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第5話
レノ城に来てからのミーシャの生活はと言えば、朝、兄弟のどちらかに起こされる事に始まる。
食事の準備がされていますと食堂に連れて行かれ、馬鹿でかいだけの広過ぎる食堂で食事を戴く。まずは太れと、肉を中心とした料理が準備され、ミーシャは毎食舌鼓を打った。見ているだけで腹が膨れる、と食事を共にする伯爵は笑った。
そこから昼食までは、否、食事以外の全ての時間は自由時間と言って良い。ミーシャがやりたい事を決め、兄弟がそれを叶えてくれる。気にかかっていたパイプを見に行って、その構造に驚き、実際にどのように聞こえるのか実験をして貰い感動する。湖に釣りに出かけたり、畑仕事の手伝いをさせて貰ったり、他の下仕えの者達がどのように働いているのかを見学した。
文字が読めるようになってみたいと言えば、兄弟が練習に付き合ってくれた。さっぱり分からなかったが、とりあえず自分の名前が書けるようになった時の達成感足るや、紅潮きった顔に兄弟が揃って笑ったものだ。
風呂はといえば、ちょっとした湖程の大きさがあるようにミーシャは感じた。信じられない広さの湯舟とやらに湯がはられ、ほかほかと湯気があがる。体を浸して良いのだと言われて入ると、昇天しそうな程に気分が良かった。体を綺麗に洗って、用意してくれる服に着替え、寝台に飛び込む。これが貴族の生活なのかとそれを満喫しつつも、何もせずして衣食住を享受する事が、ミーシャにとっては少し、苦痛ではあった。
母や祖母は元気かな、とふとした瞬間に思う。
ユージンから聞かされた話では、近くの街に居を与えられ、移住したと聞く。母はそこで針の仕事を貰い、日々の食い扶持を稼いでいるそうで、フィナンシェはミーシャからの贈り物だと言って早々に届けられたそうだ。家賃も息子が奉公で払っているからと言うと母はずっと泣いていたらしい。想像すると、少し泣ける。ともあれ、ユージンが嘘をついていなければ、母達は屋根のある人並みの暮らしが出来ている、という事だ。もう心配はない。
「僕の初仕事って、いつになるんだろう」
昼下がり、テラスでぼんやりと青い空を見て微睡むミーシャに、側に控えたカタールが応じる。
「伯爵様に仕事が入ったら、ですね。仕事を受けるかどうかお決めになるのは、伯爵様ですし」
「受けない事もあるの?」
「リスクが大きかったり、意に添わぬ理由であったり。伯爵様はとても優秀でいらっしゃるので、依頼はひっきりなしです。全て受けていてはきりがないですし、恨みのない人間というのはあまりいませんからね。全部受けてしまってはこの国から人間がいなくなります」
「えー、そんな事ある?」
「人は知らぬところで誰かの恨みを買っているものですよ、ミーシャ」
そうかな、と思わないではないが、ミーシャなどはまだまだ人生経験が足りなかろうと黙る。
「呪いたいって思うのは、大体において、強い恨みとかがあるわけでしょ。殺してやりたいっていう、思いでしょ?」
「それが多いな」
空を見上げて問うたミーシャに答えたのは、カタールではなかった。はっと振り返ると、そこにはいつやって来たのやら、伯爵の姿がある。慌てて立ち上がるミーシャを座らせ、伯爵は自身も隣の椅子に腰を下ろして深い溜息を吐いた。
「休憩しに来たのだが。難しい事を考えてるんだな、ミーシャ」
食事の時は顔を合わせる事も多いが、それ以外では顔を突き合わせて話すのは随分と久しぶりのように思えた。少し、照れ臭い。
「いや、まあ。なんで呪うのかなって。自分で殺せばいいのに」
「普通、自分の手を血で汚すのは嫌なもんだ」
「殺したい程憎んでいるのに? 自分でとどめを刺したいとは思わないんだ?」
「恐ろしい事をさらっと言うなぁ、お前」
くくっと笑う伯爵は、空を仰ぐ。
