第9話

しばらくすると、なんとかお腹の疼きは収まってきた。だが、油断は出来ない。心を穏やかに保たなければまた、子供は疼きという形で悲鳴を上げるだろう。

 レイラは現状を、頭の中で整理する。

 とにかくレイラは動けない。主子の要求は、自分の子を産む女を連れてこい、というもの。明日まで待てないという事なのだろうが、そもそもそんな女がいない。レイラとて、まだ女達から報告を受ける前なのだ。レイラが知らぬ事を、宿の主人に対応出来るとは思えない。

 そもそもとして、おそらくこの男に嫁ぎたいという女はいそうにない。長年広場で相手を探す女達を見ていた経験から言えば、この男には伽羅との縁がなかった。

 宿の主人は、所望の女を連れては帰れない。それならば、レイラは自分で自分の身を守らなければならない。なんとかして、ここから脱出しなければ。

「仲介をするのは、あたしの役目。あの人に頼んだところで、相手は見つからないと思うわよ」

「当主の子の命が惜しければ、何がなんでも連れてくるさ」

 レイラが言葉を崩すと、途端に主子もそれに倣った。最早お互い、上辺だけの探り合いはする気がない、と捉えていい。

 当主を刃物で脅しているのだ。伽羅族の反感をかっても、子供さえ手に入れば二度と関わり合いになるつもりもないのだろう。それほどに大それた、思い切った行動に出たものだ。

「伽羅は二度と力には屈しない。それが、今の伽羅の矜持だ。望まぬ妊娠など、誰も名乗り出ないだろう」

「どうかな」

 男は余裕のある微笑を浮かべ、レイラを見遣る。

「本当に惜しい。貴女が身籠ってさえいなければ」

「身籠ってなければ、既にその横っ面、叩きのめしてる」

 主子は茶化すように肩を竦めて見せ、ゆっくりとレイラに近寄り、従者の手の上から刃物を握る。お腹に、少し圧力を感じた。

「横っ面叩きのめすのを我慢してまで守りたい子だろ。失いたくなければ、言う通りにすることだ」

 びりっ、とお腹に痛みが走った。反射的に前屈みになりそうになったが、動くと刃物が刺さる。レイラは息を詰めて全身に力を込め、なんとか体の反動を鎮めた。

 レイラが苦しそうである事に気付いたのか、男は握り締めた刃物から手を離す。それでも従者がぴたりと腹に当てているが、圧迫感は引いた。

「女が来る事を祈るんだな。そしてその女の凍結を解きさえすれば、貴女の子は助かる」

「貴方の子を本当に産みたいという女が来るなら、そうしましょう」

 いるはずがない。

 いつまで待とうと、来るはずがない。そんなレイラの思惑を裏切るように、一時間ほどして、戸口から声がかかった。

「あの、お探しの者を連れてきました」

 おずおずと、宿の主人が顔を出す。

 主子は嬉しそうに笑み、レイラは目を丸くする。開いた口が塞がらないレイラの目の前に、戸口から人影が現れる。

「ケイ!?」

「何やってんの、当主」

 呆れた顔でレイラを見下ろしているのは、間違いなくレイラの悪友である、ケイだ。

「お前か。俺の子を産むのは」

「ええ。当主を離すんでしょ?」

 じろじろとケイを見ていた主子は、にたりと笑う。

「ああ。子が出来ればな」

「経産婦だけど。いいんでしょ?子供が産めれば」

「問題ない。おい、部屋を用意しろ」

 さっさと別室に移ろうとする主子を遮って、レイラは叫ぶ。

「ちょ、ちょっと待った!あんた、広場にいなかったじゃないの!興味なかったんでしょ!」

「行かなかったけど。別にいいでしょ、玉の輿なんだから」

 ケイは、確かに常々玉の輿を狙っていた。しかし、彼女は広場には顔を出さなかった。前情報だけで、興味を示さなかった証拠だ。それを今更、話に乗っかってくるはずがない。

「やめなさい。そんな事をしたって、あたしは恩を受けたなんて思わないわよ!」

「別に恩を売る気はないし。子供を産めば、その子は将来主子となるかもしれない。玉の輿の機会に乗っただけ。ま、助けられたと思うなら、恩を売ったことにしてあげてもいいわよ、当主」

