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第4話

更に一週間が経とうかと言う頃、漸くその城は見えて来た。

 城の名は、当然と言えば当然か、レノ城と言った。名の通り、レノ伯爵が治める城である。

 うわあ、うわあ、と見た事も聞いた事もない城なる壮大な佇まいに、ミーシャは終始興奮しきりであった。馬車から身を乗り出すようにして、徐々に近くなってくるレノ城をずっと眺めていた。落ちるぞと窘められたのは、一度や二度ではない。

 レノ城は、近づいて来て初めて、湖の中に在る事に気が付いた。

 佇まいとしては非常に質素な部類なのだろうか、煉瓦を高く積み上げたあまり凸のない造りで、美しいというよりは歴史を感じる良い意味での古さがある。

 湖の中にある小島に向かって、一本だけ橋が伸びていた。そこからしか城に出入り出来ないんだと、伯爵は言った。

 湖畔で馬車から降ろされて、人二人がやっと並んで歩けようかという狭い橋を渡る。思ったより頑丈で、軋む事はない。小島から先に橋はなかったが、暫くすると、城から吊り橋が下りて来た。城の中からしか操作が出来ぬそうで、これもまた、入城者を選別する為の仕掛けだと言う。

 伯爵様のお戻り、と、良く通る声が聞こえてくる。吊り橋を渡りきると、ごうごうと音を立てながらそれは背後で重々しく閉ざされた。

「う、わあ……」

 最早、感嘆の言葉しか出ない。

 そこには、一つの街があった。広大な街を城壁が取り囲むようにして造られた正方形の城で、伯爵の姿を認めてわらわらと信じられない数の人間が群がって来る。

「お帰りなさいませ」

 声を揃えた出迎えの言葉に、伯爵に向けられたその言葉を隣に佇むミーシャも全身で受ける羽目になる。びりびりと、身が震えた。

「この者が此度の生贄である。皆誠心誠意、よく勤めよ」

 ユージンが声をかけると、ざっと全員が頭を下げる。伯爵ではなく、ミーシャに向かって、頭を下げる。面喰ってつい、伯爵の服にしがみついてしまった。正直なところ、怖い。

「なお、この者は少女ではなく、少年である。これまでと違い、対応は男の侍従に任せる。配置の確認をせよ」

 しん、と全員が黙り込む。ミーシャに向けられる何百という目に、心底震えあがった。声を出す事も出来ずに震えるばかりのミーシャに、伯爵は手を振り払うでなくぽんと頭を撫でた。

「この者は、死なぬ生贄となり得るやもと考えている。皆、そのつもりで接するようにせよ」

 ざわ、と聞き取れない言葉のさざ波が静かに流れ、「はっ」と全員が再び徐に頭を下げた。伯爵が一歩を踏み出そうとすると、さあと波が引くように人波が揺れ、道を開ける。その中心を堂々と行かんとする姿はやはり伯爵でしかなく、この城を統べる者であるのだと急に実感が沸いた。

(本当に、偉い人だ)

 伯爵という号の凄さはなんとなく知っていたつもりでいたが、いざ統べる城、統べる人民、統べる土地を目の当たりにさせられると、その恐ろしさは頭で考えずとも理解できた。伯爵を敵に回すという事は、逆らうという事は、伯爵を慕う全ての者を敵に回すという事だ。ミーシャ如き、踏みつぶされたら御終いだ。

 誰も襲って来ない事は重々承知していたが、ミーシャは慣れぬ景色にすっかり恐れ戦いてしまい、伯爵にしがみついたまま離れる事が出来なかった。

「なんだ、ミーシャ。昨日までのでかい口はどうした」

 にやにやと笑う伯爵に、こいつだけは変わらないなと思いつつ、ミーシャはむくれる。

「いや、よく今まで命があったな、とは思って、ます」

「やっと分かったか。言ってるだろ、私は、伯爵だ」

「本当にそうだったんですね。ちょっと、疑ってました」

「何故だ!? こんなに高貴だというのに! 疑うところなんてなかろう」

 見目としては疑う余地はないのだが、口を開くとどうにも疑わしくなるのだ、とは言わないでおく。

「僕、ここに住むんですよね?」

 恐々というミーシャに、伯爵はここぞとばかりに虐めて来る。

「私と寝るんだろ?」

「……それはもう、忘れてもらっていいです」

「私は約束を守る」

 嫌がらせの間違いだと思ったが、にやにやと笑う伯爵に今、この場では勝てない。ミーシャは完全に空気に飲まれてしまっている。ぼそぼそと小声で喋ってはいるが、周りにいる人間に聞き咎められて無礼打ちをされやしないかと、内心ひやひやしている。

