第10話

勝負がついたのは、三十六杯目だった。

 だらだらと、管を巻きながらもなんとか呑んでいた主子が、唐突に落ちた。

 三十六杯目を呑み干せずに机に突っ伏して、寝始めてしまったのである。そして、ソウはその三十六杯目を呑みきった。

「私の勝ちですね」

 たん、とソウが机に置いた空の器を確認し、レイラを捕らえていた従者が、その手を緩めた。するり、と抜け出して、レイラはソウに飛びつく。

 その細い首に手を回すと、体が微かに揺れていた。否、震えているのはレイラだろうか、涙が止まらない。

「怖かった。大丈夫なの、ソウ。苦しくない?」

「大丈夫ですよ。ここまで弱くなってるとは、思っていなかったので、少し焦りましたが」

 ソウは可笑しそうに、自分の震える指先を見ている。 やはり、無理はしていたのだ。

「気分が悪いとかは?」

「大丈夫です。まだいけますよ」

 確かに、笑顔に無理はなく、呂律も確かだ。足も震えていない。

「どうしてそんなに強いの。あたしでも、三十が限界だったのに」

「ああ。レイラは強そうですからね。前にも言いましたが、私はこの体をかなり虐めてきていますから。普段から、一日の半分は水の代わりに酒を飲んでいます。有事の際に、供が酔い潰れたのでは話にならないでしょう」

 さも当然のように言うソウは、最初から酒の強さに自信があったのだ。

「ここに来てからは呑んでいないので、弱くなっているだろうとは思っていましたが。積み重ねとは馬鹿にならない。他の勝負にしてもらえるならその方が良かったのですが、まあ、彼の酒の強さは予め知っていたので、なんとかなるかと」

「そうなの?」

「ええ、以前お会いした時も酒の席でしたので」

「本当に、なんでも出来るのね。感心したわ」

 ケイが、拍手をしながら感嘆の言葉を漏らした。こちらに近寄って来て、にこりと笑うソウを尊敬にも似た眼差しで見ている。

「無理だ無理だと喚き立てて、悪かったわ」

「いえ。普通の反応ですから、お気になさらず。レイラと子供を守ろうとして下さって、感謝します」

「そうよ!ケイ、あんたなんて事するところだったの!止めろって言ったでしょ!ソウが来なかったらどうなっていたことか!」

「うるさいわね!そもそもなに捕まってんのよ。当主が情けないと、舐められるでしょ!?」

 レイラは口を開いて文句を吐きかけ、なんとか言葉を飲み込んだ。言いたい事はあるが、そもそもはレイラが捕まらなければ、こんな騒ぎになる事もなかった。それは事実だ。悔しいが、助けようとしてくれた事だって、分かっている。

「くっ・・・わ、悪かったわよ」

「おお、素直。律儀にあんたがしなくても、案内くらい変わってあげるわよ。誰だって出来るわ。危ないと思ったら休みなさいよ。誰かに頼みなさいよ。それで迷惑かけてたんじゃ、本末転倒だわ」

「くっ・・・」

 今日ばかりはぐうの音も出ない。

 言葉のないレイラを見て、ケイは優越感に浸る。かつてこれ程までに勝ち誇った顔のケイを見た事があるだろうか、しばらく夢に見そうだ。

 ソウは、しがみついたままのレイラを交わし、酔い潰れた主子に近寄る。従者が横にしようとしているのを手伝いながら、その顔色を窺う。

「こちらも、ただ酔い潰れているだけのようですね」

「かたじけない」

「いえ。酒乱でなくて助かりました」

 確かに、寝てくれたから良いようなものの、酒癖が悪ければ大変な事になるところであった。この調子なら、気分良く寝てくれている間に日が変わり、伽羅の村を離れることになるだろう。

「しかしお強い。主人は酒にはかなり自信がある方ですが」

「存じ上げてます。既に四、五杯、召し上がっていてくれて助かりました」

 そうだった。しかし、それは最初に確認した。主子とて、まさかこれほど子供が呑めるとは夢にも思わなかったはずだ。現に、最初に呑んだ分を含めれば、伽羅の最高記録に匹敵する程呑んでいる。この主子とて十分な強さだ。

「お戯れを。貴方は、まだまだ余裕があったでしょうに」

 従者は苦く笑う。

「実は私も限界を知らないもので、なんとも。ですが、限界が来ても負けなかったでしょうね。勝負の行末に、背負っているものの大きさが違いました」

 ちらり、とレイラを見たソウに、くらり、と脳が揺れる。まずい、蕩けて消えそうだ。顔がにやけて仕方がない。

「流し目は駄目でしょ、流し目は」

「それは同感」

 独り言ちるレイラに、ぼそりとケイが相槌を寄越す。そして更に、話しかけて来る。

「あれはかっこいいわ」

「でしょう」

「完全に男の目をしてる」

「でしょう。落ちるでしょ」

「落ちる」

 珍しく二人で頷き合いながら、ただ動悸だけが早くなる。憎らしくて堪らなかった従者と親しげに話すソウをうっとりと見つめるレイラに、ぽんと肩を叩くようにしてケイは続けた。

