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第3話

どこかの街に着いたのは、夕方が近くなってからであった。

 馬車から降ろされると、揺れに長く体が馴染んでいたせいか、足元が覚束ずふらついた。よろけた体を後ろから降りようとしていた伯爵に支えられ、手を汚してしまった事に少なからず申し訳なさを覚える。折角綺麗なものを汚すのは、忍びない。

 直ぐに宿に通され、今、風呂を目の前にミーシャは呆然と佇んでいる。

 清潔で、きちんと雨風が凌げる立派な造りの宿にぽかんと口を開けたものだが、風呂なるものにも開いた口が塞がらない。

「どうやって使うの」

 風呂に放り込まれたミーシャだったが、立ち尽くすばかりで何をどうすれば良いのか分からず、堪りかねて部屋で寛ぐ二人に助けを求めた。

「下々の者はそもそも風呂に入るという習慣がないからな。ユージン、教えてやれ」

 仕方ないとばかりに風呂に入って来たユージンは、桶を指差して言う。

「使い方を教えるような風呂じゃなかろう。そこの桶で、体を洗うんだ」

「洗う」

 具体的にどうやって、と目で問いかける。洗った事などない。

 気持ち悪がられるだろうかとも思ったが、ユージンは白い目をしつつ、鼻を摘まんでみせるような事はない。

「下々の者にその習慣がないのは知っている。敢えてそういう類の少女を、今まで買ってきている」

 ああ、と納得するミーシャに、手取り足取りとはいかなかったが、ユージンはこうしろ、ああしろと、洗い方を教えてくれた。

「ユージン、……様? が入る風呂は、どんなの?」

「湯舟があって、水ではなく湯がはってあり、のんびりと体を沈めて心休める場所だ」

 意味が分からなかったが、気持ちが良さそうである事だけは彼の口調から窺い知れた。

「お前もそのうち入れる」

「僕?」

「伯爵様は、死出に向かう少女達に対し、それまでに可能な限り幸福をと、良い物を食わせ、良い服を与え、下々の者が永遠に体験できぬような生活を約束なさる」

 へえ、とミーシャは目を丸くして、特に「良い物を食わせる」の部分に反応して嬉しくなった。それでは、ミーシャも彼らについていけば、風呂なるものも経験し、食べた事のない食事にありつけるかも知れない訳だ。楽しみになってきた。

「ま、少しは白くなったか」

 ユージンは水をかぶるミーシャを繁々と見つめる。足元はずず黒い水で一杯、その全てがミーシャの体から流れ落ちた汚れかと思うと、確かに汚いかな、とは思う。それが当たり前の生活であったミーシャは、目の前の小綺麗な人間達を前に漸く、自分がいかに汚かったのかを知る。

 拭けと言われて投げられた布が清潔で、体に押し当てるのは憚られる。洗い流したとはいえ、多分、まだ汚い。

 おそるおそるさっと体を拭くと、ミーシャは服を掴もうとして窘められた。

「馬鹿、その服を着たらまた汚れるだろう」

「でも、これしか」

「用意させている、待っていろ」

 一旦退場したユージンが持って来た服は、少し青味がかった清潔な服で、受け取った瞬間ふわりと良い香りがした。早く着て出て来い、と言い置いてユージンは行ってしまう。幸い着方が分からないという事はなく、ミーシャはそれをもたもたと着込み、不思議な感覚に陥る。肌にべちゃっと纏わりつく感覚がなく、撫ぜるようにさらさらと肌触りが良い。味わった事のない感覚だ。

 おずおずと姿を現したミーシャに、伯爵は「お」と小さく声を上げた。

「少しは見られるようになったな」

 そんな顔だったのか、と可笑しそうに言う。ミーシャ自身、自分の顔を良く知らないので、はあ、としか答えられない。

「とりあえず、適当に精がつきそうな食べ物を用意させている。それまで、私の仕事の話を、まずはしようか」

 伯爵に促され、ミーシャは言われた通り、座る。石の上にしか座った事のないミーシャは、これまた一頻り感動する。本来椅子とはこういうものだったのか、と一々新しい発見がある。

