第13話

ソウが帰って来た。大怪我こそしていなかったが、余程の死線をすり抜けてきたのだろう、傷だらけだった。ケイが手当をしようとするのを、レイラが止める。ソウに触れていいのは自分だけだと叫ぶと、二人が同時に失笑を漏らした。

「これはお邪魔様。あたしは退散するわ」

「お疲れ様でした」

「全くよ、旦那さん。しばらくはレイラの子守、頑張って」

 ソウは苦く笑う。頑張る気はないが、仕方がないといった顔だ。最早どんな顔をされても嬉しい。生きているソウの声を聞き、くるくると変わる表情を見て、その体温を確かめる。幸せでしかない。

 ケイの毒舌を完全に聞き流すレイラをにやにやと見ながら、ケイが退席していくと、しん、と途端に家の中が静まり返る。

 二人きりだ。信じられないほど久しぶりのような気がする。あまりの緊張に突っ立つばかりのレイラにソウから声をかけてくれた。

「手当など、レイラに出来るのですか?」

「ば、馬鹿にしないで。そのくらい出来るわよ。それで、子供は?もうなんともないの?」

 声をかけて貰えた事にほっとして、平常心を取り戻していく。レイラはソウの手の中にある箱、ポロを見遣った。この中に、レイラの子供がいるのだ。

「ええ。あと三ヶ月もすればポロから出られるそうですよ。魂の定着はもう完璧らしいですから、あとはこの子に生きる意志さえあれば、無事生まれるだろうとお墨付きをいただいたので、戻って来ました」

 三ヶ月。レイラの胸が小さく痛んだが、何も考えるなと自身に言い聞かせる。目の前のソウだけ、見ていればいい。

「子供、見たんでしょ?どうだった?やっぱり男の子だったとは聞いてるけど」

「本当に小さくて驚きました。まだ殻の成形が終わっていなくて、容姿などについてはなんとも。ただ、どうやら黒髪のようには見受けましたが」

「ソウが黒髪だもの。姿もきっと、貴方にそっくりになる」

「折角二つの血が混じったのですから、レイラにも似た部分があるといいですね」

 とんでもない事を言うソウに、レイラは卒倒しそうになる。

「あ、それは駄目。泣きそう」

「は?」

 不可解そうに笑うソウが愛おしくて、レイラの口元から笑みが消えない。首を長くして待ったこの瞬間が、幸せ過ぎて怖い。

 ソウは箱を丁寧に机に乗せ、マントを脱ぐ。マントの上からでは分からなかったが、手足を中心に傷の数が凄い。どれも上手く避けたのだろう、致命傷に至るような深い傷はないが、何度危険な目に遭遇すれば、これ程の数の傷になるのか想像もできない。その多くは血が止まり、傷も塞がりかけているが、所々には真新しくて血が滲むものもある。

「痛くないですから、大丈夫ですよ」

「手当はしなくちゃ。服脱いで」

「レイラの前で脱ぐのは憚られますが」

「だから、襲わないってば!」

「湯浴みをと思っていますので、今手当をして頂いても直ぐに取りますけど?」

「ごちゃごちゃ言ってないで早く脱いで」

 ソウはレイラの言葉を信じてか、それ以上は深く言及せずに、上着を一気に脱ぎ捨てた。少し胸が揺れたが、深呼吸で自分を鎮める。ようやく勝ち取ったソウの信頼を、ぶち壊す訳にはいかない。