 低頭した人の間を縫うようにしてやっとの思いで人垣を抜けると、今度は見上げる程の門があり、背筋の伸びた兵士が佇んでいた。伯爵の姿を認め、体を開くようにして道を開ける。

「お帰りなさいませ、伯爵様。ユージン様」

「ん。今日からこの子供が共に暮らす。男の従者を広間に集めよ」

「承知いたしました」

 ちらり、とミーシャに向けられた視線に、ミーシャはまたしても震え上がる。目に射抜かれたような気さえした。

 益々伯爵にしがみつくミーシャは、最早前など見えていない。背中に顔を埋めるようにして、伯爵の歩幅に合わせてのそのそと歩いていると、見兼ねた伯爵に引き剝がされた。

「ここで生活するというのに、何だその為体は」

「ひええええ、慣れるまでに時間がかかるものでしょ!」

「顔を隠している場合か。お前をまずはお披露目しておかなければならないんだから、顔を出せ、顔を。顔を覚えて貰わないと、それこそ侵入者として殺されても知らんぞ」

 それは困るとばかりに、ミーシャは仕方なく顔を上げる。が、伯爵の服は手放せない。

 開けた無駄に広いホールの奥には、二本の階段が見えた。くるりと渦を巻くように二階へと続いているようで、天井が高過ぎて見上げていると後ろにひっくり返りそうだった。

 階段の前には、ばらばらと人が集まって来ていた。まじまじと見ていると男ばかりで、彼らが男の従者かと推察する。

「世話が出来そうな者だけを集めました」

「それで良い。顔を上げよ」

 一列に並んだ面々の数は、おおよそ五十。それだけの人間が並べる広さに驚き、先程の今でさっと全員が集合出来た事にも驚きを隠せない。

「どうやって集まったんですか」

 こそりと聞くと、伯爵は「ん?」と目で不思議そうに問いかけてくる。

「だって、集まれーっ、って、誰かが叫ぶ声とか、聞こえなかったのに。どうやって伯爵の言葉を聞き知って、皆集まれたのかなって」

 ぷっと、伯爵とユージンが吹き出した。俄かに恥ずかしくなったが、気になるものは気になる。

「ふっ、ふふ。な、成程。確かに、不思議か」

「外の声というのは、新鮮なものですね」

 二人がくすくすと笑っているので、ミーシャは口を尖らせる。

「他の、前の女の子達は、誰も聞かなかったんですか?」

「お前程、我々を前にべらべらと臆する事なく話しかけてくる子供はなかったな」

「それ、絶対気になってましたよ。教えてあげなかったの?」

「聞かれて初めて、不思議なんだと思わされた」

 知らずに死んでいったのか、と想像すると気の毒になる。絶対に聞きたい事、不思議な事が山のようにあった筈だ。自分が暮らす世界とは全く異次元の、見るもの見るもの不可思議な世界に迷い込んだのだから。

「パイプが巡らされているんですよ。声が城全体に通る」

「僕は何も聞こえなかったけど」

「パイプの側にいないと聞こえないさ。聞いた者が、周りの者に伝令を出す。この程度の城なら、直ぐに全体に伝わる」

「後で、聞いてみたい」

 強請るように掴んでいた服を引くと、後でな、と伯爵は苦く笑った。

「さて、この中からお前付の侍従、世話係を選べ」

 さらりと聞いて、誰も反応しない事でミーシャに語り掛けられているのだと知る。

「え、僕が!?」

「お前の世話係だ。お前が選べ」

「何を基準に!?」

 蒼白になるミーシャに、伯爵はしれっと言う。

「それこそ、相性かな。感じ取れ!」

「無茶苦茶言いますね!?」

 思わず叫び、はっとミーシャは我に返る。ぽかんとミーシャを見つめる侍従達の視線に、慌てて口を閉ざした。自分を見る目が多すぎて、つい委縮してしまう。

「私が隣にいて、刺される訳がなかろう。怯えてないで、ばしっと決めろ」

 言われて顔を上げると、少し安心した。確かに、この城の主である伯爵に引っ付くようにして佇むミーシャに向かって来ようものなら伯爵にとばっちりがいく事もあるやもと考えただけで、行動に起こせない気がした。実際、向かって来られてもこの伯爵やユージンなら、なんとなく、守ってくれそうな気もする。