「私の仕事だが、端的に言えば、人を呪う仕事だ」

「のろう」

 意味を理解するのに時間を要した。

「のろう、呪う? それって仕事なの」

 ミーシャは目を丸くする。言葉の意味自体はなんとなく理解出来るが、その言葉を口にするのは人生で初めてだ。口にした人に出会ったのもまた、初めてである。

「お前は呪いたいと思った事は?」

「何を? 呪ったらどうなるのか、正直よく分からない」

「これはこれは、綺麗に育ったのだな」

 ミーシャは小首を傾げる。

「呪うって、殺すってこと? 僕らの周りでは、殺してやるって言葉はよく聞いたけど、呪ってやるって言葉は聞いた事ない。どう違うの?」

 ユージンは座した伯爵の斜め後ろに佇み、様子を黙って伺う。一方の伯爵は、肘掛を最大限につかってふんぞり返るように、背凭れを利用している。

「様々な対象に使う言葉だな、呪いというのは。人を呪うのは勿論、よく運命を呪う、境遇を呪う、などとも使う。が、実際に私が呪えるのは運命などではない。当然、相手は人間だ。呪いの強弱により、怪我をさせる事から、それこそ命を奪うものまで、バリエーションは様々、要求による」

 んー、とミーシャはやはり、首を傾げる。

「この人を呪ってと頼まれて、その人を呪うのが仕事ってこと?」

 いかにも、と伯爵は頷く。

「そして人を呪うというのは、自身に呪いが返って来る、という事なんだ。呪いが強い程、我が身に返って来る力も強い。それを、代わりに受けて貰うのが、お前達、買ってきた者達になる」

 はあ、とミーシャは想像する。呪いなるものが目に見えないので想像し難いが、投げた石をそのまま投げ返される事を想像した。巨大な石を投げつけて相手を殺す事に成功しても、その石は跳ね返るようにして戻って来る。それを自分で受け止めたのでは諸共となるため、代わりに受けて貰う人間を用意する。それが、おそらくミーシャであり、過去に命を落として来たと思われる少女達なのだろう。幼気な少女達が石を受け止めさせられる姿を想像して、一気に伯爵に対する心証は悪くなった。

 あからさまに嫌な顔をしてしまっただろうか、伯爵はミーシャを眺めて苦く笑う。

「お前が今抱いている感想で、概ね間違いはない。私の為に死んでくれと、言っているのだからな」

「それって、どうやって選ぶの? 今回は僕だったけど、前の子達とか、やっぱり、選定基準があった訳だよね」

 ああ、と伯爵は頷く。

「少し言ったかと思うが、私との相性、これに尽きる。呪いを身代わりで受けさせるというのは、何も私の前に立ちはだかってくれと頼む訳ではない。物理的な攻撃が前方から飛んでくるという訳では、ないからな。私の力に少なからず同調出来る者、と言い換えようか。私に対する攻撃を代わりに受ける事が出来る者にも、その資質がいるのだ。単純な弾除けとは違う」

「それが、少女である事が今までは多かった、と」

「むしろ、今まで少女でなかった試しがない。だからこそ、お前が目の前に現れて資質を見出した時、その華奢な見た目のみならず、その資質を感じたが故に少女で間違いないと私は思い込んだ。ユージンに確認させたが、本当に男だったらしいな」

 確認された覚えはなかったが、風呂で見られたのか、と得心がいく。別に恥ずかしくはない。

「見たら、分かるものなんだ。その、資質とやらは」

「触れるとより分かる。根底で、繋がるものを感じる」

 頭を預けて膝枕、はそういう意味合いがあったのかな、と漠然と思いながら、ミーシャはぶらぶらと座ったまま足を揺する。

「なんで少女なんだろうね」

「そんなことが気になるか?」

 問われて、ミーシャは笑う。

「だって、そこにも理由はちゃんとありそうだし、僕が選ばれた理由も分かるかも。女の子じゃないのに、なんか僕だけ気持ち悪いなって」

「死ぬのが恐ろしい、ではなく?」

「あんまり実感沸かない話だから、そこはなんとも。へえ、くらいの。それよりは、自分が選ばれた理由の方が気になるかな。僕はちゃんと男なのに、女の子みたいってこと? 見た目だけじゃなくて、中身も? なんか釈然としないよね」