「あんた、いい男捕まえたよ」

「でしょう」

「本当に。正直、命を賭ける意味って分からなかったけどさ。楽しむだけでいいじゃんって、思ってたけどさ。あんたが子を望んだ理由、なんとなく分かった気がするわ」

 レイラはケイを見遣る。その目は、真っ直ぐにソウを見ている。

「女の本能だわ。強い男の種を、次の世に残したいっていう。それが自分の種と重なって、その強い子に自分の血が混じる。自分の生きた証が、誰からも持て囃されるような素晴らしい種となる。その種を蒔いたのが自分だなんて、こんなに誇らしい事は、ないかもしれないわね」

「考えて選んだわけじゃない。本当に、直感的なものだったわ。ああ、この人だって。それが、人の本能ってやつかもしれないわね」

 ソウも従者という立場のせいか、すっかり話が弾んでいるように見える。足元に転がる主子を挟んで、とうとう楽しそうに談笑を始めた姿を見ながら、レイラはお腹に手を当てる。

「誰もがそうして出会った男女から生まれてくる。出会うって、思っている以上にすごい事よ。それを、人は運命って呼ぶのでしょうね」

「出会った中からしか選べない。でも、出会うのよ。男が子を産ませたいと思える女と、女が子を産みたいと思える男とが、出会うべくして出会う。生命って、うまく均衡がとれて続いていくのね」

「あんた、今日はやけに難しい事言うわね」

「あんたこそ」

「ま、あんたの場合は、均衡をぶち破った訳だけど?犯したんだし」

「この流れでその話蒸し返す!?」

 ケイが側にいて、ソウが側にいて、子供が無事に育っている。こんなに幸せな事が、あるのだろうか。ソウの弾んだ声がする。ケイの笑う声が聞こえる。

 幸せだ。

 レイラはこんなにも、幸せだ。

「ソウ・・・」

 レイラは立ち上がろうとして、急な激痛に襲われた。びりっ、と腹に電流が走るような痛みがあり、次いで、ぎりぎりと刺すような痛みの波が来る。よろけたレイラを、気づいたソウが支えた。なんとか転ばずに済んだが、その腕にしがみついたまま、ずるりと足の力が抜けて、床にへたり込む。

「レイラ?どうしました、レイラ」

 ソウの声が遠い。耳鳴りが酷くて、聞こえにくい。

「お、なかが、痛・・・」

 背中を丸めていくレイラを、ソウが抱き上げた。どこにそんな力が、といつも思うが、今のレイラにはソウの腕に抱かれている喜びを感じる暇はない。

 これは、いけない。

 ずっと神経を張り詰めていたせいなのだろうか、腹の子が悲鳴を上げている。この痛みは、まずい。

「産婆さんのところへ、案内して下さい」

「こっちよ」

 ケイに先導されて、ソウが走り出す。あまり揺れないように、細心の注意を払ってくれているのが分かる。ソウの胸から伝わる熱が温かい。肩を抱える手が頼もしく、心配そうに声をかけてくれる。

 レイラは気を紛らわせようと、あらゆる別の事を考える。痛みに負けてはならない。気を失っている場合でもない。ソウを見上げ、レイラを見下ろしてくれる顔を、その表情を、その唇から漏れる言葉を、必死に見る。必死に聞こうとする。

 だが、動悸が煩さ過ぎて、聞こえない。目が霞んで、よく見えない。こんなに近くに、いるのに。

「子を、子、を、助け、」

 レイラには、そこからの記憶がない。



 レイラが次に目を開けた今日はいつなのだろう。

 体が重く、思うように動かない。かなり長い時間が経っているような気がする。頭が働き始めると、体が動かないのは空腹のせいだと気づいた。自分が何をしていたのか、思い出すにも時間がかかった。

「十日よ」

 不意にかけられた声に目線だけで反応すると、そこには悲しげに微笑むケイの姿があった。

「知りたいのは、それでしょ?あんたが意識を失ってから経ったのは、十日。食べれる?」

 無理だ。体が、動かない。声を絞り出すのも億劫で、指先が鉛のように重くて上がらない。

「食べさせてあげるから、口だけ開けなさいよ。ほら」

 ぐいっ、と口を無理やり押し広げられて、生温かい汁が流れ込んで来る。飲み込める自信はなかったが、現金にお腹が鳴り、するりと喉を伝って胃に流れ込んで行った。ケイに何口も何口も、食べ物を口に運んでもらい、ようやく一人で口を開けるようになる。次第に噛む力が戻り、汁が柔らかい固形の食事に変わる。