 ミーシャは恐る恐る顔を上げて、ずらりと居並ぶ面々を眺める。同じ服装をして男だという共通点がある他は、年齢も違えば顔付もかなり違う。

(厳しそうな人は、嫌かな)

 ミーシャは心の中で嫌だなという者だけをピックアップしていく。

「……右から、二番目、三番目、」

 ミーシャが小さく呟くと、意図を察したのか、呼ばれた者だけ一歩前へ、と伯爵が号令をかけてくれる。ミーシャが二十人程まで絞ると、他の者はややこしいから仕事に戻れ、とまた伯爵が声をかける。

 だいぶすっきりとしたが、それでもまだ二十人程いる。そこからはどう選べばよいやら、途方に暮れるミーシャを見下ろし、伯爵は小さく頭を掻いた。

「あー、それでは、二十八以上の年齢の者は下がれ」

 きょとんと見上げるミーシャに、伯爵はにやりと笑った。

「二十八は、それなりの年齢なんだろ? 年が離れ過ぎていない方がお前は気安いだろ」

 目安にされてしまった。かあっと赤くなるミーシャの前で、八人が残った。

「一番年若そうなのは、……お前か。年は幾つだ」

 伯爵に目を向けられた青年は、はっ、と一度頭を下げる。

「十六になりました。こちらにお仕えさせて頂いてから、十六年となります」

「ほう。という事は、誰ぞの息子だな? 父親は?」

「ガジル、と申します」

 ああ、と伯爵は手を打つ。

「ガジルの息子か。確か、息子は二人いたように思ったが?」

「はい。隣が兄です」

 目を向けると、確かに言われてみれば似た顔立ちの男の姿がある。

「兄の方、お前は幾つだ」

「十八でございます」

「良い。ではお前達でこの者の世話をせよ。名を申せ」

 二人はすっと膝を折ると、頭を垂れた。

「カタールです」

「カシミーアです」

 各々が名乗りを上げると、伯爵は一度ミーシャを見て、納得したように小さく頷く。

「ん、いいだろ。カタール、カシミーア、二人にこの者、ミーシャの世話を任せる」

「「拝命致しました」」

 声を揃えた二人は、兄がカタール、弟がカシミーアと言った。弟の方が少し背が高いが、体つきは兄の方がしっかりとしている。宜しくお願い致します、とミーシャに向かって微笑んだ二人の笑顔に、ミーシャは心底ほっとした。ふわりと優しく笑うその表情だけを信頼するなら、厳しいという事はなさそうだ。伯爵が二人を選んだ理由は分からないが、相性が良いだろうと判断してくれたのだと思っておく。

「ミーシャ、お前の部屋は私と同じ棟に用意させるが、困った事があればまずあの二人に言え」

「僕はこれから、えーと、何をすれば?」

「何も。仕事の事は、また追々説明する。お前はここで、まずは心安く過ごしなさい。条件は、ただ一つ。絶対に一人で行動しない事」

「行きたいとこがあったら?」

「あの二人に。あの二人では判断がつかない場合には、ユージンが判断する。とりあえず、あの二人と仲良くするんだな。年頃も近い。学ぶものもあるだろう」

 伯爵はつい、と手を振って、二人の兄弟を呼び寄せる。間近で同じ年頃の男を見ると、いかに自分が貧相な体つきであるのかが窺い知れた。少し、気恥ずかしい。

「では、二人共任せた。中々気の強い子供だ。困ったら私に言うと良い」

 ははっと伯爵は笑って冗談がてらそう言い、じゃあな、とミーシャに手を振って階段を上って行ってしまった。当然、ユージンも彼に続いてしれっと消えて行ったので、残されたミーシャは非常に気まずい思いをした。最初に何を言えば良いのか分からず、おろおろとするばかりのミーシャに対し、兄、カタールが少し腰を折ってミーシャの顔を覗き込んだ。