 にたにたと笑いながら、いつもの調子でレイラを見ているケイを、レイラは睨みつける事で緩んだ涙腺を叱咤する。

「卵は、凍結するわ。だから止めなさい」

「本人の希望を無視して凍結は、規律違反でしょ。当主」

 それはそうだが、明らかにケイはレイラのために犠牲になろうとしている。確かに玉の輿を狙ってはいるが、彼女は男を選ぶほうだ。実は自分が認めた男以外には体を許さないことを、レイラは知っている。

「あんたはその子を生んでやりなよ、当主。母親にしか、その子は守れない」

 だが、ケイを犠牲には出来ない。生まれてきたこの子に、なんと言えというのか。この子に、少しの罪悪感も与えたくはない。ただでさえ、母親の命と引き換えに生まれてくるのだ。それ以上、この子には一切の荷物を背負わせる事は出来ない。

「ソウ、ソウ助けて!」

 レイラは叫ぶ。そう遠くないところに、いてくれるはずだ。レイラが部屋から出てくるのを、宿から出てくるのを、待っていてくれているはずだ。

 レイラには、子供を諦めることも、ケイを犠牲にすることも出来ない。だから。

「ソウ、ケイを止めて。この子を、助けて」

 主子が、怪訝そうに眉を寄せて、レイラを見下ろしている。その手がケイを連れ去ろうと、彼女の肩にかかる。自分の肩に触れられたわけでもないのに、悪寒がした。

 諦めろ、と背後の従者が申し訳なさそうに小声で告げる。諦めることなど、出来るはずもない。

 ソウならば、きっとなんとかしてくれる。出来ないことなどないのだ。レイラの見込んだ男なら、レイラが惚れ込んだ男なら、きっと。

「ソウ!」

「そう何度も呼ばなくとも、聞こえています」

 ぬっ、と戸口からソウが姿を見せた。部屋を出ようとしていた主子、それにケイと、鉢合わせになる。

「ソウ!」

「全く、手のかかる人ですね」

 ソウはいつもと変わらぬ呆れ顔でレイラを見遣り、ついで主子とケイに視線を投げる。

「旦那さん」

「貴女が犠牲になることではありません。主子様におかれましては、私を覚えてはおられませんか?」

「なに?」

 主子は急に言葉を投げかけられ、不審そうに目を細めて、ソウの顔を凝視している。

「さあ。どこかで、見たような気もするが」

「そうですか。そこの伽羅族当主は、私の子を身籠っているのですが、解放していただく事は出来ませんか?」

「なに!?お前の?」

 今度は驚愕の目で、ソウを見る。ついでレイラにも視線を寄越し、双方を食い入るように見比べている。彼の基準では、ソウはまだ幼く、子供をもうけるような年には当たらないのだろう。

 レイラが否定しない事で、なんとか真実と受け取ったようで、主子は苦く笑いながら続ける。

「まさか少年がお好みとはな。悪いが、当主にはもう少しあのままでいていただかないと。この女の気が変わっても困る」

 男は、ケイが好んでここに来たわけではない事は、今までの会話から、流石に分かっているらしい。ケイを逃さないために、レイラを人質に使うつもりなのだろう。やはり、子供さえ産むなら、誰でもいいというわけだ。だが、そんな愛のない行為は、今のレイラには容認できない。