「そうかな」

 伯爵が今度は首を傾げたので、ミーシャはぼそぼそと続けた。

「女なら良かったのに、って言われて育ってきたんだ、僕。だよなぁ、って、思った。女なら体が売れるし、お金を稼げる。男に生まれたからって力がある訳じゃなくて、男手の足しにもならない。そうだよな、女だった方が良かったよなって納得して、でも女にはなれないし。それが今、女じゃないのに、わざわざ男の僕が選ばれたんだって言われて、なんというか、こう」

 ミーシャは、唸りながらも、小さく笑う。

「……ちょっと、嬉しいというか」

 男として、役に立って来た事はない。女ならと言われても、女にもなれない。そんな我が身がどうしようもなく、悶々と生きて来た。だが、少女ばかりが選ばれてきた役目に、男であるミーシャが敢えて選ばれた。初めての男として、選ばれた。それは何故か、自分が格別のものになれたようで、死への恐怖よりも深く、心根にあるのは誇らしさだった。

 ほう、と伯爵は小さく呟くように言って、じっとミーシャを見つめる。それが少し気恥ずかしいが、こうしてミーシャを、ミーシャだけを見つめてくれる目があるというのも経験がなく、これまた少し、嬉しいような気がする。

「特別になりたいか、ミーシャ」

 問われて、はっとミーシャは顔を上げる。目が合うと、宝石とはこういうものなのだろうな、と見た事もない宝石なるものを想起させる程、美しい瞳がミーシャを見返して来た。

「とく、べつ。伯爵の?」

「ああ、私の。この私の、特別になってみせろ」

 どうやって、と喉の奥で低く呟いたミーシャに、伯爵はにやりと笑って言う。

「前にも言ったかな、私は死なない生贄を探している」

 そう言って、前のめりになっていた体を引き、また伯爵は背凭れに深く背を預けた。

「生贄は、死ぬまで私の代わりに返りし呪いを受けてもらう。だから、死ぬ時期はまちまちながら、必ずその者はいずれ、死ぬ。殺している事実を前に綺麗ごとを言うつもりは毛頭ないが、罪悪感がない訳ではない。死なぬなら当然、その方が良い。だから私は、死なない生贄を探している。ーーお前がなれ、ミーシャ」

 特別に。

 目の前の美しい伯爵の、特別にミーシャがなる。少女ではなく、男の自分が。

「……どうやって」

 なれるものならなりたいと、ミーシャは思った。男の我が身を、ミーシャだけを特別に必要としてくれる誰かに、なれるものなら。

「出会った事がないから知らん」

 伯爵はきっぱりと言ってから、扉のノック音に対して顎を向け、にっと笑った。

「しかし、肉体の強さは少なからず関係がある。弱った肉体では耐えられるものにも耐えられない。まずは、食え」


 

 

 気が付くと、また馬車の中にいた。

 昨夜はやはり見た事もない食事を前に冬を前にした野生動物が如く食べ、飲み、そのまま眠ってしまったらしい。誰に運びこまれたのやら目が覚めるとまた天井を眺めており、恥ずかしい思いをした。食べた物が良いというのはこれ程までに活力が湧くものなのか、しっかり睡眠をとった事もあって、ミーシャは目覚め一番から非常に元気であった。

 馬車の中で体を動かす事は出来ない。有り余る力を持て余しながら、小窓の外の風景が飛ぶのを眺めて過ごした。ユージンは黙ってただ主人である伯爵を見ていたし、当の伯爵はと言えば難しそうな書物に目を落としていた。隣から覗き込んでみても、ミーシャにそれが読める筈もない。聞きたい事も話したい事もあったが、ユージンの目が邪魔をするなと訴えかけてくるので、ミーシャは仕方なく風景とお友達をして一日を過ごしたものだ。それはそれで、楽しかったが。

 そうして何日経ったか、宿での生活にもあっという間に慣れ、ミーシャは毎日風呂に入り、毎日見た事のない食事をした。少しずつ身にこびり付いた汚れを根気よく落とし、日に日に自分が身綺麗になっていく喜びがある。体を拭く布に汚れが付かなくなり、気負う事なく服に袖を通し始めると、人は、こうして人としての尊厳を持つのだなと感じた。

