第12話

早い話が、前例として、当主が子を産んでから、百日以上生きた記録はない。

 レイラは、伽羅の当主としては八代目に当たる。

 前に七人の当主がいたわけだが、そのいずれもが子を産んでから、百日を待たずして死んだ。だから大体三ヶ月、と皆の脳裏に刻まれているのだろう。最も長い者で、産んだ日を一日目として、九十八日目に死んでいる。

 レイラは書簡を眺めながら、ケイに問う。

「そもそも、何が原因で死ぬのかしら」

「そんな事聞かれたって、分かるわけないでしょ。能力が関係あるとしか思えないけど」

 分かっていれば、誰かが解決策を見つけているだろう。なにせ命がかかっているのだ。労を惜しむはずはない。

「子供を産んだら死ぬなんて、呪いよ、呪い。原因なんてあると思う?」

「なんの呪いよ。能力は伽羅の尊厳を守るために生まれたものであって、必要不可欠な力よ。それのせいで子を産んだら死ぬなんて。そもそも、子を産んだら、っていうのが解せないわ。能力が強すぎて短命になる、っていうなら分からなくもないけど、子を産んだら死ぬのよ。意味不明だわ」

「子を産まなかったらどうなるか、例がないからね。皆、命を捨てて子供を遺してる」

 前に七人しかいないというのも、統計を取るには例がなさすぎる。七人が百日を超えられなかったからといって、レイラもそうだと、決めつけるのは早い。

「子を産んで死ぬというのは、どうなの?よくある話なのかしら?」

「そりゃあ、母体にそうするだけの力がなければ死ぬでしょう。死ぬというか、出産に必要な力が、母体に足りないのよ」

「よくあること?」

「さあ?聞かない話でもないけど」

 レイラは聞いたことがない。誰しもが妊娠し、誰しもが子を産み、当然のように育てる。伽羅にとっては特にそれが当たり前で、妊娠できないことも、産み落とせないことも、不思議でしかなかった。レイラ自身が早産するまでは、生まれてくるのは当たり前の事だった。

 子を産む力がない。それで母体が死ぬ。それは、理屈としては分からなくはない。出産自体は大した力を使わないが、子を腹の中で育てている間は、必要以上に力を使う。エネルギーを持っていかれてしまい、思うように体が動かないこともある。それで母体が弱る。弱りきった状態で子供を産むと、なんらかの異常を体にきたすのだと言われれば、そうなのかも知れない、と思う。妊娠はそれ自体が、体に異常をきたしている状態だ。体が熱くなったり、耳が聞こえにくくなったり、とにかく思ってもみない異常が体に起こる。それが原因で死ぬのだと言われれば、理由は解明できないが、納得出来る部分もある。

 レイラが解せないのは、産んでから三ヶ月は生きるという点だ。当主としての能力が強すぎて体に負荷がかかっている状態で、更に妊娠という身体異常を加えて死に至るのなら分かる。だがその場合、産後三ヶ月は生き過ぎだ。

「そう言われればそうだけど。直ぐに死ぬよりいいじゃない。儲け話に難癖つけないでよ」

「全然儲け話じゃないわよ。そもそも出産で死ぬのを基準に考えちゃ駄目だわ。世の女なら誰でも経験する可能性があることよ。産んだ端から女がばたばた死んでたんじゃ、世の中回らないじゃない。死なない事を前提にすれば、三ヶ月で死ぬなんて外れくじもいいとこでしょ」

「世の中には理由のない事だってあるわよ、当主。赤ん坊がおぎゃーって泣くのはなんで?ヒトが二足歩行するのはなんで?女が男を欲するのはなーんで?」

「うるさいわねっ、知らないわよ」

「それと一緒よ。伽羅の当主が三ヶ月しか生きられないのはなんで?理由なんてない。そういう定めなの」

 それを言ってしまっては、レイラの生き残る術も模索しようがない。原因さえ分かれば、少しでも延命出来るかも知れない。一日でも、二日でもいい。長く生きていたい。

「あたし達のない頭捻ったって仕方ないでしょ。もし本当にそれを望むなら、氷国王にでも聞くのね」

「帰ってくる気配ないそうよ」

 氷国王を頼る事は、とっくに考えた。だが、当の本人が雷国に遊びに行ったきり戻って来ないのだから、仕方がない。あの大官長に聞けば、なにかまたヒントになるような事を話してくれるかも知れないが、何か思い当たる事があるなら、先日会った時に教えてくれたはずだ。為す術に思い至らなかったから、その話題に触れなかったに違いない。