「それでは、腕をお願いできますか?」

「え、ええ。もちろん」

「目が泳いでますよ」

「ば、ばばばばばばか言わないで!このあたしが、裸の上半身くらいで心乱されるわきゃないでしょ!?」

「声も上ずってますよ」

 からかわれている。くすくすと笑う仕草が可愛らしくて、レイラは一度胸を押さえた。駄目だ、胸が苦しい。

「ソウに殺される」

「はい?」

「窒息死しそうよ。久々の本人登場に、弱りきった耐性じゃ戦えそうにないわ。妄想では太刀打ちできない破壊力」

「何を言ってるのか分かりません」

 相変わらず、ずばりと一蹴してくる。それすらも懐かしくて心地よい。

「そう言えば、舛小家の主子様は、あの後何事もなくお帰りに?」

「誰?」

 レイラが問うと、ソウは呆れたように言った。

「レイラを娶りたいと言っていた、主子様ですよ」

 今の今まで忘れていた。レイラが早産した直接の原因になったかも知れない、ソウと酒の対決をしたあの男だ。

「あーいたわね、そんなの。さあ、そう言えばどうなったんだっけ」

「レイラはあれから、何日眠っていたんですか?」

「十日よ。ソウが出て行ってから、九日とケイは言っていたわ」

「そんなに。滞りなく帰路に着かれたから、わざわざレイラの耳に入れなかったのでしょう。私もご挨拶出来ませんでしたから、いずれ舛小家を訪ねてみます」

 さらりと凄い事を言う。普通は主子に目通りなど叶わない。

 レイラは震える手で、止血を行う。ただ巻くだけだ。出来ぬはずがない。だが、時折触れるソウの人肌に、レイラの熱が上がるのは避けられない。

 飛びつきたい衝動を堪えつつ、レイラは問う。

「ソウは、今までどこに?賂族を頼ったの?」

「ええ。魂族の方を紹介していただきました。代わりに拘束された時間が中々に苦痛で、もう関わり合いにはなりたくない一族ですね」

「何をさせられたの?」

「些か変わった一族で、美しいものを愛でるのが好きなのだそうです。お眼鏡に叶ったはいいですが、毎日毎日着飾られては眺められ、時折諜報活動を申しつけられましたが、その方がどれだけ楽であったか」

 賂族当主。おそらく気が合う。そう思ったが、勿論口には出さない。

「あ、男ですよ」

 ソウが付け足すのを聞いて、レイラは笑う。

「実は気になっていたの」

「だと思いました」

 ソウはレイラの巻いた包帯を見遣り、感謝の言葉を述べた。どう贔屓目に見ても上手くはないが、ソウは巻き直す事なく上着を羽織る。それが妙に嬉しい。

「レイラは今までなにを?」

「え?えーっと」

 まさか、当主の引き継ぎをしていたとは言えない。そこでふと、ソウはいつまでここにいるつもりなのか、それが気にかかった。レイラとしてはいつまでもいて欲しいが、よくよく考えてみれば、長居をされるとレイラの死に立ち会わせる羽目になる。

 今更ながら、レイラは青くなる。

「レイラ?」

「え?あー、えっと。特に何も。氷国の大官長様に謁見したり、雛姫様ともお話を」

「氷国の大官長様ですか?それは素晴らしい。またお話を聞かせて下さい。先にこれ、いただいても?」

 ソウは、冷めきった料理を指差す。そう言えばお腹が空いたと言っていたのを、つい話し込んでしまった。

「冷めちゃったけど」

「構いません。いただきます」

 ソウは綺麗に手を合わせ、料理を口に運んだ。ソウの反応も気になったが、今はそれよりも、ソウがいつまでここにいるつもりなのかが気になって仕方がない。

 行かないで欲しいのに、いてもらっては困る。その葛藤で、レイラは胸が気持ち悪くなる。

 早く帰れなどと、口が裂けても言いたくはない。一秒でも長く、レイラの側にいて欲しい。しかし、それではレイラの死を彼に知らせる事になってしまう。彼の、重荷になってしまう。