 伯爵は、ミーシャが見ている時は大抵書物に目を通していた。書籍である事もあれば、書簡である事もある。ユージンとなにやら話し合いを行って、彼自身が書簡を認めている姿も見受けられた。ミーシャが横から覗き込んでも咎められる事はなかったし、何をしていても怒られない。とはいえ、話し相手がいないミーシャとしては、家探しの如く宿の中を探索したり、見た事のない道具、調度品を探しては使い方を自ら想像した。誰かがそれを使うのを見て答え合わせをする。

「だいぶ人の子らしくなってきたな、ミーシャ」

 伯爵は時折、本当に時折、休憩がてらミーシャに声をかけてくれた。それは暇を持て余してしまった時に多く、忙しくとも気にかけてくれているのかもしれないと思える事が、嬉しかった。

「もともと、人の子、です」

 ミーシャは、言葉遣いを気にするようになった。注意された訳ではなかったが、人前では特に、伯爵に対してあまりにも粗暴な言葉遣いもどうかと自分で考えた。会話に夢中になると、つい忘れてしまうが。

「それはそうだが。狼にも似た出で立ちだったもので、つい」

 はは、と笑う伯爵に、ミーシャは構って貰える喜びからつられるように笑う。

「伯爵は、えーっと。幾つですか?」

「ん?」

「年です」

「幾つに見える」

 ふんぞり返る伯爵に対し、若く見積もれば良いのか、多く見積もるべきなのか、ミーシャには判断がつかない。結局、思った事を正直に言う。

「二十、……んー、八!」

「嘘だろ」

 伯爵はショックを受けたように天を仰ぐ。若すぎたのか、老けさせたのか、ミーシャはやはり、事ここに及んでも判断できない。

「是非とも評価基準を教えてくれ」

「えー? 僕を基準にして。背が、高いし。落ち着いていて、やっぱり伯爵くらいの人になるには、それなりの年齢かなって」

「二十八がそれなりの年齢と感じるという事は、やはりまだ子供か。二十八など、子供に毛が生えたような年齢だ!」

 という事は、もっと上なのだろうかと想像したミーシャの推測を打ち砕くように、伯爵は言った。

「この前、十八になったところだ」

「嘘だぁ!!」

 今度はミーシャが天を仰ぐ番だった。伯爵を指差して、ミーシャは叫ぶ。

「二十八になった事ないのに、二十八がなんで子供に毛が生えたような年齢!?」

「ユージンが二十八だからだっ。こいつはずっと私の側に侍っているが、十年経っても何も変わらん!」

 こいつ二十八なのか、とミーシャはユージンをちらりと見て、そちらにもぎょっとはしたが、今はそれどころではない。因みに、ユージンは少なくとも三十は過ぎていると思っていた。

「十八で伯爵なんて、聞いた事ないっ」

「お前の薄弱極まりない知識を常識の事のように言うなっ。だが確かに、私が伯爵の号を得たのは十六の時、最年少だった。天才なんだ、顔も良ければ頭も良い! ははっ、頭が高いぞ、十四の子供!」

 比べる素材に乏しいミーシャでは反論出来ないが、おそらく本当に顔も良ければ頭も良いのだろう。だが、自分で言うとは何と自信家なのだろうとミーシャは呆れる。大人気なく反論してくる辺りは確かに、自分とそうは変わらない年齢と言われればそうかと得心がいくものでもあった。

「本当は、同じ年くらいだろうって思ったもん。でも、その、十四で伯爵はないかなって思って、二十八って言ったんですぅ」

「なんの負け惜しみだ!? この妖艶な美しさが十四の小童に出せる訳なかろう」

 ふん、と髪を掻き上げる仕草は美しいが、残念ながら色っぽさはない。否、十四のミーシャに男の色気のなんたるかなど、分かる筈もない。

「僕が男の色気なんて知る訳ないっ」

「男をも虜にする美しさってもんがあるんだよ。ふふん、小童にはまだ分かるまい」

 実際に子供であると認識している我が身だけに、小童と言われても言い返す言葉がない。

「ええっと、だから、十八、だって! 子供だっ」

「ほう。一体幾つからが大人かな? ん? 伯爵の号を持ち、城を管理するこの私が、まだ子供とな。ん? 幾つが大人だ、言ってみたまえよ少年?」

 くう、とミーシャは握りしめた拳を震わせる。残念ながら、今のところ、何を言っても勝てる気はしない。

「……子供をもったら、大人、だっ」

 ミーシャが絞り出すように言うと、また鼻で笑うと思われた伯爵が、ふと真顔になった。それにはミーシャの方が面喰ったものである。

「……子供をもったら、大人。ふむ、成程」

 伯爵が小さく呟くので、何やら悪い事を言ってしまったような気がして、ミーシャはひやりとする。それほどおかしな事を言ったつもりはないが、ふつふつと罪悪感が湧くのは何故だろう。