「ミーシャ様ですね。私の事はカタール、弟の事はカシミーアとお呼び下さい」

「あ、は、はい。僕の事は、ミーシャって呼んで、下さい」

「理由がございます?」

 問われて、ミーシャは「え」と口籠る。

「特に理由がなければ、貴方様は大切なお客人。ミーシャ様と、お呼びしたいのですけど」

 伯爵よりも位低く、年若いというのに、伯爵よりも彼らと対峙する方が緊張するとは、如何に。自分でも理由が分からなかったが、様などと付けて呼ばれるのはむず痒い。

「様なんて付けられる謂れはない、し。呼び捨てで呼ばれた方が馴染みやすいというか、気安く話しかけても良いと言われている気がすると、いうか。……お兄ちゃんが欲しかったと、いうか」

 ぼそぼそと言うミーシャに、二人は目を丸くする。

「我々を兄と思って下さると?」

「……憧れがあると、言いますか。兄弟っていなかったから」

 二人を目の前で見た時、年が近い事もあってかふと、兄がいたらこのような感じかな、と頭を過った。二人は世話係だと言う。おそらくはずっとミーシャの側にいてくれる人達になるのだろう。寝食を共に出来る存在、それはミーシャにとって、兄に近い存在足り得る。

「僕如きに頭を下げられると、気まずくて。弟にするように接して貰えたら、気が楽かなって。それに憧れも、ある、訳で」

 かあ、と赤くなるミーシャに、二人はくすり、と小さく笑った。

「では、ミーシャ、とお呼びさせて頂きます」

「ほんと」

 ミーシャがはっと顔を上げると、カタールは可笑しそうに、カシミーアは微笑まし気に笑っている。

「これはまた可愛らしい方を選ばれたものですね、伯爵様は」

「あの方がお選びになるのは、可愛らしい方が多いんですよね。このような方々と相性が良いというのは、伯爵様もまた、お可愛らしいという事で相違ないのでは?」

「怒られるから言うなー」

 兄弟が笑い合っているのを見て、ぱっとミーシャの気も楽になる。堅苦しいのは、苦手だ。そんな環境で育って来てない。

「ミーシャは幾つです?」

「十四!」

 力強く答えると、それじゃあ確かに弟だ、とカタールは笑った。

「ではミーシャ。これから、私かカシミールのどちらかが、いつ何時も必ず貴方の側にいます。離れる時には、絶対に声をかけて下さい。我々の首が飛ばぬ為に守って頂きたいのは、それだけです」

 こくりと頷くミーシャをリードするように、基本的には兄であるカタールが話す。

「まずは城内の案内と、注意事項から」

 付いて来て下さいと歩き出すカタールと、立ち止まったままのカシミーアに、ミーシャは二人を見比べる。

「私の後ろに、ミーシャ。カシミーアは、ミーシャの後ろを守りますから」

 あ、成程、とミーシャは慌てて歩き出す。ミーシャが動き出すのを待っていたらしきカシミーアは確かに、ミーシャが歩き出すと追随して来た。

「ミーシャの生活拠点は、基本的に左の階段から。左側の棟を超えた更に奥、伯爵様のおわす左奥棟となります。我々従者の住まいは右棟。右棟の中でも手前が男性棟、奥が女性棟の生活区間です。ご参考までに」

「カタール達は、それじゃあ右棟の方に部屋がある?」

「左様ですね」

「そこで寝る?」

「普段は。しかしお付従者を拝命しましたので、ミーシャの隣室に部屋が用意されます。今日から、我々も左棟で眠ります」

 側にいてくれる、という訳だ。何となく嬉しい。

 階段を上ると二階フロアがあったが、階段は更に三階へと続いていた。聞けば、五階まであるそうだ。

「左棟は基本的に、伯爵様の生活スペースです。食堂や来客ホール、浴場、執務室などがあります。寝室だけは、左奥棟にあり、ミーシャの部屋もそこに用意されます。基本的に左奥棟への出入りが許されているのはユージン様と、ミーシャと、そのお付侍従の我々だけです」

 凄い所に部屋が準備されるのだなと、ミーシャは肩を竦める。

「質問してもいい?」

「勿論」

 ミーシャはまじまじとカタール、カシミーアの手元を見つめ、言う。

「どうして手袋をしたの?」

 先程までは、していなかった。階段の下に集められた時にはしていなかったのに、ミーシャの側に呼ばれ、伯爵の近くに拝謁をする際に、彼らは徐に手袋を付けた。ユージンが手袋を外さないのもまた、実は少し気になっていた。貴族とはそういうものなのだろな、と勝手に思っていたのだが、素手であった彼らがわざわざ手袋をしたことで、また疑問に思ってしまった。