 おかしいとは思う。当主の死には謎があるのに、解決策を見出す術がない。知識が圧倒的に足りない。

「そろそろタダ村の男がやって来るわね。出迎えてくる」

「タダ村。ああ、そうだったわね」

 レイラは、立ち上がるケイを見上げる。自分は立ち上がらず、タダ村から妻を探しにくる男の対応の全てをケイに託す。

 一人になって、レイラは背凭れに深く背を預け、頭上を仰いだ。この家は、当主に代々引き継がれて来た。レイラが死ねば、次の当主がここに住む。

 前の当主達も、ここでこうして死を待ったのだ。子供をその手に抱きしめ、刻一刻と迫る死の恐怖と戦ってきた場所。レイラの手の中には子供がないが、先代達は皆、死ぬまで我が子を抱きしめていたと聞く。

 彼女達もまた、外の世界の男を選んだ。伽羅の男と結ばれた当主はない。どういう経緯か、外で出会った男の子をもうけ、死んで行った。生まれた子達は男達が最終的には引き取って行ったため、先代の当主達の子供はこの伽羅の村にはいない。レイラの子が、先代当主の子、として初めてこの村で生きる事になる。

 どんな扱いになるのだろう、とぼんやり考える。先代当主の子とは言え、扶養すべきレイラは既になく、父もない子は、ポジションとしては非常に微妙だ。敬われる要素もなく、ただ、母親が元当主であるというだけだ。村の皆が慈しんでくれると思うが、今レイラが感じているような憐れみの目を一身に受けて、引っ込み思案な子供にならなければ良いが。腫れ物に触れるような扱いだけは、して欲しくない。

 レイラは、子に何か残す事は出来ないのだろうか。生まれたのはやはり、男の子であったそうだ。この村での男の立場は低く、女が力を持つ一族であるが故、隅っこに追いやられて細々と生きる息子を思うと、居た堪れない。

 ふと、族長の顔が頭をよぎった。村の端で息を殺すようにひっそりと生きているが、彼の元には人が集まる。彼を崇拝する年寄り達が常にたむろし、彼は孤独ではない。

 レイラは立ち上がる。家の戸を開け放つと、丁度広場の方から鐘の音が聞こえてきた。タダ村の男は、無事到着したらしい。

 レイラは久しぶりに、村を横切る。途中で擦れ違った村人達が少し驚いた顔でこちらを見ていたが、レイラは気にせずに颯爽と小走り気味に目的地を目指す。

「誰かと思えば、当主。子を無事生んだそうじゃの」

 例にもよって、数人の年寄り達が家の前で族長を囲んでいた。今日は、族長も輪に入っている。

「族長に、頼みがあって来たの」

「ほう、珍しい事もあるもんだ。して、用件は?」

 年寄り達の目が、一斉にこちらに向く。老人というのは、皺だらけで力ないというのに、どうしてこう全てを見透かすような目をするのだろう。話しにくい。だから、レイラは年寄りが嫌いだ。妙な圧迫感がある。

「あたしの子の事よ。ケイに、と思ってたんだけど。貴方に育ててもらいたいわ、族長」

「ほう?」

 目を丸くした老人達は、次いでからからと笑う。

「レイラがそんな事を言うとはねぇ。いやはや、変われば変わるもんだの」

「近寄りもしなかったくせにの」

「あたしは族長と話してるんだから、ちょっと黙っててよ」

 レイラはげんなりと肩を落とす。彼らはいつまでも、レイラを子供扱いする。

「男の子だったのよ。あたしは、その子を次の族長に望むわ」

「族長は皆が決める。儂に預けたところで、次の族長になれるとは限らん」

「分かってる。思えば貴方は確かに、立派にここまで伽羅を導いて来た人物だわ。今の伽羅はあなたがあってこそ。それは認める。だから、貴方に育てて欲しいのよ。貴方のように、伽羅を導ける強い子に。結果大した男に育たなければそれはそれよ。でも、あたしの子はきっと、族長になれる」

「今まで蔑ろにしといてまぁ、よくもぬけぬけと」

 そう言う老婆は、にやにやと笑っている。全くもって、この老人達ときたら、揃いも揃って口が悪い。

 根は、優しいのだが。

「それは否定しないけど。別に蔑ろにしたつもりはないわよ。しゃべってると疲れるから、寄り付かなかっただけ。あなた達がいてこその今の伽羅だというのは、理解してるつもりよ、これでも」