「いきなり食べ過ぎるのもよくないらしいわよ。だから、とりあえずこれで一旦休憩。もう少ししたらまた食べさせてあげるから、まだ横になってなさい」

 お腹はまだ満たされていないし、体も思うように動かない。だが、これだけは聞いておかなければならない。

「子供、は?」

 何も感じない。空腹以外に、レイラの腹は何も告げない。ぽっかりと心に穴が開いたような喪失感が物語るのはなんなのか、レイラの脳はおそらく理解している。だから、涙が出るのだ。

「ケイ、子供」

 ケイは答えない。代わりに重い吐息が聞こえた。

 いなくなってしまったのだ。何事もはっきりと言うケイが言い淀む事が既に、レイラへの答えなのだ。

 では十日前のあの日、レイラの子は死んだのだ。あの狂わんばかりの子供の悲鳴を受けて、レイラは助ける事が出来なかったのだ。

 つっ、と涙が頬へと伝って落ちる。ソウは、どこへ行ったのだろう。手を握って、顔を見せて、慰めて欲しいのに、会う事が怖い。否、会えない。子を、レイラは殺してしまったのだ。どんな顔をして会えというのだろう。ソウは、どう思ったのだろう。

 失われるのはレイラの命だけであったはずなのに、レイラはもう、何も残す事なく死んでいくのだ。ソウとの繋がりも、もうない。

「まだ、死んでないわよ」

 ケイが、背中で言う。こちらを見る事なく、ぽつりと。

「え?」

「超未熟児だけど。あんたは産んだわ」

「どこ?どこに?」

 ふう、とケイを大きく息を吐いた。意を決したのか、勢いよくこちらを振り返って言う。

「普通に育つわけないでしょ。せいぜいが四ヶ月の子供よ。手のひらほどの大きさもなかったわよ。でも確かに、ちゃんと生きて産まれた。産婆が直ぐに処置をして、一命は取り留めたけど、通常六ヶ月で出て来るもんと同じ処置じゃ、栄養不足で直ぐに死ぬ。そんな未熟児の処置はうちの村じゃ出来ない。だから、ソウが連れてったわ」

 通常、産まれた子供は、腕に抱ける大きさになるまで、ポロという密封された箱の中で育てる。ポロというのは木の名前で、それを箱状に加工したものを使用する。ポロからは、子供を育てるための養分が多分に含まれるエキスが噴出しているとされ、その箱に入れておくだけで感染病や栄養失調を防げるとされる。ポロからエキスが噴出される期間は四ヶ月ほどで、ポロに力がなくなると、木が赤く変色して役目の終わりを告げる。それと同時に子供は外界へと出て、母親の手に戻って来る。

 だが、それはあくまで、きちんと母親の腹の中で六ヶ月過ごした子供に限る処置である。早産となった場合、未熟児にはポロのエキスはまだ刺激が強過ぎるとされ、使えない。ポロは湯をかけるとエキスを発し始めるのだが、湯をかけていない状態でもポロ自体がエキスの塊のようなものなので、そのまま箱に入れてまず慣れさせる、といった処置を一般的にはする。ただ、それは苦肉の策であり、安全とも言えなければ、助かる見込みも薄い。

 未熟児は、基本的にはその子の肉体的な強さによって生きるか死ぬかが決まる。成長が未熟であっても、外界に馴染めるだけの強さがあれば、生き残る。だが、確率的に言えば、未熟児は八割以上が三日を待たずして死ぬ。うまく呼吸が出来ない、栄養が行き渡らない、など理由は様々なようだが、そもそも自発的に呼吸が出来ない以上、苦肉の策でもポロに守ってもらう以外に方法はないのだ。それに早期に適応できた赤ん坊だけが、生きる事を許される。

「ポロに馴染んだかどうかは分からない。手立てがないと知ると、ソウが連れて行ってしまったから。それっきりよ」

 では、生きているか死んでいるかも分からないのだ。ソウが手立てを探して奔走してくれている。それをただ、信じて待つ他ない。

 レイラはぼんやりと、天井を見つめる。なにも考えられない。今はただ、レイラが守ってやれなかったのだという罪悪感と、確かに息づいていたはずのものがいなくなってしまった空虚感だけが、体を襲う。

 まるで全てが夢だったのではないかとさえ、思う。ソウに会ったのも、子が出来たのも、ここで一緒に生活した全てはレイラの夢に過ぎなかったのではないかという、そんな喪失感がある。

 現実が欠落してしまったかのような、虚脱感。何も、考えられない。悲しいのかどうかさえも分からず、ただ、自分の体が自分のものではないように、宙を浮遊する空気に溶けてしまった気がする。レイラは、レイラという個体は、本当にこの世界にあっただろうか。ちゃんと存在していただろうか。本当に自分は、レイラだろうか。何も、分からない。もう、何も。