「美味しいです」

 ソウが笑顔で言う。ソウが作ったものの方が、美味しいのに。彼はこんなにも、優しい。

「ソウは」

 いつまでいられるの。

 そう、言葉が続かない。

「はい?」

「優しいわね」

「は?」

 だからこそ、教えたくないのだ。レイラの死を。

 口ごもるレイラを見て何を思ったのか、ソウは料理を口へと運びながら言う。

「間もなく暗が来ます。話は明日にしましょう。レイラは先に、休んで下さい」

「え?平気よ。まだソウといたいわ」

「顔色が悪いですよ。私はもうどこへも行きませんから、明日、話しましょう」

 レイラは唇を噛む。明日などないかも知れないとは、言えない。

 レイラは頭を振る。大丈夫、大丈夫だ。死ぬはずがない。こんなに幸せなのだ。そう簡単に死ぬものか。ここまで来たら、気持ちの問題だ。死なない。そう自分に言い聞かせていれば、それはきっと叶うはずだ。そう信じるしかない。

「ソウと、寝たいわ」

 ソウが、視線だけをこちらに向ける。

「大丈夫、絶対に襲わない。最近、貴方が心配で心配で、正直あまり寝てないのよ。手を繋いでいて。それだけでいい。貴方を側に感じていたいのよ。安心が欲しいの」

 ソウは手を口元にやり、咀嚼をしながらこちらをみている。上目遣いに見られると、小動物のようで抱きしめたくなる。

「お願い」

 レイラが繰り返すと、ソウは料理を飲み込んでから言った。

「分かりました」

「本当!?」

「ええ。理由はともかく、確かにあまり寝ていないようですし。それで眠れるのなら」

 どきん、と胸が跳ねる。なぜ、理由はともかく、などと言うのだろう。ソウは、何か勘付いているのだろうか、やけにこちらを窺うように見てくる。その視線が心臓に悪いのに、ときめく自分に些か呆れる。

 ソウは食事を終えて立ち上がる。

「どうして戻ったばかりの私よりも顔色が悪いんです?もう休んでください」

「そ、そうね。そうよね」

 緊張して来た。

「どうぞお先に。折角レイラが手当をしてくれましたが、私は湯浴みをして着替えないと、流石にこれでは寝れませんから」

「あ、はい」

 手を繋いで眠るだけだというのに、心臓が蕩けそうだ。これしきの事で体が震えるなど、生娘でもあるまいに、我ながら情けない。

 ソウが視界から消えると、ぽつんとレイラは一人になる。静寂の中にあると、途端に心細くなった。つい余計な事を考えて、気が滅入ってしまう。

 レイラはソウを追いかける。湯浴みの音が響く風呂場の外扉の前に蹲り、彼の気配を辿る。水が跳ねる音で、ソウを感じる。

 一人はもう、耐えられない。

 人の温もりが欲しい。もういつ死んでもいいと思えるような、そんな夢に浸りたい。

 迫り来る死は、どんなに否定しても恐ろしい。だから、抱きしめていて欲しい。消えてしまわないように、繋ぎ止めていて欲しい。

「そこで、なにを?」

 いつの間にか、髪を濡らしたソウが、怪訝な顔つきでレイラを見下ろしている。レイラは笑ったつもりだったが、涙でソウが滲んだ。

「・・・ちょっと」

 ソウから、ふわりと良い香りがした。しゃがみこみ、レイラと目線を重ねてくれる。その細い指が、レイラの涙を拭う。

「何をそんなに怯えているんですか?」

 怯えている、これ以上ないほどに。やはりソウには、レイラの様子がおかしい事など直ぐにばれてしまう。元々、嘘は苦手だ。

 レイラはその首に手を回し、顔を肩に埋めた。しっとりと湿った肌から、熱が伝わってくる。

「離さないでいて。どうか、離さないで」

 死ぬまで。願わくばレイラが死ぬまで、側にいて。

 それが、レイラの本心だ。彼に重荷を背負わせないよう隠しておきたいというのも、もちろん嘘ではない。だがそれよりも強く、最期の時を、彼の手を握って迎えたいと思っている自分がいる。そうしたら安らかに、逝けるのに。

