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第2話
ーーお金が、ない。
ミーシャは今年、十四になった。
祖母は、「お前が女の子なら」と、顔を合わせる度に小言を言う。御家というものは本来、跡取りとして男児がいる事が喜ばれる筈なのだが、祖母はいつも、「お前が女の子なら嫁ぎ先次第で暮らしが楽になるのに」と現状を回復する為の手段としての女児を求めた。六つの頃から下働きに出ている跡取りなる孫を前に溜息を吐くとは、祖母はやはり、昔の甘い生活を忘れられないのだろうと思わないではない。彼女だけは、幼い頃より甘い汁を吸って育った、純正の元お嬢様だ。
貧乏には慣れている庶民の出である母だが、小言の多い祖母にすっかり参ってしまっているようで、父が亡くなってからはすっかり元気がない。食うに困るミーシャは年の割には小柄で痩せ細っており、日通し働こうにもその活力のない暮らしをしていた。
(とにかく、お金をなんとかしないと)
このままでは、母か自分か、どちらが倒れるが先かを競う羽目になる。
父が生きている頃はまだ良かったのだが、父が死んでからというもの、祖母の母に対する言葉が日に日に強くなる。
口を開けば食事の話しかせぬ祖母も飢えているのだろうと察するにあまりあるが、ミーシャに言わせると母よりも、ミーシャよりも、寝たきりの祖母が一番物を食う。汚れを嫌い、布団を洗えとそればかり。母とミーシャは、土くれの上にそのまま寝ているというのに、だ。彼女の布団を洗っている暇があれば、仕事をしていたいのが本音だ。
可哀想な人なのよ、と母は言う。
同情はするし、たった三人きりの家族である。労わってあげたい気持ちはあるが、一日を生き延びるのにいよいよ差し迫った状況になってくると、飢えと渇きが人を労わるという温かな気持ちを根こそぎ奪っていくのもまた、事実であった。
(今日は、何か食べないと)
もう二日、何も食べていない。母は三日だ。顔色が悪いどころの騒ぎではない。
早朝の四時、ミーシャは炭鉱へと赴く為に重い重い体をなんとか起こし、仕事へ向かう。
ちらり、と横目に見た小路では、だらしない姿をした女性達が我が身を金銭にかえようとしていた。
(まあ、女なら確かに、他の方法があったのかも)
ぼんやりと胸のない我が身を見下ろしながらそんな風に思ったが、男に生まれた以上考えても仕方がない。今考えてしまった事を母親に押し付ける訳にもいかず、そう在る母親の姿を想像しただけで肝が冷えた。母に身売りをさせぬ為に、こうして朝も早くから働きに出て小銭を稼いでいるのだ。
じゃり、と小銭が土の上に落ちる音がして咄嗟に視線を向けると、先程の小路で女性が身売りに成功したようだった。ミーシャが一年働いても手に入らないような銀貨が数枚、女性の足元に投げ出されたのが見えた。
(一晩で、あの金が動くのか)
我が身があんな大金に、かえられるのか。
それを羨ましいと思ってしまう程度には、ミーシャは既に限界に達していた。
(あれだけあれば、お母さんは何年働かなくて済むんだろ)
それどころか肉が食える、と想像しただけで垂涎の思いであったが、最早あの銀貨を奪おうという力すらなかった。走って行って、横からさっと奪って走り去る。ただ、それだけの事をする力も、もうない。そもそもミーシャが銀貨など、怪しまれるだけで換金も出来なかろうが。
今日をなんとか生き延びたとて、ミーシャ達には未来がない。展望がない。
(いつまで耐えても、この生活から抜け出せる日なんて来ない)