「あんたは、とにもかくにも子を産んだ。だから、もう期限も定まってしまったわよ」

 期限。何の話だろう。

「ニヶ月も、早くなっちゃったけど。あんたの余命はもう、秒読みを開始してしまったわ」

 ああ、そうだった。そんな事もあったんだっけ。

 でももう、そんな事はどうでもいい。どうでも。今のレイラには関係のない事だ。

「ソウが、早く戻って来るといいわね」

 ケイの声が聞こえにくい。言っている事を反芻して、理解しようと努めて始めて、脳がその返事を考えようとする。ソウが、戻ってくる話。

「もう、戻ってこないかも」

「どうして?」

「子供がいなければ、ソウがあたしの側にいる理由なんてないんだから」

「子供はいるでしょ。あんたがそんな弱気でどうすんの。ソウは、瑪瑙にも果敢に飛び出して行ったのに、あんたときたら。迎えに行くくらいの気概を見せたらどうなの。もう、動けない体じゃなくなったんだから」

 瑪瑙。襲われれば命が危うい、強獣の住処。何の考えがあったにせよ、そもそもソウは、瑪瑙を抜けられたのだろうか。そこで獣に襲われていれば、帰って来ないのではなく、帰れなくなってしまった事になる。

 ぞっ、と急に背筋に冷たいものが走った。

 ソウは子供を守ろうと、諦めなかったのだ。どこを目指し、なんのあてがあって出て行ったのかは分からないが、彼は彼の全力を尽くして、レイラとの約束を守るために危険を顧みずに飛び出して行った。子供を胸に抱き、獣に出くわしてしまえば存分に戦えないことも承知の上で。

(死んでしまったら、大切な主人のところへ帰れなくなるのに)

 それでも。それでも、彼は。何よりも大切な主人との約束を違える事になるかも知れないのに、子供を、選んでくれたのだ。

 起きなければ。

 ぐんっ、と腹に力を込めると、体が持ち上がる気がした。もうお腹に力を入れてはならない事もなければ、自由に動いてもいいのだ。大切な彼のところに、走っていける。

「十日と、言ったわね」

「ソウが飛び出してから、九日よ」

 ケイはレイラの意図を汲んで、的確な返事をくれる。

「どこに行ったのかしら」

「それは分からないわ。肉体的発達も未熟だけれど、魂の定着だって未熟なはずです、とかなんとか小難しい事を言っていたけど」

 よく分からなかった、とケイは言う。

 魂の定着があって初めて無事に産まれてくる。それは、レイラがソウにした話だ。

「ポロの話を、した?」

「したわ。産婆にあれこれ質問してたみたいだけど」

 間違いない。ソウは、未熟児のポロでの成育に疑問を持ったのだ。出産には極めて不可解な事も多く、仔細は未だ明らかにされてはいないが、出産多き伽羅は、事情にまだ明るい方であると自負している。

 ポロは母体と同じように、呼吸のうまくできない子供の発育に必要な栄養を与え続ける事が出来る。ただ一方で、母体に出来てポロに出来ない事もある。それは、魂の定着である。母体は通常、殻と魂の定着を体内でこなす事が出来る。うまくいかなかった場合に死産となるわけだが、魂を定着させるためのサポートが出来る一族もいる。ポロには出来ない魂の定着は、殻自体に余程魂を引き寄せるパワーがあれば自らでなんとかうまくやってのける者もある。生命力、とも呼ぶが、大概はそれが出来ずに子は死ぬのだ。

 ソウは少ない情報からその事に即座に気付き、そしてなんらかの対応策を思いついたのだろう。だから、危険な瑪瑙地区に、子供共々出かけて行ったのだ。そうに違いない。

 ソウの思いつきに、子供の命を賭ける他ない。では、レイラの出来ることは。

 ソウの足取りを追うしかない。彼が助けを必要とした時に、手を差し伸べる事しか出来る事がない。

 だが、狩猟区は広い。どこへ行ったのかも分からないものを、探すなど不可能に近い。昨日今日出て行ったのではない、既に九日が経っている。

 レイラはあまりにもどかしく、下唇を噛む。なんでもいい、誰でもいい。レイラに出来る事を、教えて欲しい。残念ながら、レイラのない知能ではどうにもならない。何も出来ない事が悔しい。

 レイラは顔を上げる。

 もしかすると、氷国王なら。何か、助言をくれるのではないか。ソウが何をしようとしているのか、それだけでも分かるかも知れない。何をしようとしているのかが分かれば、どこへ行ったのかも推測が出来る。

 レイラは体を起こす。

 氷国王は、帰城しているだろうか。

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