 ソウは何も言わずに、ただそっと、レイラを抱きしめてくれた。



 目が覚めるとまず、今日も生きていた。そう思う。

 生ある事に安堵し、しばらく無機質な天井を眺めるのが最近の日課であったが、今日は違う。

 レイラの手を握る者がある。首だけをそちらに向けると、寝息も立てずに深く寝入っている、ソウの寝顔がそこにはある。その手はしっかりとレイラの手を握り、枕に流れる黒髪が艶やかに光っている。

 目が覚めてそこにソウの顔があるのは初めてで、レイラは幸せの笑みを漏らす。薄く閉じられた唇は柔らかそうで、固く閉じられた瞼には長い睫毛がかかっている。頬に一筋流れる髪、呼吸をするたびに定期的に動く胸。その全てが愛おしくて、レイラはその寝顔に魅入る。

 その頬に触れたいが、気配を感じてソウは起きてしまうかも知れない。レイラは息を殺して、身動き一つせず、ただじっと、ソウの寝顔を見ていた。

 繋いだ手を振りほどけるはずもなく、レイラは小一時間はソウを眺めていた。彼はレイラの手を掴む反対の手の甲をおでこに当て、色っぽい息を漏らしながら薄っすらと目を開けた。そのまま目を擦り、首だけをレイラに向ける。

「おはようございます、レイラ」

「おはよ」

 なんだか照れ臭い。

「よく眠れました?」

「お陰様で。ソウも、よく眠れた?」

「お陰様で」

 ソウは薄っすらと笑って、レイラの言葉を繰り返す。我慢の限界に達し、無防備なそのおでこにキスをすると、ソウは擽ったそうに身を捩った。

「何もしないのでは?」

「何もしてない。寝惚けてるんじゃない?」

 空惚けてみせると、ソウは可笑しそうに笑む。本当に寝惚けているのか、嫌がる様子はない。

「目が覚めるって、こんなに幸せな事だったのね」

 レイラがソウの手を握る手に少し力を込めると、ソウが優しく握り返してくれた。昨日までとは違う。ソウがいるから、こんなに幸せなのだ。

 ソウはしばらく体を休めていたが、のっそりと体を起こした。レイラもそれに倣う。

「レイラ」

「なに?」

 ソウはレイラの手を離す事なく、寝台の上に座ったまま言う。

「私は、いつまでここにいたらいいですか?」

「え?」

 レイラは冷水を浴びせられたように、微睡みの中から引きずり出される。ソウも、既に先程までの眠気眼の彼ではない。しっかりと目を開き、真剣な眼差しでレイラを見ている。

「どういうこと?」

「そのままの意味です。貴女は私に、いつ帰って欲しいですか、レイラ」

 レイラは青くなる。

 どれだけ思い返して見ても、それを尋ねた記憶はない。尋ねたいと思った。だが同時に尋ねられないとも思った。その葛藤の末に答えを保留にしたはずなのに、ソウはなぜ、そんな事を聞くのだろう。

「どうして、そんな事を聞くの」

「貴女は聞かないでしょうから、私が聞くのです。子供はもう大丈夫です。きっと無事に育つ。だから私は、貴女の望むようにしましょう。いつまでこうして、手を握っていて欲しいですか、レイラ」

 気づいている。

 もしかしてソウは、レイラの定めに気づいているのだろうか。この村に来た時は、確かに知らなかったはずだ。そんな素振りは一度も見せたことがない。否、ソウに騙されていただけで、彼はもしかすると最初から知っていたのだろうか。

 いや、気づいていないかも知れない。なにか別の理由があって、そんな事を言っているだけかも知れない。レイラが死ぬと知っていると考えるのは早計だ。

 とにかく今、何と答えるべきか、咄嗟に判断ができない。

「いつまでも、握っていて欲しい」

 嘘ではない。この手をもう一度たりとも、離さないで欲しい。

 ソウはレイラを観察するように見つめ、不意に視線を逸らして言った。

「私には、そう長く時間は与えられていません。主人には、子供が無事に生まれたら戻りますとだけ伝えて、許可をいただいています。具体的には、子供は半年で生まれるという話ですので、長くとも半年以内、と出立前に申し上げました。現状、早くなりましたが子供は既に生まれ、もうこれ以上私が子供の為に出来る事はそうありません。ですから、どうしましょうかという相談です。多少の融通はつきますから、貴女に都合があるようでしたら合わせますが」