それがおそらく、最大の苦痛だ。頑張っていれば、耐えていれば、より良い日がいつか訪れる確約があるのであれば生きる意味もあるのだろうが、おそらく飢えを満たせる事なく、まず母か自分が死ぬ。祖母を支えられなくなって、どちらかも後を追うように死に、食う術を失った祖母が、死ぬ。これで、一族はあっさりと、絶える。
(変わらないなら、身売りでも出来ればな)
母にそれはさせられない。だが、祖母の言うように自分が女でさえあったなら、買い手がついてさえくれたなら、少なくとも祖母も母も、今よりずっと楽な暮らしが出来た事だろう。買われたミーシャとて、食うに困る事は少なくともない生活が期待出来たろうに。
なんで男に生まれたんだろうな、などと意味のない事を考えながら、ミーシャは今日も、よろよろと炭鉱へ向かう。
(お金、か。お金、お金、お金だ)
ミーシャの頭の中では、先程見た銀貨と、最後に見たパンが浮かんでは消え、生唾を飲む事しか出来ない。
下を向いて歩いても、日銭を必死で稼ぐ者が集うこの集落には、パンくず一つ落ちていない。
足元を見つめて俯き歩くばかりのミーシャは、自らの足に足をとられて、体勢を崩した。あ、とは思ったが、立て直すだけの力すらなく、目を閉じる。地面の上に倒れ込んだらもう立ち上がれない気がしたが、それはそれだ、と諦めにも似た気持ちで、慣れ親しんだ土くれの臭いに身を任せる事にした。
そんなミーシャの腕を、掴む手があった。
「娘、名は?」
朦朧としながら、片腕で自分の体を支える者の姿を見上げた。
すらりと背が高く、汚れ一つない黒いマントに全身を包んだ、おそらく男が自分を見下ろしている。眩しくてよく見えない。明らかにこの辺りの人間ではなく、嗅いだ事のないような甘い匂いがした。
娘じゃない、と反論する力もなく、ミーシャは虚ろに呟く。
「……お金」
女を買いに来た貴族だろうか、と思った。浮浪者の多いこの集落は臭く、穢れて、暗い。居るだけで心が侵されそうな空気を垂れ流している為、同じような境遇の者しか集まらない。目の前の男は、視界がぼやけていても小綺麗に見えた。
男は目を丸くして、吹き出すように笑った。ふわっと、良い匂いがした。確かに、した。
「それが名か?」
ぐい、とミーシャの両肩を掴んだ男は、自分の方へとミーシャの体を向き直させる。足に力が入らぬミーシャが膝を折ろうとすると、今度は支えていた力を抜いて、へたり込んだミーシャに合わせて男もしゃがみ込んだ。
「買った」
どさり、と膝元に落ちた革袋の口から、きらりと輝く金貨が見えた、ーーような気がした。
(女と間違えてる、のか)
ミーシャは馬鹿な、と思いつつも、考える。
男、と言うには頼りない腕をしたミーシャは、飢えに飢えを重ねて痩せ細っており、食うもの食わずして育った為発育が悪く小さい。ぼさぼさの髪は切るも億劫で長く伸ばしたまま、手入れ一つしたことがない。邪魔になって来ると廃材でざっくりとやるのだが、そういえば今自分の髪がどこまで伸びているのかも知らぬ程、気に留めた事がない。
(見えるのか、言われてみると)
顔含め炭鉱で働くミーシャはずず汚れて黒く、人相すら分からぬだろうと推察する。ーー見えるのかも、知れない。
このまま女と間違われて、買われていくのも良いような気がした。考えようによっては千載一遇のチャンス、今を逃せば、もう金貨など拝める日は、男のミーシャには来ないように思う。
直ぐにばれる、などと考える事はなかった。
今目の前にある金貨らしきものに食らいつくのに必死で、それで腹を満たす事に躍起で、目の前の男を騙す罪悪感も、騙した事に対する報復があるかも知れない事も、もう何も、考える事は出来なかった。