「触れられないからです」

「何に?」

「そこをお聞きになってないんですか」

「なにも」

 ミーシャが首を振ると、カタールは目を丸くして振り返る。

「伯爵様と、その生贄となる少女、今回はまぁ、少年でしたが、お二人には何人足りとも素手では触ってはならない規則なんですよ」

「そうなの!?」

 目を剥くミーシャに、カタールは笑う。

「だからこうして一定の距離をとって、ぶつからないように。ユージン様も、ミーシャに触れなかった筈ですよ? ですが万が一、例えば今階段から転げ落ちようとしているとなった場合など、止むを得ず手を伸ばさずにはいられない状況になった時に素手で触れて穢してしまわぬよう、こうしてお側に侍る時には手袋をするんです」

 ユージンの今までの行動を思い起こし、確かに、とミーシャは納得する。ミーシャと接触があったのは従者であるユージンではなくむしろ伯爵の方で、ユージンに手を差し伸べられた記憶がない。

「穢すって、また。大袈裟な」

 ミーシャが苦く笑うと、カタールは続ける。

「重要な規律なんですよ、ここでは。伯爵様のお仕事は、流石に聞いてますよね?」

 ミーシャが頷くと、そのまま言葉を繋げる。

「呪いとは、穢れです。それを放つ伯爵様も、それを受ける生贄も、穢れが最も大敵です。身が清ければ清い程、呪いの煽りを受けにくくなると聞きます。ですから我々は、伯爵様とミーシャの身を案じ、可能な限りの助力が出来るようにと、手袋を常に携帯します」

 ユージンは、ミーシャだけでなく、伯爵にも触れなかった事を思い出した。

 常に斜め後方、手を伸ばせば届くような距離に佇んではいたが、決して、手を伸ばしたりはしなかった。彼らの心に距離はなかったが、物理的な距離があった事に、今更気がつく。

「それは、結構、……寂しいね」

「そう思いますよ。伯爵様は人の温もりを求める事が出来ない。ですが、あなたは別ですよミーシャ」

「うん?」

「あなたが先程伯爵様にしがみついていらした事、我々はとても微笑ましかった。素手でああやって伯爵様に触れる事が出来て、それが許されているあなたが羨ましく、伯爵様にそんな存在がいてくれる事がとても嬉しい。我々は生贄を迎える時、その方々に心から尽くすと決めています。その命を我々が奪う対価として、あるいは一時でも伯爵様に人の温もりを与えてくれるであろう存在として。我々はあなた達に、心から感謝している。だから、気負いなく何でも申し付けてくれれば良いのだし、好きなだけ我儘を言って貰って構わない。我々は全力で、それを叶える為にあるのです」

 思いがけない事を、聞いてしまったと、ミーシャは少し居心地が悪くなる。そんなに期待されても、有難がられても、正直困る。命をどうぞという思いでやっては来たが、ミーシャの力で何かが為せる訳ではない。伯爵を手伝える訳でもない。

「羨ましくて堪らんよねぇ、実際」

 突然後ろから声がかかって、ミーシャはぎょっとする。

「伯爵様のお役に立てて、ーー触れられて。幸せだよなぁ。なれるもんなら、僕がなりたかった」

 ぶっきら棒な言葉がカシミーアの口から出ているのだと、信じるまでに時間がかかった。兄よりもおっとりと上品な見た目をしているように思ったが、口を開くと何という事はない、中々にミーシャに近しい粗暴さを感じる。