「人を殺すと、普通は裁かれるんだ。世間の目も厳しい。恨みというものは人の数だけあるものだが、これは許せん、と私が思う程の恨みとなると、そう数はない。あったとしても、そう簡単に受けていたら身がもたない」
「伯爵は、それじゃあ自分だけの意思で、人を裁くんだ?」
「というと?」
「だって。例えばカタールを殺して下さいって依頼が来たとするでしょ。その理由は、伯爵にとって、それは許せんなと同調出来るものだったとして、僕も同調出来るか分からないじゃない? 僕はカタールの事好きだから、助けてあげたい、許してあげてって思うかも」
うん、と伯爵は神妙に頷く。
「でも、伯爵が許せないと思えたら、依頼者に同調出来たなら、伯爵はカタールを呪い殺す。誰かにとっては、殺す程じゃないのにって思えても。伯爵が絶対正しいかどうか、どうやって決めるの?」
僕ね、とミーシャは続ける。
「依頼を全部受けているなら、分かるんだ。選ばないなら、全部受けるなら、そこに伯爵の感情や采配はなくて。ただ粛々と仕事をするんだな、仕事だもんな、って思える。顔もおそらく知らない依頼人がそもそも本当の事を言っているとも限らないのに、悪い事をしていない人を誤って伯爵が呪ったら、それは仕事じゃなくて人殺しかなって思ったり」
後ろに控えているユージンも、カタールも口を挟んでは来ない。おそらく失礼な事を言っているだろうが、窘めの言葉はなかった。
「素朴な、疑問で。それって、伯爵を苦しめるんじゃないかなぁ、とか。そんな事思わない?」
「私情は入るとも。人間だからな。カタールを殺せという依頼が来ても、おそらく無視するだろうな。私は私の守るべき領民が愛おしく、領民の為に金を稼ぐ手段として仕事をしている。当然さ、私情は入る。入れ放題だ。私が働くのだ、嫌な仕事を断るのは私の権利だ」
目を丸くしたミーシャに、伯爵は笑って続ける。
「呪った相手が、呪い殺すに値する相手であったかどうか? そんなもの、誰にも分からん。殺す程の恨みというものは、人目につかぬ所にはない。血の涙を流す程の恨みは、その者を支える者、周囲にいる者、事件や事故の当事者など、必ず同情を示す周囲の人間の存在がある。だから当然、私は探りを入れる。このユージンに、或いは各地にいる私の忠実なる配下の者達に調べさせてから、間違いなかろうと思えた時に初めて決行する。送られてくる依頼一つ一つなど、当然調べはしないがな。これだけ長くやっていると、大体分かる。書簡から滲み出る怒りが、恨みが、苦しみが、ひしひしと伝わって来るものがある。それを調べ、得心がいった時、私は依頼を受ける」
「そこに間違いはない? 自信たっぷり?」
「自信たっぷりだとも。私がそう直感し、部下がきちんと仕事をして調べてくれた結果に基づいているんだから。ああ、自信があるとも。そこまでしてたとえ誤っていたとしても、だ。私に間違えたと知る術があるか? やれるだけの事はやったという自負しかない。後から知らぬ真実が出て来ると癪だから、その後どうなったかは調べないしな」
さらりと言われ、ミーシャは笑ってしまう。
「天才ですもんね」
「ああ、そうとも。天才は常に自信に満ち、誤りは誤りと認めなければ誤りではない」
「でも、これは強い恨みだな、これはそうでもないな、というのは、こう、どうやって判断を? 直感だけ? 僕が小さい時に、貴族様の服を汚した人が殺されたけど、なんでそんな事で、って僕らは皆思ったよ。でも貴族様は、それはもう烈火の如く怒ってた。絶対に許さないっていう、それこそ憤怒がもう、全身から迸って見えた。価値観って、人によるでしょ?」
「私は貴族だ。ミーシャのような下々の気持ちは、残念ながら理解できない部分もある。だから、私が仕事を受けるのは貴族から貴族に対する恨みだと決めている。その心に同調しやすく、また、私の提示する金銭を支払えるのは貴族くらいのものだから」