「上から年長者を見下ろしてまあ、この当主ときたら」

「それはあんた達の教育が悪いんでしょ。言っておくけど、あたし達伽羅の女が口が悪いのは、あんた達に似たんだからね」

「ああ言えばこういう」

「それもお互い様でしょ」

 老人達は毒を吐きながら、じっとレイラを見ている。優しい目で、慈しむように、自分を見ている。不意に涙が出そうになって、レイラは小さく深呼吸をして思考を一度止めた。泣くものか。この老人達の前でなど、決して泣かない。

「それで、どうなの。受けてもらえる?族長」

「ここにいる皆で、育てよう。それでいいなら、受けざるを得まいな。当主の頼みは断れん」

「レイラのように口の悪い子になるだろうの」

「なにせ儂らのせいで口が悪くなったらしいから」

 かかっ、と笑い合うこの老人達は、レイラよりも遥かに長く生きるだろう。それが少し、悔しい。

「感謝するわ」

 レイラが殊勝に言うと、老人達はにかっと笑った。

「安心して死にな。しっかり育てて、後から追いかけてやるからの」

「あんた達が、このあたしに追いつけるわけないでしょ」

 レイラは苦く笑う。

 村の子供は皆、一度はこの老人達によく懐き、遊んでもらった経験がある。歳をとるにつれ他の遊びを覚え、いつしか寄り付かなくなっていくが、伽羅の子供は皆、彼らに愛されて、巣立って行く。

 レイラも、この年寄り達が好きだった。手を引かれて広場を駆け回り、木登りをしては尻を支えられ、雨が降ると頭をこれでもかと力一杯拭かれた。来る日も来る日も彼らの元を訪ねて遊んだ日々が、頭を過る。そんな昔の事はすっかり忘れたつもりでいたが、今日はこんなに鮮明に思い出す事が出来た。

 どれだけ邪険にしても、彼らはいつも温かく迎えてくれる。どれだけ罵詈雑言を吐いても、次に会う時には忘れてしまったかのようにいつもと変わらぬ笑顔をくれる。それが愛だと、本当は分かっている。

 レイラは踵を返す。いつもと同じように笑い合う声を背に受けながら、またね、と口にする。

 老人達は、また来い、と口々に言った。



 更に一ヶ月半が間もなく経とうかと言う頃、またソウから書簡が届いた。

 レイラはようやく仕事の引き継ぎを終え、ここ数日は生き残るための術を探すべく、産婆を訪ねて話を聞いたり、古い書簡を探してみたりと最善を尽くしてはみたが、全くと言っていいほど成果がなく、途方に暮れていた。

 氷国王はやはり帰城せず、ケイは当主の仕事を完全にマスターしたようで与えるべき助言ももない。あとは慣れるだけである。

 レイラの命の刻限も、通例で言えばいよいよ一ヶ月程度、残すところ僅かに迫っていた。

 ソウからの書簡には、あと二、三日で出立、とあった。書簡を運んできた脚族に聞いたところ、ソウから書簡を預かってからここまで五日かかったと言うから、彼は既に出立済みの筈だ。おそらくは、間もなく帰ってくる。

 間に合った。レイラの命がここ何日かで尽きるという事はあるまい。死が早くに訪れようと、少なくともあと二週間程は問題ない筈だ。

 会える。ソウに、子供に、生きているうちに会える。その喜びから、レイラはした事のない料理を始めた。ソウを労いたい。子供に、レイラの作ったものの味を覚えていて欲しい。そんな思いから、馬鹿にされながらもケイから習い、なんとか料理として成り立つ形になった時には、ニ日が過ぎていた。

「そんなにそわそわしてても、旦那さんの到着は早まらないわよ」

「分かってるけど、じっと座ってられると思う?」

「こんなに作って、あの胃の小さそうな旦那さんじゃ食べきれないでしょ」

「子供の分もよ」

「だから、まだポロからも出れない子供が食べられるわけないでしょ?」

「気持ちだからいいのよ!あたしが食べるんだからっ」

 ケイは机に並ぶ料理を一瞥し、苦く笑う。

「まぁ、あんたにしては良くやったわよ、当主。ソウの料理を見ておいて、これを出す勇気に乾杯」

「一々一言多いわね、あんたは!」

 見目麗しい出来栄えではないことくらい、レイラが一番よく分かっている。だが、それこそ気持ちの問題だ。味見はしてある。食べられない事はない。

「今日帰ってくるかも分からないのに。まだ三日かかったらどうするの、これ」

「その時は、あたしとあんたで食べるのよ」

「あたしも含まれてるの!?」

 嫌そうに眉を顰めたケイは、子供を族長に任せると言ったら、それがいいと賛成してくれた。レイラの事を話して聞かせるからと、そう言ってくれた。

 レイラはもう、いつ死ぬか分からない。

 先代が死んだ時のことは、レイラも覚えている。前日までなんの兆候もなく、普段通り元気そうに見えた。しかし、暗が明けると死んでいた。寝台の上で眠ったまま、二度と目を開ける事はなかったのだ。