 目を丸くするばかりのミーシャに、カシミーアはやはり上品に、笑う。

「弟は、こんな感じで。口を開かなければ優良なので、大体は黙ってるんですけど」

 溜息を吐くカタールに、カシミーアは言う。

「今日からずっと一緒なんだから、ずっと黙秘も無理でしょ。ねぇ、ミーシャ」

「……驚いた、けど、別に、まあ」 

 ミーシャは繁々とカシミーアを見つめ、ギャップが凄い、と小さく呟く。

「ほんと、微笑んでたら貴族みたいだから、なんか可笑しいね?」

「皆そう言う。ミーシャは嫌じゃない?」

「堅苦しいのが苦手だから、平気そう」

「助かるわぁ」

 はは、と歯を見せて笑ったカシミーアだったが、それでも品があるとはこれ如何にと、ミーシャは笑ってしまう。

「兄上もかまととぶってるけど、いや、あれも一面は一面なんだけど、侍従の仮面を剥いだらそれなりに面白いよ」

「余計な事は言わんでいい」

 カタールが苦い顔をするが、弟はお構いなしだ。

「今度ね、フレアっていう女中を呼び出してみ。ぞっこんなの、兄上」

「余計な事は言わんでいいっ」

 俄かに赤くなっていくカタールはみるみる幼くなっていき、顔から湯気を吹くと同時に萎んだかと錯覚する程小さく見えた。

「あはははっ、フレアの前だともっと面白いから。今度呼んでみ」

 殴るぞ、と拳を振り上げるカタールから、きゃあ、とカシミーアが逃げてみせる。二人がミーシャを中心にくるくる回りながら追いかけっこを始めたので、ミーシャはただ茫然と、第一印象ががらがらと崩れ去っていくのを感じていた。

(伯爵がこの二人を選んだの、なんとなく分かってしまったような)

 ミーシャは苦く笑いながら、はいはい、と年下ながら仲裁を試みる。

「話を戻して、お二人共。良い話をしてたのに」

「なんだっけ?」

「僕に感謝してるよって話」

「あー、そうそう。ここに来てくれて、とても有難いと思ってる。これはほんと」

「そうそう、その話。僕は具体的に何をすれば、皆に喜んで貰える? 有難がられるからには、もっと、そう思われるだけの事をしたい」

 カタールは乱れた髪を整える素振りを見せつつ、咳払いをする。

「存在そのものが有難いんですよ、我々にしてみれば。命を賭す覚悟で、暮らして頂くんですから。我々では想像も出来ない苦しみや悩みがあるでしょう。それを日々の生活の中で少しでも思い出さずに済むように、サポートするのが我々の生き甲斐、償いです」

「カタール達がそんなに罪悪感を覚える事ってある?」

 勿論、と諭すようにカタールは言う。

「伯爵様が最もおつらいのです。本当は命など奪いたくないでしょうに、我々千を超える下仕えの者や、領土に生きる万という領民の暮らしを守る事が出来るのは、伯爵様のお仕事次第。伯爵様は言わば、我々を養い育む為に仕方なく、生贄を集められる。生贄は我らの伯爵の命をお守り下さる、神様のような存在なのです。伯爵様に死なれては我々領民の暮らしなどなく、我々では伯爵様のお役に立てない。だから、私達の代わりに命を賭して下さる生贄は、大切にもてなす。それしか、出来ないからです」

「皆が皆、命を賭す覚悟がある訳じゃなかったけどな」

 カシミーアが肩を竦め、カタールは唸る。

「親に売られるようにして、買われて来た少女も、いましたからね。その覚悟がないまま、受け入れられぬまま、亡くなった子もいました」

 二人が苦い顔をするのを見て、本当に申し訳なく思っているのだろう事は理解する。だが確かに、死んでいった少女にしてみればたまったものではなかろう事も察するに余りある。不憫は、不憫だ。

 その死んでいった少女達を見て来た城の者達、カタール達もまた、彼女達の死が楔のように胸に閊えているのだろうと思った。自分達が殺したようなものだ。見殺しにしたようなものだ。恨まれ、憎まれ、罵詈雑言を浴びせられたのかもしれない。だが、こうしてまた、生贄を迎え入れる彼らにもまた、再び憎まれるであろう覚悟が見える。

「僕、伯爵や二人の為に、笑いながら死んであげるから大丈夫だよ」

 ミーシャが言うと、二人ははっとしたように顔を上げた。

「僕は、受け入れてここにいるから。それに、死なない生贄になってあげたいと、思っているから」

「……我らレノの、最大の望みです。そんな生贄がいるなら、ずっと伯爵様に寄り添ってくれるなら、こんなにも嬉しい事はない」

 なってあげたいな、とミーシャは思う。

 伯爵の特別になりたくて目指す道だったが、ミーシャが死なぬ生贄になる事で、カタールやカシミーア、ひいてはこの城に住まう全ての者達に安寧が訪れるのであれば、こんなに喜ばしい事はない。野垂れ死ぬを待つばかりであったミーシャが、誰の特別にもなれなかったミーシャの命が、これほど多くの人間の役に立てるなど、こんな幸福があろうとは思わなかった。

「どうやったら死なない生贄になれるか、一緒に考えてくれる?」

 ミーシャが問うと、こちらこそ是非お願いします、とカタールは深々と頭を下げ、カシミーアは拳を胸の前で握りしめた。

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