「そんなにぼったくるんですか?」
「そりゃあそうだろう。生贄の命を危険に晒す行為なんだ。一回で領民を一ヶ月は養える程度に、目玉が飛び出すような金銭をぼったくる」
はっはっは、と笑う伯爵に、ふうん、とミーシャは笑う。
「いちお、ちゃんと理由があってやってるんですね」
「不安だったのか?」
「まあ。僕らは理不尽に奪われる側だから。刺される事を警戒して逃げる事はまだチャレンジ出来ても、どこから来るか分からない呪いみたいな目に見えないものまで気にしてたら、神経すり減ってそれだけで死んじゃう」
「正しい事をしているとは、思ってない」
言われて目を向けると、伯爵は徐に立ち上がった。伯爵の顔を追うように視線を上げると、陽光が眩しく、ミーシャは思わず目を細める。
「どれだけ取り繕おうとも、人を殺める行為には違いない。それも、顔も知らぬ相手だ。呪い殺された者の死因は、判断のしようがない。大概が病死と思われる。殺された事を知るのは、私と、ユージンと、実際に調査を行った者だけだ。殺されたと知るや、遺族にはそこに恨みが生まれ、新たな火種となる。呪いはそれを交わす為の隠れ蓑でもあり、その者の死を病死なら仕方がないと諦めさせ、新たな恨みを生まさぬ効果もある。人を殺したという罪悪感は、我々だけが背負えば良いもの」
酷く悲し気に見えて息を飲んだミーシャに、伯爵はにっと笑う。
「人殺しの汚名と罪悪感を常に抱く我々と、お前達死の恐怖を秘めた生贄。大金くらいぼったくらないと割に合わないだろう?」
笑いながら背を向けた伯爵は果たして休憩になったのやら、ミーシャの部屋を後にして行ってしまった。
「……強くあろうとする方なのですよ」
カタールがぼそりと言ったので、ミーシャは小さく頷く。
「苦しいは、苦しいんだね。伯爵も」
「正解のない仕事ですから。だから、触れる事が出来るあなたに、慰めて欲しいと我々は願うのです」
そうかも、とミーシャは思う。あの伯爵は、伯爵であるが故に縋るものがない。誰かに縋って弱音を吐きたくとも、触れられる相手が、ない。心を許したユージン相手だとしても、触れる事は出来ない。
「抱きしめられると、楽になるんだよね」
ミーシャは母の熱を思い出す。お腹が空いたねと、二人で抱きしめ合って慰め合い、寒いねと互いの熱で暖をとった。それは心に沁みる温かさで、言葉で慰めるとは全く別の幸せがあった。
「皆、そう思ってるんです。でも、出来ない。痛々しいその背中に、飛びついてあげる事が出来ない」
うん、とミーシャは閉まった扉を見つめ続けながら、思う。
誤りを認めなければ誤りではない、のではなく、誤りと認めてしまったら這い上がれないから、それを認めないように努める人なのだ、とミーシャは考える。仕事をするために、領民を守る為に、心を壊してしまわないように、誤った人間を殺してしまう恐怖を押し込める為に、間違えたかもしれないとは考えない。自分の価値観で裁く事の愚かさをきっと、知っている人だ。だが、領民を飢えさせない為に、手を休める事は出来ない。日々を、葛藤の中暮らす人なのだ。
「伯爵と、もう少し話してみたいな」
「ミーシャが望むなら勿論、お時間をとって下さいますよ」
「そーかな。忙しそうだけど」
「お部屋に籠っておられると余計な事を考えますからね。無理やり外に引っ張り出してもらう方が良い事もあります」
「それは、そうかも?」
じゃあお願いしておいて、とミーシャは笑った。
それがまさか、このような事になろうとは夢にも思うまい。
その夜、ミーシャは伯爵の自室へと招かれた。少し眠いんだけどな、とは思ったものの、喋りたいと申し出たのはミーシャであるだけに、仕方なく向かうとまさかの、そこは寝室であった。
「一緒に寝ると約束していたな、と思って」
伯爵は寝台に座し、ぽんぽんと隣を叩く。
「ま、どうぞ存分に楽しみたまえ。この、最高級の寝具を!」