(どうとでもなれ)
お金が手に入れば、それで良い。
あの金貨さえあれば、未来の夢が見られる。
いつの間にか、気を失っていたようであった。
気が付くと、感じた事のない揺れの中にあった。がたがたと小さく体を揺らしながら、ぼんやりと入って来た視界の中には空でなく、眼前に迫る天井らしきものがある。
「気が付いたか」
声をかけられて視線を巡らせると、頭上に見慣れぬ男の顔がある。
「……」
言葉にならなかった。置かれた我が身の状況がさっぱり分からず、何を尋ねるべきかも分からない。
「ここは私の馬車の中で、お前は私に買われた」
これが馬車か、とやはりぼんやりと思いながら、頭が温かい事に違和感を覚える。どうやら男の膝を枕にしているらしく、血の気が引く思いがしたものの、飛び起きる元気はなかった。それに正直、心地よい。
「ああ、お前の汚い頭の事なら気にするな。本来であれば首を掻っ切っても良いほどの愚行だが、今、私は実験を行っている。そのままの姿勢で問題ない」
「……実験」
頭を膝に乗せただけで首を切られるのかとは思ったが、恐ろしくはなかった。どうでも良かった、とも言える。今更自分の命の問題など、恐れるに足りない。殺してくれるなら楽じゃないか、とさえ思った。
「いや、それより、お金」
「ん?」
ミーシャは、言われるがままに頭を男の膝に預けたまま、視線だけを男に向ける。見下ろされ、目が合った。
美しいブロンドヘアがきらきらと輝き、星のようだと思う。こんなに美しい人間もいるのだなと、しみじみ見惚れたミーシャは、問い返されて我に返るように答える。
「買われたなら、お金、を。お金、下さい」
「ああ、その事だが。条件がある」
ぎくり、とミーシャの虫のような心臓が縮み上がる。
女ではない事がばれる前に何とかお金を貰って母にと思ったのだが、このまま連れて行かれた暁には、早々に女でない事がばれてしまう。否、既にここがどこかは分からないが、母に金銭を受け渡せる状況にはなかった。そこに来て初めて、どうしよう、とミーシャは足りぬ頭を抱える。今お金を受け取った所で母に渡す事は出来ず、連れて行かれて男だとばれたら殺されるかも知れない。お金を貰える事なく、ただ、母を放り出す結果だけが残る気がした。
「あ、ちょっと、待って!」
ミーシャは、慌てて声を張り上げる。男は目を丸くして、「は?」と小さく呟いた。
「いや、待って、下さい。ちょっと待って、考えてるからっ」
男が苦い顔をするのを無視して、ミーシャは蒼白になりながら考える。
金貨を投げ出されたあの時、それを掴んで逃げ、母に渡す事だけはしなければならなかったのだと気が付いた。後で出頭し、身売りをするなり、煮るやり焼くなりして貰えたならまだ良かったのだが、現状、ミーシャはただの犬死になる恐れがある。頭を乗せただけで首を斬られるとあらば、女だと偽って金銭を受け取ったとなれば間違いなく殺される。
(待て待て、これはお金はいらないから帰して下さい、が正解か!?)
女でない以上、お金は受け取れない。絶対にばれる。
殺されるのを覚悟でお金だけ騙し取る選択も、意味はない。渡す相手がいない上、使い道もない。
既に連れ去られつつある現状で、馬車から逃げ出す事も出来ない。
(やっぱり身売りはやめます、しかないんじゃ?)
ミーシャは、朦朧とする頭で必死に考える。何をどうしても、良い方に転がらない気しかしない。
(逃げる、無理。女じゃないとばらす、無理。お金だけ貰う、無理。むり、無理だこれ!)