「・・・ああ、なるほど」

 レイラは安堵しつつも、どこかでソウは気づいているのではないか、という違和感を拭いきれない。だが、この村の者が告げるはずはない。きっと、考え過ぎだ。心に疚しい事があるから、ソウの真っ直ぐな目を見て、勝手に悪い方へと考えてしまっているだけだ。

「いつまでに出発したら間に合うの?その、主人との約束には」

「あと十日くらいなら、なんとか」

 微妙なところだ、レイラの寿命という観点から言えば。だが、もうあと十日しかソウといられないかと思うとそれはそれで苦しい。

 なにか兆候があればいいのに、とレイラは一人毒突く。ソウがいなくなって、何日も屍のように生きるのはつらい。ソウを送り出して、直ぐに死にたい。何か兆候さえあれば、そのタイミングを見計らう事が出来るのに。

 レイラは賭けに出る。大丈夫。あと十日くらい、死にはしない。気合いで生きてやる。

「では、丁度十日後に。約束通り貴方を送り出すわ、ソウ」

「分かりました」

 ソウは寝台を降りようと、レイラの手を離しかける。それを慌てて握り直し、レイラは言う。

「十日よ。あと、十日。出来るだけこの手を、離さないで」

「・・・分かりました、レイラ」

 きゅっと握られたその手は暖かく、震えるレイラの手を優しく包み込んだ。


 その日から、レイラはソウとの最後の時間を楽しんだ。

 仕事の引き継ぎはすっかり終わらせていた為に、ケイが全てを引き受けてくれた。流石に死が間近に迫って来ているとなると、いかな彼女でも気を遣ってくれるらしい。あと十日でソウを送り出すと告げると、その間の仕事は任せろと言ってくれた。

 レイラは朝目覚めると、ソウの作った食事をいただく。他愛もない話をしながら、子供の為の服を一緒に作った。ソウは出来ない事は特にないと言うだけの事はあって、レイラに比べて明らかに裁縫も上手かった。否、レイラに才能がなかったといってもいい。

 ソウはレイラに裁縫を教えがてら、作りかけの玩具を仕上げた。男の子であると確定してから完成させるつもりであったらしく、作りかけのものを幾つか男の子仕様へと塗り、完成させていく。

 時には村の中を散策し、食材を貰って来てはレイラに料理も教えた。そんな、穏やかで他愛もない、夢にみた日々が優しく過ぎていった。

 死を思うと夜も眠れなかった。

 だがこうしてソウの手を取り、変わりない村を散策していると、本当に自分は死ぬのか、という疑問がある。体は至って正常で、痛くも苦しくもない。たかだか七人続いただけだ、と思えなくはない。レイラにも当てはまるとは、限らない。

 一人でいるとネガティブな事ばかり頭を過るが、二人でいる時は驚くほどにポジティブな自分がいる。いかんせん兆候がないのだ。お気楽にもなる。そしてそれは、ソウとの最後の時を笑って過ごすためには、必要なものだ。

「ソウには、自由な時間ってあるの?」

 レイラは変わり映えのしない、見慣れた村をぼんやりと眺めながら問う。

「仕事の合間という意味ですか?ありません」

「少しも?」

「主人が起きていらっしゃる間は護衛や、命じられた仕事を。お休みになられてからも、暗が深くなるまではお側に。もう出歩かれたり、命令がない事が確実な時間になってから、自分も休ませていただきます」