「……それは忘れてくれと、言いましたけど」
「約束は守る」
きりりと言われても、嬉しくない。
「やっぱ男同士で、それはないかな、って」
「何を変な期待をしている。誰がくっついて寝ると言った? これだけ広いんだ、端と端で寝ればいいだろ」
「最高級の寝具には興味ありますけど、隣で寝るのは、やっぱりちょっと」
「この私にソファで寝ろと言うのか? この美しい顔に隈が出来たらどうする!」
僕の部屋の寝具を貸す、とは流石に言えなかった。遠目に見ても、どう見ても寝具のレベルが違う。転がってみたいという欲求が沸々と起こるが、伯爵と自分が寄り添って眠る姿を客観的に想像しただけで気持ち悪い。
目に見えて嫌な顔をしていたのだろう、伯爵は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「無礼な奴め。嫌なら帰れ」
「……ちょこーっと、転がってはみたい」
「本当に無礼な奴だな、お前は!」
伯爵は毒づきながらも、徐に立ち上がってソファへと移動した。顎で寝台を示すので、いそいそと移動する。
「うわっ」
沈んだ。柔らかすぎて体が沈む。なんだこれ、なんだこれと連呼するミーシャを、伯爵は自身の膝に頬杖を付くようにして眺めていた。
「で、話とは?」
「はい?」
「話がしたいんじゃなかったのか」
あまりの感触に目的を忘れるところだった。跳ね回って髪をぼさぼさに揺らすミーシャの紅潮した顔を見て、伯爵は苦く笑う。
「その様子だと、大した話じゃないな?」
「ま、まあ。ちょっと、なんとなく、もう少し話をしてみたかったな、と。特別これといった話題がある訳では、ないんですけど」
「その程度の理由で伯爵様の時間を奪うとは、流石ですなぁ」
言いながら、伯爵はソファに転がる。楽な姿勢に入る伯爵にならって、ミーシャは勝手に寝台の上に俯せ、顔を両頬杖で支えた。
「今日はもう、お仕事は終わり?」
「話がないなら仕事に戻ってもいいところだが、すっかり気が削がれてしまった。今日はもういい」
天井を見つめながら、伯爵は薄っすらと笑う。
「昼間の事を気にしているのか?」
「んー、まあ。大変だな、って」
「大変。それはまぁ、命のやり取りだから、大変と言えば大変だが。お前は何か勘違いしているようだから言っておくと、私はどんな身分の、どんな命も平等で大切な一つの命だ、などと綺麗な事は考えていない。知らぬ者の命は、知らぬ命だ」
ミーシャが黙っていると、伯爵は続ける。
「所詮私も貴族である。風呂に入った事もないような者達と自分の価値が同じであるとは思っていないし、近くにある、例えばユージンの命がかかっているのであれば、見知らぬ百の命を奪う事になんら躊躇いはない」
「……ふーん」
「冷酷な、とは言わないんだな」
「貴族様ってのは、そんなものかなって。僕達は自分達の命が虫けらのようだと理解しているし、死んで困る者の数が違うんだろうな、くらいの想像はする。僕だって、母の命と天秤にかけるなら、知らない人がどうなろうと正直、知ったこっちゃないかなとも思うし。自分の手で殺さなければならないならまだしも、手を下す事なくいなくなってくれるなら、罪悪感なんて生まれるかな? とも思うし」
「割と淡泊だな、お前は」
ミーシャはふふと笑う。
「命があるのが不思議なくらいのところで、生きて来たから。死が怖いとかじゃなくって、逆になんで僕って生きているんだろう、みたいな。それに比べたら伯爵は、カタールや、カシミーアや、領民皆の命を預かって頼られて慕われて? ああ、そりゃ僕のあるかないか分からない命と一緒じゃないよな、って思うもん」
「確かに、知らぬ命と大切な命を天秤にかけたら後者を選ぶ事に迷いはないが、だからといって、殺す必要がない命を殺したいとも思わない。お前が私の服を汚したからといって、その程度の事で殺す手間の方が馬鹿馬鹿しい。人の死を見る事は、どちらかというと不快だ。命というものの価値は同じだ。命の価値ではなく、生きて来た人生の価値への認識が違うだけだ」