母の顔が、浮かんだ。
どちらかが先に死ぬだろうとは思ったが、彼女の生き甲斐である位の自覚はあるだけに、母よりはせめて一分でも、一秒でも後に死にたいと思っていたミーシャとしては、別れの言葉もなくこのまま永久の別れになるなど、悲しむ姿を想像するだけで胸がはちきれそうだ。
吐き気がする。吐くものがなくて助かった、などと考えているうちに、涙腺が緩んできた。ぎょっとしたのは、ミーシャを見下ろしていた男の方だった。
「な、なんだ!?」
「死にたくないぃぃぃ」
「何の話だ!?」
「死ねないぃぃぃぃ」
顔を手で覆うミーシャに、男は盛大な溜息を吐いた。
「……こいつが何を言っているのか、分かるかユージン」
「さあ。公の御顔が恐ろしいのでは」
もう一人男の声がして、ぎょっとしたのはミーシャである。見ると、少し離れた向かいの席に、もう一人男が座っている。いつから居たんだと思ったが、当然、最初から居たに決まっている。
「この美しい顔によくもまぁそんな悪態を吐けるものだ!」
ミーシャに膝を貸す男は低い天を仰ぐようにして言って、くるりとこちらにまた視線を戻した。
「娘、年は幾つだ」
娘であると勘違いされている事はとりあえず置いておいて、ミーシャは問いにのみ答える。
「十四」
「自分で身売りを受けておいて泣くな。安心しろ、私は残念ながら人を殺して来た側の人間だが、その命を貰うからこそ、その報酬は後腐れないようしっかり払う」
何を言っているのかよく分からないが、殺されるのか、と漠然と思った。そして必死に考えて、小さく首を傾げる。
「……体を買われた訳では、ない?」
「体と言えば体だが、色の意味ではなく、命を買った」
あまり違いが分からないが、女としての体を求められた訳ではないのだとすれば、もしかすると、男と打ち明けても問題ないのでは。
「死ぬ?」
単刀直入に尋ねてみる。男ははたと無表情になって繁々とミーシャを見下ろし、小さく肩を竦めた。
「さあ。お前次第かな。死にたくないと泣いているところ、悪いが」
「母が気になるから、死ねないだけで。ちゃんと、その、母にお金が渡るなら、別に」
母は、悲しむだろうが。正直、自分自身には生きていて楽しい事などないし、希望も夢もない。
ゆらゆらと心地の良い揺れに、男であれ、ミーシャに言わせれば肉のついた柔らかな膝枕に頭が温かい。焦っていた心が時間と共に落ち着いてくると、現状はミーシャの人生の中で、最も心地の良い瞬間と言える事に気が付いた。今ここで死ねたら穏やかに逝けるのだろうな、とすら思った。
(どうでもよくなってきたな)
ミーシャは馬車の低い天井を見つめつつ、言われた通り起き上がるでもなく転がったまま、ほう、と息を吐く。
(どうせ死ぬんなら、別に男だろうと女だろうと。その場で手打ちにされたらむしろ、楽かも。そうそう、楽だよな。もう、炭鉱にも行かずに済むし)
ミーシャは楽観的に今感じている物理的な温もりと、日が高い時間にこうしてだらりと横になっている自身の姿を客観的に総じ、幸せだな、と目を閉じる。こんなに楽な事が、未だ嘗てあっただろうか。記憶にはない。
「母親と、祖母がいると聞いている。贅沢を与えるつもりはないが、人並みの生活は保証する」
十分だな、と思う。ミーシャの思う人並みの暮らしとは、雨が凌げて、一日に一度鱈腹食事が出来て、時折着替える事が出来る服がある。それだけを与えて貰えればきっと、母も楽に暮らしていける。祖母も、腹が満たされれば小言が減ろう。
「母には、死んだとは言わずに。元気で奉公をしているよと伝えて貰えたら、助かります」
「頼み事を出来る立場にはないぞ」
向かいの席に座る男、名は確か、ユージンと呼ばれていた、彼が睨みつけるではなく、しかしちくりと小言を言った。
ミーシャはそれには答えない。命を買ったとまで言われて今更臆する事などなかったのも一つであるが、小言には正直、慣れている。応じると火の手が上がる恐れがあるので、聞き流すのが一番だと知っていた。
黙るミーシャを見下ろした男が言う。
「何にしても、汚い。ユージン、とりあえず手近な街に出たら宿を取れ。早急に風呂にぶち込む」
「承知しました」
