。

「お帰りなさいませ」

 城に入ると、カタールが迎えてくれた。お帰りと迎えてくれる人がいて、声があって、ミーシャは少し照れ臭くなる。伯爵などは堂々と片手を上げるが、ミーシャには真っ直ぐに自分を見て佇むカタールに、感動のあまり声が出ない。

 ミーシャが遅くに帰ると祖母はもう寝入っていたので、起こさぬようにと静かにそのまま布団に直行した。のそりと体を起こした母がミーシャを引き寄せ、抱きしめ、遅くまでありがとうと言う。その母の胸で静かに眠りについたものだったので、ミーシャは、それを口にした記憶が殆どない。

 大きな声で、言ってみたいと思っていた。

 佇んだまま動かないミーシャを、先を行く伯爵が振り返る。ユージンもまた、振り返る。カシミーアは不思議そうにミーシャの顔を覗き込む中、勇気を出して、両の拳を握りしめて、それを口にしてみる。

「……た、ただいま。カタール」

 きょとんとした顔のカタールと、目を丸くした後吹き出したカシミーアが視界に映った。真っ赤、と小さく笑ったのはカシミーアの方で、迎え入れてくれたカタールは優しく笑った。

「お帰りなさいませ、ミーシャ」

「ただ、いま」

「ええ、お帰りなさいませ」

 ミーシャは嬉しくなって、ぱっと泣きそうな笑顔を浮かべる。

 ただいま、と今一度大きな声で言うと、今度はカタールとカシミーアが声を揃えた。

「「お帰り」」

 ミーシャは二人に飛びつく。二人はひぇ、と身を翻し、傷ついた顔をするミーシャの頭を手袋越しに何度も撫でて謝って来る。触れてはならぬ彼らの、ミーシャへの精一杯の接触だった。


 ーーああ、失いたくない。


 今の生活を、失いたくない。

 過分な処遇を与えられた自分が、美味しい食べ物にも、温かい寝具にも、清潔な服にも、決して慣れてはならないと思っていた。それは一時与えられている夢のようなもので、お情けのようなもので、ずっと、永遠に、望んではならぬものだと思っていた。だから、それに慣れ過ぎてはならぬと、後から苦しくなるのは自分だと、ずっと言い聞かせて生活して来た。

 だが、この生活を失いたくない。もう、離れたくない。

 ごめんお母さん、とミーシャはカタールとカシミーアを見上げながら、心の中で何度も唱える。きっとミーシャを心配していると思うのに、心配をかけたくないと思うのに、戻りたくないと思ってしまった。


 ゆらりと、自分にだけ訪れた幸せに対し、罪悪感の火が灯る。

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