ミーシャが目を丸くするのと、一息吸った伯爵が更に言葉を続けるのが同時だった。
「命は同じさ。止まったら死ぬ。違うのは、生き方の価値だけ。お前のように価値があるだろうかと自身に意義を見出せない者と、領民を守る為に寝る間を惜しんで学んで来たと自負する私、その者の中に命の価値はある。私は自分の命に価値があると思っているし、それだけの努力をしてきたという自負がある。お前にないのは、それだけだ」
ミーシャは繁々と伯爵を見つめ、こてんと寝台に頭を落とす。
「どうしたら、その自負は生まれる?」
「それだけの努力をせよ。私は他の者に必要とされていると自負している。それは、そうある為の努力をして来たという自負が齎す、結果だ。お前は私にとってのかけがえのない者に、まずはなるといい。私にとって代わりのない、者。そう在る事に成功した時、まずは一つ、自分の命に価値を見出せるだろう」
「死ななければいい」
その通り、と伯爵は笑った。
「おおっと、とても良い事を言ったな? 今、私はとても良い事を言わなかったか? 惚れてくれるなよ」
何それ、とミーシャは薄く笑いながら、問う。
「じゃあ、呪いをかける事に対して、というか、それで人を殺す事に抵抗はあまり、ない?」
「知らない命だ。所詮私の行動は、殺人。直接手を下さず、ばれる事も捕まる事もない殺人だ。人を裁く為の裁判がある以上、倫理上、褒められた職業では当然ない。法を軽んじ、犯す行為である」
「そういう認識はあるんだ」
勿論、と伯爵はやはり、笑う。
「殺しても差し支えない屑であるかどうか、それは先にも言った通りきちんと調べはする。だが、その者が誰か一人にでも価値のある命である以上、どのような屑でも殺人は殺人。屑の審議は、所詮私の主観だ。同じように人を弑した人間であっても、酌量すべきか、屑であると断ずるか、それは全て私の采配次第、個人的な感情がどうしても入る」
ころりと転がり、再び頬杖をついて伯爵に目を向けたミーシャに対し、伯爵は続ける。
「個人的な感情で人を罰する事なきようにする為にあるのが、裁判だ。だが、私はその法則を無視し、自分の感情にて人を呪い殺す。そこに罪悪感がないかと言えば、当然、なくはない。知らぬ命であれど、誰かから大切な人間を奪っているという感覚はやはり、ざらりと、言い知れぬしこりとして胸に閊える」
とん、と胸を軽く叩くようにして、伯爵は力なく項垂れた。しかし、次に顔を上げてミーシャを見た時にはやはり、笑っていた。
「が、何度も迷い葛藤し、決めた。私のこの胸の閊えは、領民の幸せの代償だと。仕事と割り切り、罪は罪として負う覚悟を決めた。故に人を呪う事に躊躇はなく、私は領民に慕われる為の、伯爵である為の代償としてその小さな閊えを少しずつ溜めていく事とした。私が死ぬまで爆発しなければ良い、それだけの蟠りだ」
くるりと体をこちらに向けて、伯爵はミーシャの目を覗き込む。その目に恐怖や怯えはなく、ぎらりと輝いた。
「私は領民にとっての神である。職を与え、金銭を与え、不自由なく暮らせるだけの支給、最低限の暮らしを保証できるだけの心の安寧を与える、正に神。その為の苦痛を受け入れ、努力をしていると自負する。どうだ、自負しても良かろう。神を名乗っても良いとは思わないか」
良いような気がして来た。
「大いに媚び諂ってくれて結構。その価値が、私にはある!」
なんだか、そんな気がして来た。無性にしてきた。
「こっちの屑は有罪で、こっちの屑は本当に無罪か? 殺した後で善人であったという証拠が出てきやしないか? 見当違いの罪を着せてやしないか? 私は本当に、誰にとっても罪人である者を裁いたのか? そんな事は、数え切れん程悩んできた。そして結論付けた。私は私の為に調査を行う部下達を信じて疑わず、殺した相手の事は事後調査を決してしない。そして同じ罪でも有罪か無罪かを判ずる自分の主観については、私は私の感覚を信じると決めた。私は天才だ!」