ミーシャは綺麗な出立ちの男の服を汚しているであろう事を申し訳なく思いながら、先程まで悩んでいたのが嘘のように、ぽろりと真実を口にした。風呂に入れると言われたら、最早黙っている事も出来ない。
「実は僕、男なんですけど」
「つまらん冗談を言うな」
ぴしゃりと跳ね除けられ、ミーシャはつい、笑ってしまった。
「ふはっ」
「無礼な、何を笑う」
ユージンが今度はあからさまに睨んで来たが、残念ながら腹を括ったミーシャにしてみると、恐ろしい事など一つもない。
「いや、そんなに女の子に見えるかな、って。そっかぁ、そんなに小さいかぁ、僕」
周りにも発育が宜しくない子供が多かっただけに、飛び抜けて成長が悪いと思った事がない。ちょっと小さいかな、程度に思っていた。くすくすと笑うばかりのミーシャに、男は驚愕に満ちた顔で、おそるおそる手を伸ばしてくる。
「……胸が、ない」
「……小さいだけでは」
ユージンも苦虫を嚙み潰したような顔をして、真剣に面白い事を言う。
「言っておくが、下を確かめる気はない」
物言いたげなユージンを見遣ってか、男はきっぱりと断言してからミーシャを見下ろす。
「本気か、娘……いや、少年」
「体目当てだったら、ごめんなさい」
一応、殊勝に謝っておく。男はまじまじと何度も探るようにミーシャを見て、徐に盛大な溜息を漏らした。
「さて、どうするか」
「男など、投げ捨て置かれては」
ユージンはしれっと酷な事を口にするが、悟りを開いたが如く、ミーシャはそうなったらそうなっただな、と焦るでもなく思う。残虐な死を提案されぬ限り、最早どうとでもなれ。温かく眠いのも一つ、また一つには空腹過ぎて深く考える事にまで頭が回らない。どこに向かっているのか知らないが、目的地に到着する前に眠るように事切れるのでは、とさえ思う。
彼らには彼らの目算があって、ミーシャが男であった事でそれが狂って来た事は明白であった。彼らにも今後どうするかを考える時間が要るだろうと、ミーシャは目を閉じる。今が妙に幸せで、心地が良くて、是非このまま死なせて欲しい。
「こら、寝るな」
こつんとやられて、ミーシャは仕方なく目を開く。心地よい眠りを邪魔されて、むっとする。
「本気か。よく寝られるな、この状況で」
呆れられているが、目の前の男に、空腹過ぎて腕を上げる力もない者の気持ちなど一生分かるまい。
「何か、食べたい」
ミーシャが言うと、ユージンは感嘆したように小さく首を振る。
「厚顔な子供もいたものだ」
「二日何も食べてないんで。ほっといても、死ぬし。嘘吐いてたし、汚い頭で服を汚して、もう何言っても同じかなって」
「一理あるな」
こちらも感心したように言って、おい、とユージンに声をかける。視線だけを動かした先で、ユージンが横に置いてあった荷袋の中から何やら包みを取り出す。開かれたそこには、見た事もないおそらく食べ物がある。
食え、と言われて初めて、ミーシャは頭を浮かせた。自然と、浮いた。
「……え、何、ですか、それ」
「フィナンシェだ」
フィ、と聞き慣れぬ言葉を反芻しながら、ミーシャはおそるおそるそれに手を伸ばす。指が震えていたせいか、動きが遅いせいか、ユージンが徐にそれを押し付けて来た。摘まむと柔らかくて、崩れ落ちそうな食べ物だと思った。
携帯用にと持っていた食べ物に毒が入っているとは思わなかった。否、毒が入っていようとも、それを口に放り込んでみたいという欲求に勝てず、ミーシャは躊躇なく、フィナンシェとやらを口に含んだ。
口の中で蕩けるようだった。柔らかく、甘く、一息に飲み込みたいのを懸命に堪え、舌で磨り潰すようにして味わい尽くし、嚥下する。飲み込むと共に涙が出た。
「……おい、しい」
「ありったけやれ。何か飲むものも」
そう言った男は正に天使のようで、ミーシャは感激のあまり何度も頭を下げる。自然と下がった。
「ありがとう。ありがとう、ございます」
何度も何度も礼を言いながら、フィナンシェを五つと味のある飲み物をすっかり飲み干し、ミーシャは背凭れに体を預けたまま、ほぅ、と天井を見上げる。本当にもう、いつ死んでもいい。
「一息ついたか、少年。頭は回るようになったか」
ミーシャはこくんと頷いて、改めて座して隣に在る男の姿を見る。膝元はミーシャが頭を載せていたせいで黒ずんで汚れていたが、上半身は汚れ一つない清潔で上等の、としか言い表しようがない服を纏っている。差し込む陽光にブロンドの髪がきらきら、馬車の振動に合わせてゆらゆら、いつまでも眺めている事が出来そうな美しさだった。