 困り果てて言葉を失うミーシャに気付いたのか、伯爵はぱっと顔を上げる。

「お前の基準だと、生憎確かに子供だな。子供を持つ予定はないからな」

 折れてやった、とばかりの不遜な顔に、ミーシャはほっと胸を撫でおろす。気まずい空気が流れたように思ったのは、気のせいだったのだろうか。

「だが、我々の基準では、人の上に立ち人を養う者は成人者である。故に、私は成人だ。お前の基準では子供を持ったら成人だったな? さぁて、ミーシャが成人するのはいつの日になるかな? ん? ご予定は?」

 からかうように言われて、ミーシャは口を尖らせる。

「ご予定、なんて。ある訳ないでしょ。……子供、だもん」

 子供だと認めた事に気を良くしたのか、ふふんと伯爵は笑う。

「ま、そう悲観するな。十四と言えば、きちんとした教育を受けていれば十分に子供を脱する年頃だ。これからせいぜい学べ。お前が成人するまで、生きる事を私は望んでいるぞ」

 そうだ、と伯爵は手を打つ。

「一度やってみたかった。お前の子供が生まれたら、是非とも私に名を付けさせてくれ。はっはっは、遠慮するな、素晴らしい名を考えてやる」

 何年先の話だ、と思いつつも、ミーシャは苦く言う。

「まあ、別に、いいですけど」

「約束だぞ」

 子供が生まれたらね、とミーシャは胸の中だけで呟く。生贄となるミーシャが死なぬ生贄を目指すとは言っても、死ぬ可能性は大いにある訳で、そう楽観的に考えられる根拠がないだけに、子供が生まれるなどという遠い未来の話になど気は回らない。

「ユージン様は、いつから伯爵のお側に? 十年ですか?」

 とりあえず折角構ってくれるようなので、ミーシャは話題を変える。

「十八年だな」

「生まれた時から?!」

 そうなる、と伯爵は事もなげに言って、後ろに控えるユージンを見遣る。

「私の母が、伯爵様の乳母でございましたからね。生まれた時から世話係です」

「嫌そうに言うな。名誉が過ぎる、と言え」

「この身に余り過ぎる名誉です」

「それは嫌ということか」

「はて、そのような事を誰が申しました?」

 むう、と黙る伯爵に、ユージンは伯爵よりも強いようだとの感想を持つ。先程負かされたミーシャとしては楽しい光景だ。伯爵がユージンに頭が上がらないように見えるのは、頼りにしているように感じるのは、彼が育ての親のような存在であり信頼しているからなのだと、得心が行く。ユージンは、伯爵の「特別」なのだ。

 いずれこのユージンのようになれるだろうかと、他愛もない会話を交わす二人を眺める。言葉遣いは丁寧でも、明らかに身分が伯爵に劣る佇まいであっても、粛々と伯爵に頭を垂れていようとも、ユージンは伯爵にとっての特別だと、見ていれば分かる。間に流れる空気が違う。

(こんな風に、なりたいな)

 目標となるものを見つけたような気がして、ミーシャはユージンを見つめる。小馬鹿にしたような物言いをしていても、その瞳には子を優しく見守るような温かさがある。忌憚のない関係、まさに、ミーシャの求める理想だ。