はっはっは、と笑いながら、伯爵はずいとミーシャの目を更に覗き込む。身を乗り出し、吐息が触れ合う距離で、その目をじっと覗き込んで来る。ごくり、と我知らずミーシャは息を飲んだ。
「こうして誤魔化しながら生きて来て、私は今、本当に自分を天才だと思っている。思い込みとは凄まじい力だぞ、ミーシャ。お前も、呪い返しを受けて死なぬ私の唯一であると思い込め。せいぜい自惚れて、思い込むが良い。それは時に、恐ろしい力となるぞ」
どうだ、と言った目は、ぎらりとした力強い輝きを失い、穏やかに控えめに光った。美しいな、と素直に思った。
「伯爵はお綺麗だし、天才だと。僕も思います」
「お綺麗を足してくるとは、中々見る目がある。そう、容姿も美しい」
ふふんと笑う姿は残念なものがあるが、美しいものは美しい。大変遺憾ながら。
ミーシャは、そっと手を伸ばし、伯爵の頬を摩った。ぎょっとしたように伯爵は見た事もない困惑の目を浮かべ、ミーシャはその顔が可笑しくて、くすりと笑う。
「温かい」
「……人間だからな」
「いや、僕しか触れられないんだって聞いて。今この城では、僕だけなんでしょ。僕が触ってあげないと、伯爵寂しんじゃないかなと」
「誰だ、余計な事を言った奴は。ユージン、……いや、カタールだな!?」
「抱きしめてもいい、伯爵」
ミーシャがとすんと寝台に座して両手を広げて言うと、伯爵は苦々しい顔をする。
「何のために」
「抱きしめられると、落ち着くから。なんか、幸せだなって、思えた数少ない経験の一つだから」
「……お前も、私にしか触れられないから仕方がないな。仕方なく、触らせてやるか」
「はいはい」
ミーシャはばふっと、伯爵の頭を抱えるようにして胸に抱きしめる。頭を撫でくり回してから、そっとその頭に自分の頭をのせる。
「……そういえば、僕、抱きしめたの初めて」
「うん?」
「いつもは、お母さんが抱きしめてくれたから。僕が抱きしめた事って、ないかも」
「うはははは、お前の初めては頂いた」
なにそれ、と呟きながらも、ミーシャは目を閉じる。妙に安心する。心が穏やかになって来て、このまま抱きしめ返してくれないかな、と少し思ったが、流石に気恥ずかしくて言えなかった。
「この城はどうだ、ミーシャ」
「うん? カタールもカシミーアも良くしてくれるし、居心地いい。見た事もないもの食べさせてくれるし、体も白くなってきた」
「過ごしやすいなら、良い」
うん、と呟くミーシャはうとうとと、微睡み始める。心地が良くて、眠ってしまいそうだ。
「言葉を、ちゃんとしようって思ったりもしたんだけど。誰も何も言わないから、もういいやって」
「そんな事は求めていないので気にしなくても良いが、学びたいというなら手伝う。好きにしたらいい」
「生贄じゃなかったら、打ち首?」
「ユージンあたりの逆鱗が怖いかな」
然もありなん、とミーシャは笑う。
「文字はもうちょっと、学んでみたい気もする。読むのは習ってみたんだけど、中々難しくて。書けるともっと楽しいだろうなとは、思うんだけど」
「侍従に頼んでみるといい。彼らは読み書きが出来る」
うん、と呟くミーシャの言葉に、力がなくなって来る。折角伯爵とお喋りをする時間が出来たのだからもう少し、もう少しと思わなくもないが、その伯爵のせいで眠い。自分が離れれば良いのだろうが、体を動かすのが億劫になってきた。それに、温かい。離しがたい程に温かく、心地良い。
(なぁんか、落ち着くんだよな)
そんな事を思った瞬間には、ミーシャは眠りの世界に落ちていたらしい。
以後の記憶がない。
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