力強く大きな男かと思ったが、線の細い青年であった。それこそ見ようによっては女性に見えなくもないが、それを言ってわざわざ怒られる必要はなかろう程度の頭は働く。
「よぉし、漸く答えが聞けるな。名は?」
前にも聞かれただろうかと思いながら、ミーシャは応じる。
「ミーシャ」
ふむ、と頷いた男に、ミーシャも問う。
「あなたは?」
「ふん?」
「名前。呼び名がないと、話しにくいから」
「それはそうだな。私の事は、レノ伯爵と呼べ。あっちはユージン」
ミーシャが頷くと、レノ伯爵は続けた。
「私は非常に特殊な仕事をしていて、生贄なる少女を常に探している。命を戴く事になるので、金で買える命が良い」
食うに困っているミーシャのような命を探している、という訳だ。
「少女じゃないと駄目?」
「駄目ではないが、少女が最も私との相性が良い。殺したくて殺している訳ではないんでね」
良く分からないが、何人か殺している事は間違いないような言い方だな、と思った。実際、ミーシャの事も死を前提にして買ったような印象は既に受けている。
「私が探しているのは、死なない少女、だ。今日までそんな少女を全国津々浦々、暇があれば探し歩いて来たのだが」
それでミーシャ達が住まうような、あんな辺鄙で泥臭い村にまで遠征して来たという訳だ。どこから来たかは知らないが、遠路遥々だろうとは何となく推察する。
「お前は見込みがある、ミーシャ」
「……ん? 僕?」
ああ、とレノ伯爵は肩を竦める。不本意ながら、とでも言いたげだ。
「僕は少女じゃ、ないですけど」
「らしいな。だが、少女でなくても良い、と私も言ったぞ。少女の方が相性が良いだけ」
「今までは?」
「まあ、そういう事だな。そんな気がするだけで、まだ分からん。結果死ぬかも知れないが、お前はもう私が買った。悪く思わんでくれ」
はあ、としか相槌が打てない。死んでくれと言われて喜ぶ者もなかろうが、ミーシャとしては、死なない可能性もあるのか、程度にしか感想はない。自分の命は、伯爵殿に比べれば塵一つに過ぎぬものだと知っているし、空腹を訴えるミーシャに全てのフィナンシェをと言ってくれた伯爵なら、そう悪いようにはされぬように思えた。
「構わないですよ、別に」
ミーシャが言うと、はっとしたようにレノ伯爵はこちらに目を向ける。その瞳に罪悪感が浮かんだ気がして、ミーシャはにかっと笑った。
「母と祖母だけ助けて貰えたら、僕は何でも。母にもこの、ふぃなんしぇーを、食べさせてあげてくれる?」
「……怖くないのか」
「前の子達は怖がったの? 僕はそうだなぁ、今から手足を切り落としましょうね、って言われたら怖くて堪らないけど、ぱっと死ねるなら、それはそれで楽だよなって今感じたっていうか」
「今?」
「ふぃなんしぇーを食べた時」
ふはっ、とレノ伯爵は可笑しそうに吹き出した。
「今だな」
「うん、今」
ふふと笑ってみせると、伯爵も可笑しそうだ。笑うと彼は幼く見える。
「約束しよう、ミーシャ。お前の祖母と母にフィナンシェを。それに、例えお前が死ぬ事になろうとも、元気に奉公しているからと母親に定期的に連絡を入れる。それでいいか」
「うん」
「奉公の駄賃だと毎月支払いも行う」
ミーシャは可笑しくなって、にやにやと笑ってしまった。ミーシャが笑って快い顔をしないのはレノ伯爵ではなく、ユージンだ。また苦い顔をしているのが目の端に映ったが、何も言われないので気が付かぬふりをした。
「なんだ?」
笑うミーシャに、レノ伯爵は不思議そうに問う。
「いいよって言ってるのに、勝手にもっと良い条件をつけてくれるのが、面白くて」
伯爵は今のやりとりを反芻するように視線を泳がせ、確かに、と小さく笑った。
「ではミーシャ。お前の家族の事は私に任せて、死の覚悟をしてくれ」
「はぁい」
それはもう出来ているとミーシャが軽く言うと、レノ伯爵は少し申し訳なさそうに顔を曇らせ、その軽さに救われるとばかりに小さく微笑んだ。
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