「ユージン様は、いつも伯爵の側に?」

「まあな」

「お城の中でも、ずっと?」

「基本は」

「寝る時も、ずっと?」

「なんでそんな事を聞くんだ」

 呆れたように言う伯爵に、ミーシャは食い気味に答える。

「僕が伯爵の特別になる為には、ユージン様と同じことをするのが早いのかなって」

 伯爵どころか、ユージンまでも目を丸くしてこっちを見た。

「……お前の目指す特別とは、話が違うかと思うが」

「死なない生贄なんてどうやってなったらいいか分からないから、とりあえず、そこを目指してみようかなって」

「可愛い事を申すではないですか、伯爵」

 伯爵はユージンに揶揄われ、ばつが悪そうに視線を逸らす。一瞬、少し頬が赤いように見えた。 

「お、お前にユージンの代わりなど求めてないっ。お前は、お前は、……とりあえず、贅肉をつけろ」

 ぷっとユージンが吹き出す横で、伯爵が彼をねめつける。ユージンと話をしている時には年相応にちゃんと見えるのだから、不思議だ。

 羨ましいと、素直に思うのだ。

 上下関係があるにしろ、忌憚なく言葉を交わす彼らが、代わりのない特別を持っているようで眩しいのだ。ミーシャも、叶うならそれを、手に入れてみたいと思う。ミーシャは元居た場所を抜け出し、レノ伯爵に買われた。ミーシャが誰かの特別を目指すのであれば、レノ伯爵を相手に考える他ない。レノ伯爵の特別にさえなれたなら、ミーシャは初めて、「居場所」を手に入れる。

「一つ言っておくが」

 伯爵は真面目な顔をして、ミーシャに向き合う。非常に重要な事を言われるに違いないと身構えたが、彼は真剣な顔で、ぽつり。

「寝る時は、別だ」

「……は?」

「ユージンだっ。寝る時まで一緒の筈がないだろ。起きて仕事をしている時に側に控えているのが側近だ。こいつは隣の部屋で寝るんだ。寝る時も風呂に入るときも、一人だ」

 吹き出しこそしなかったがほくそ笑んでいるユージンにつられるように、ミーシャも笑ってしまう。

「真面目に言われると、嘘くさいです」

 ミーシャが言うと、伯爵はかっと顔を赤くして立ち上がった。

「ば、馬鹿な! 夜が怖くて眠れないなど五つの時に卒業したわ! 本当だ! な、ユージン!?」

「まあ、成人且つ大人を自負なさる伯爵様を擁護する意味で申し上げるならば、風呂も就寝も、確かにお一人ですね」

「何やら含みのある言い方ですね」

「余計な事は言わんでいい! 真実を真実として申せ、まどろっこしい言い方をするなっ」

 本当は分かっていても、伯爵を揶揄うと面白い。ユージンがこちらの味方に付くとなると、勝ち筋も見えているようなものだ。悪乗りをするミーシャに、ユージンはくすくすと笑った。

「伯爵様の特別になりたいと申すのですから、大人として受けて立って差し上げては? 私を目指すであれば、私の出来ない事をしてみて頂かないと。それこそ一緒に寝てみては如何です?」

「あー、いいですね。伯爵の寝台ともなると、非常に興味があります。他とは違うんでしょ?」

「最高級ですねぇ」

「いいですねぇ」

 言いながらちらりと伯爵を見ると、今にも茹で上がりそうな程に顔を赤くした伯爵がわなわなと震えていた。一瞬怒られるかと肝が冷えたが、ユージンがしれっとした顔をしているので、とりあえずは大丈夫だろうかと開き直る。

「……ふっ。いいだろ、ああ、いいだろう。一緒に寝てやろうではないか」

 くくく、と伯爵は震えながら笑い、精一杯の強がりを言っているように見えた。

「いびきが凄かろうと、寝相が悪かろうと、しらんからな、ミーシャ! 私より先に寝ようものなら寝台から蹴り落としてくれる!」

「僕だって、寝ている間の非礼は知りませんからねっ!? 蹴り落としても、意識がないんだから怒らないで下さいよ!」

「お前の中に非礼などという言葉があったとは驚きだ! 寝てようが気を失っていようが、伯爵を蹴ったら打ち首だっ」

「あー狡いっ! 自分だけー自分だけー」

「やかましい。当たり前だ、私は伯爵だぞ!?」

 きゃんきゃんと喧嘩を始める二人を、忍び笑いながらユージンが見ている。むきになってつい張り合ってしまうが、どこかそれを楽しんでいる自分がいる事は、伯爵を怒らせそうなので内緒だ。

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