 最も長く生きた当主こそ九十八日であったが、逆に最も早く死んだ当主は、八十一日だった。レイラは既に、子を産んで六十七日が過ぎた。今日はなんともなくとも、眠ってしまえば、もう二度と起きる事が出来ないかもしれないところまで、既に来ている。歴々の当主の死亡時期はあくまで目安であって、最短を更新するかもしれないし、最長を更新するかもしれない。

 体に全く何の異常もないレイラとしては明日死ぬと言われてもやはりぴんとは来ないが、最近、眠るのが怖い。二度と起きられないのではないかと思うと、いつの間にか眠っていても直ぐに目が覚めてしまう。おかげでかなり、疲れた顔をしている。久々にソウに会うのだ。しっかり睡眠をとって、いつも通り、唯一の取り柄である溌剌さを失っていないレイラで彼を迎えたかった。だがやはり、昨日もよく眠れなかった。

 暗が忍び寄ってくる。

 ソウは、今日という日に間に合わなかった。明日だろうか、明後日だろうか。レイラは、明日を迎える事が出来るのだろうか。

「これ、食べるわよ」

 ケイは、大量の料理を指差す。レイラはすっかり冷めてしまった料理を眺めながら、涙ぐむ。唇を噛み締めたが、涙は止まらなかった。

 ケイは驚いたように目を見開いたが、直ぐに視線を逸らした。何も言わずに、ぽん、とレイラの肩を何度も優しく叩いた。

「死にたくないわ、ケイ」

 絞り出すように言うレイラに、ケイは黙って頷く。ケイには、弱みを見せたくはなかったのに。最後まで軽口を叩き、貶し合ってその日を迎えたかったのに。

 もう、涙が止まらない。

「あたしは明日、生きているかしら。あたしが最短記録を更新するかも知れないのよ。八十一日保つかどうかなんて、なんの保証もない」

「大丈夫。神様はそこまで意地悪じゃないわよ。旦那さんが来るのを、きっと待ってくれる」

「三ヶ月しか生きられない運命を授ける時点で、十分に意地悪だわ!どうして、なんであたしがっ」

「そうね。どうして、あんただったのかしらね」

 前の当主も、前の前の当主も、その前も、皆そう思いながら死んでいったのだ。どうして、何故自分だけが伽羅のために死んでいくのか。皆の誇りを、矜持を守るために、自分だけが生贄のように死んでいく。

「みんなを憎みたいわけじゃないのに。理不尽ね」

「当主の犠牲があって今の平穏がある事は、みんな忘れない。決して忘れない。だから、あんたの子供は、皆が罪滅ぼしのつもりで守る。伽羅が滅びようと、必ず守ってあげる」

「ええ。ええ、そうね。誰が悪いわけでもない。それは、分かってる。みんなを憎んで死んでいきたいわけじゃない。でも、つらいわ」

 皆が当たり前に子供を産み育て、良き伴侶を得て幸せになっていく。その幸せを守るために、レイラは死ぬ。名誉の死と言えば聞こえはいい。だが、そんなものはいらない。レイラも、ただ当たり前の幸せが、欲しいだけだ。愛する者と天寿を全うし、子供の成長を見たい。ただ、それだけだ。

「そう言わないで。あんたは死なずに生き残る道もあった。あの日ソウに出会わなければ、ソウを襲わなければ、あんたは今でも死に怯える事なく生きていたのよ。でも、あんたは選んだんでしょ。自分で、選んだんでしょ。あの日に戻れたらどうする?今のレイラなら、ソウをそのまま帰したの?」

 あの日。

 レイラの運命が決まった、あの日。

 初めてソウに出会ったあの日の衝撃を、レイラは忘れない。死んでもいいと、思ったではないか。この男の子を産めるなら、死んでもいいと、確かにあの時、レイラはそう思った。だから人の道を外れ、あの幼い少年を襲ってまでも、手に入れた。