「では全く、自分の時間はないのね」

 そうでもありません、とソウは言う。

「例え時間をいただいても、主人が心配で何事も手につきませんから常にお側にあることを心掛けますが、時折、主人が明らかに私のための命令を下さいます」

 レイラが沈黙で続きを促すと、彼もまた、村を眺めながら言った。

「街の視察をお命じになったりだとか、まあそういった類の事です。何も思いつかれない時には、とにかく三時間ほど城を出ていてくれ、と適当な事をおっしゃる」

「そういう時には、何をするの?」

「特には。街の様子を眺めたり、新しく出来た道がどこへ繋がっているのか、ただ歩いてみたり。私は仕事を与えられないと、何もすべき事が分からないのです」

 そうして考えた事も、結局は主人のためになる事なのだ。街の様子がおかしければ主人に伝え、いざという時に困らないように道を把握しておく。主人のために、それが体に染み付いて、ソウを離してはくれないのだ。

「こんなに長く離れて、心配?」

「私などいなくても、あの方は立派に政務をなさる。ですが、気にはなります」

 レイラは、空を眺めて言う。

「貴方は、さる城に仕える護衛武官なのね。そしてそれは、家主なのか、主子なのか、一城の要人で。ソウはきっと、あたしが思っているよりも凄い人なのでしょうね」

 ソウは、答えないと思った。彼は自分の主人に繋がる事は何一つ、言いたがらない。だからこれはレイラの独り言で、ソウはレイラの呟きを流すだろうと、特に答えを求めて発言をした訳ではなかった。

「レイラのご推察の通り。私は雷国のさる主子様にお仕えする、護衛武官です」

 ぽつりと言ったソウに、レイラは言葉を失う。驚き過ぎて黙り込むと、ソウは視線をこちらに向ける。

「レイラ?」

「・・・あ、いや、答えてくれるとは思わなかったから」

「ええ。答える気などありませんでしたが。貴女といるのもあと五日かと思うと、置土産の一つでもと思ったまでです。貴女は私の主人に迷惑などかけないと、信じてます」

 信じる。そんな言葉が、ソウの口から漏れるとは夢にも思っていなかった。嫌悪から始まったソウのレイラに対する心証は、とうとうなによりも大切な主人の事を少しでも話して良いと思える程に回復したのだ。それは、レイラがソウを本気で愛し、決して裏切らないだろうと、彼が感じた事に同義だった。

「大丈夫よ、絶対に、押しかけたりしない。子供には、そう伝えてもいい?」

 ソウは口を閉ざし、何かを考える素振りを見せた。そして暫くして、意を決したように顔を上げる。

「もしも、もしも止むに止まれぬ事情で、子供が私を頼らざるを得ない状況になったら」

 ソウの強い目がレイラを心臓ごと射抜いた。

「雷国鵡大家、光鵡様の護衛武官ソウを訪ねろ、と」

「鵡、大家?」

 ソウは真っ直ぐにレイラを見る。それはまさか。ソウの大切な主人の事か。

 鵡と言えば、雷国の格式高い名家だ。その光鵡と言えば、次期当主と名高い、鵡族長の次男坊である。

「護衛武官の、ソウ?」

「私の名です」

「えええ?だって、ソウは、あたしが」

「私の名です。たまたま、レイラが私の名を言い当てた時にはひやりとしましたが。どこで調べたのかと、正直疑いました」

 次期大家当主の護衛武官。それは、今でこそそこそこの身分であろうが、ソウの主人がもしも大家主になどなろうものなら、ソウ自身も正七位を賜れるかもしれない身の上だ。

 伽羅も商売を始めてしばらく経つが、正十位を超える男は、まだここを訪れた事がない。氷国王は、次元の違う話だ。

「名を、くれるのね」

 レイラは唇を噛みしめる。最近緩みきっている涙腺を止めるのに、必死だ。

「貴女を信じます、レイラ。私が出来るのはこれくらいですから。子供への、贈り物に」

 ありがとう、とレイラはかろうじて呟く。

 名を名乗るのは、信頼の証。レイラはついに、このソウの信頼を勝ち取った。それがなによりも誇らしく、胸がじんわりと熱くなる。

 もう思い残す事など、ない。

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