 思えばレイラなどは、自業自得だ。しかしソウは、完全にレイラの我儘に付き合わされ、幾度となく危険な目に遭った。何度も瑪瑙地区に入り、捕まったレイラを助けるために浴びるように酒を呑まされ、子供のために賂族とやらに奉仕させられる。彼の不運を思えば、自分でした事を嘆くなどと烏滸がましいにも程がある。

 あの日に、戻れたら。

 初めて見た瞬間を、覚えている。少し長い黒い髪が美しく、はっとするような妖艶な目は若さに輝き、その柔らかな物腰に、口調に、声に、その若い体から薫る香りに。全てがレイラを虜にし、全てがレイラに命を賭けさせた。命を賭けて、ソウへの愛を証明すると言ったのは自分だ。

 例え今、死への恐怖を知るレイラがあの日に戻れたとしても、きっとレイラは同じ事をする。二度とあの少年に会えない苦しみよりも、一時の彼との幸せを、レイラはやはり、きっと選ぶ。

 ソウの手を、離す事は出来ない。

「帰さない。絶対にあの手は、離さないわ」

「じゃあ諦めなさい。あんたが選んだ幸せでしょ」

「・・・そうね。明日死ぬ事を考えて眠るんじゃないのね。明日彼を抱きしめる事を考えて、眠るんだわ。そうしたら、もしも目が覚めなくても、あたしは幸せなのだわ」

 最後に見るのが、ソウの夢だなんて。こんな幸せな死があるだろうか。痛い事などない。幸せに浸っている間に死ねる。氷国王の庇護もなく、当主もいなかった時代の伽羅は、愛してもいない男の子を産まされ、痛ぶられ、獣に襲われ、血の涙を流して死んでいった。そんな彼らを思えば、なんと幸せな死か。

 レイラはふっと、詰めていた重い息を吐く。

 何も考えない。レイラはもう、何も考える必要はない。ただソウの事だけを思い出して、にやにやと笑いながら眠りにつけばいいのだ。

 瞼の裏で微笑むソウは、妄想の中でも優しく美しく、やはりレイラは彼に恋をする。

「さ、これ食べてしまいましょ。明日も同じの作るの?あたしは手伝わないわよ」

「一人でするわよ。あんたの手料理を愛するソウの口になんて入れさせないわ。あたしが作ったこの重い重い愛を、鱈腹食べさせるんだから」

「あたしが作った方が喜ぶと思うけど」

「そんなはずないでしょ。あんたの愛とあたしの愛なんて、天秤にかけるまでもないのよ。誰の口に合わなくても、ソウにだけは、あたしの料理の方が美味しいに決まってる」

「それは確かめてみないと」

 レイラは鼻で笑い、ケイに更に噛み付こうとして、我に返った。

 今の、声は。

 ケイの声では、ない。

 振り返る前に、涙が滲んだ。考える前に、レイラの頭はその声の主を正確に判断する。

 大好きな、声がした。

 心臓が止まりそうだった。緊張する。鼓動が煩くて、音が聞こえない。震える手を膝の上に乗せ、拳を作った。ぐっ、と多大なる力を込めて、顔だけで振り返る。

「ただいま戻りました、レイラ。今度は、物を壊さなかったんですね」

 小さな箱を持った少年が立っていた。

 全身泥まみれで、見える限りでも、複数の細かな傷から血が滴っている。その輝く瞳にレイラだけを映し、優しく微笑む最愛の彼が、そこにいる。数歩、たった数歩で手が届く距離に、彼がいる。

 ふらり、と自分の意志とは裏腹に、よろけるようにゆっくりと、近寄る。走り寄って抱きしめたいのに、足が鉛のように重い。

 震える手を伸ばすと、指先が彼の頬に触れた。温かくて、涙が出る。直ぐそこにあるソウの顔を優しく両手で包み込むと、もう前は見えなかった。

 レイラはへたり込み、その腰に手を回して彼を抱きしめる。ああ、痩せた。そう思った。

「会いたかった。会いたかったわ、ソウ」

 ソウの手が、レイラの頭を優しく撫でる。

 感謝します。神様。

 彼が生きて帰った事も、彼に出会わせてくれた事も、彼に再び会う機会をくれた事も、なにもかも全て。死よりも深く、感謝する。

「貴女も元気そうで良かった、レイラ。お腹が減っているんです。是非その私には必ず美味しいはずの手料理とやらを、いただいても?」

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