「主子様は、本当ならば当主をご所望では?」

「なに?」

「私と勝負を致しませんか。私が勝てば、此度の伽羅とのご縁は諦めて頂きます。私が負ければ、当主を貴方に差し出しましょう」

「旦那さん!?」

 あまりのことに言葉を失ったレイラに変わり、ケイが目を剥いた。そんな怒号にも似たケイの言葉を無視し、ソウは真っ直ぐに主子だけを見て続ける。

「あの当主は本来、瑪瑙の獣をも捩伏せられるほどの手練れである上、性格は荒く攻撃的です。では何故ああして大人しくしているのか、それは腹の子のためですが、今貴方が連れて行こうとしているケイは、彼女の親しい友人です。彼女が貴方に連れていかれては、腹を裂かれなくとも、子は生まれない。今の彼女は、精神に受けた害すらも子供を危うくする不安定な状態にあります。つまり、親友を売ったとあっては、結局精神に負った傷が原因となり、子は流れてしまうのです。では、子を失い、親友を売った彼女は、どうするでしょう。きっと、強獣を狩るが如く、貴方に復讐するでしょう。当然です、失うものなどもうないのですから。さて、それでは貴方が命を拾うには、これからどうすべきでしょうか。その女性と当主を解放する他ありません。あとは、自分の命を守るために、今ここで当主を殺しておくという考えもあるにはありますが、当主を殺して、この村から無事に出られるとは、流石にそこまで楽観的に考えてはおられないでしょう?ここは氷国預かり、氷国王によって庇護されし伽羅村です。伽羅と一戦交えて、氷国に喧嘩を売るお心算がおありならまだしも、まさか王に敵うなどと、賢明なる主子様におかれましては、努努お考えにはなりませんよね?こうなってしまった以上、今更二人を解放すべきだと気付いたところで易々と手放しにくい事とご推察申し上げます。ですから、提案です。私と勝負を、致しませんか?」

 にこりと、と愛らしく笑むソウに気圧されて、誰も口を開かない。ケイはぽかんと弾丸のようにしゃべるソウを見つめ、主子は眉根に深い皺を刻んで唇を震わせている。レイラはその形の良い唇から紡ぎ出される言葉に聞き入り、見惚れ、内容はあまり頭に入ってこなかった。

「当主を、差し出すとは?」

 主子は、ケイの肩から手を下ろし、ソウに問う。伽羅の当主が瑪瑙の獣を諸共しないというのは、昨今では有名な話だ。当主が迎えに出るようになって、それは急激に広まっていった。それを知ってか知らずか、子が流れるような事態になればレイラに殺される可能性は頭にあるようで、主子といえども命は惜しいらしい。ここは、所詮彼らにとってアウェイなのだ。まかり間違って国の介入する事態となって立場が悪くなるのは、どう考えても彼らの方だ。考えているということは、交渉の余地がある。

「言葉の通りの意味です。私が責任を持って説得し、貴方に嫁がせます」

「そんなことが出来るのか」

「ええ」

 ちらり、とソウはレイラに視線だけを向ける。不意な流し目に意識を失いそうになるレイラの前で、彼はこれ以上ないほど綺麗な微笑みを浮かべ、不敵に言った。

「あの人は、心の底から私を愛しているらしいので。私の頼みは、断りません」

 ねぇ?と色っぽく微笑まれて、レイラは意識が吹っ飛びそうになる。

 その通りです。

 レイラは鼻血が出そうになるのを必死で堪え、心の中でのたうち回った。



 主子は、勝負を受ける、と最後には苦々しく言った。解放されたケイは、はらはらしながら、ソウに小声で何かを言っているようだが、生憎レイラには聞こえない。焦った様子で、食ってかかっているように見えるが、ソウは微笑でそれを交わしている。

「当主さん、あれは本当に子供の父親で?」

 ケイとソウが話しているのを遠巻きに見ながら、主子が席に戻ってきた。忌々しそうに酒を呑みながら、問うてくる。

「ええ」

「伽羅じゃないでしょう。何者で?」

「知らないわ」

「素性も知らぬ男に抱かれた、ということはないでしょう?貴女ほどの女が」

「素性も知らぬ男を、抱いたのよ」

 主子が目を丸くして、くく、と喉の奥で笑う。

「それはそれは。私も是非お相手願いたい。勝負に勝てば、叶うのでしょう?」

 今度はレイラが笑う。

「あの男に勝てるなら、喜んで」

「惚れ込んでますね。確かに、只者ではないようだ。どこかで見たことがあるような気もするが、さて」

 主子はしばらくソウを見つめていたが、不意に手酌を止め、何かを思いついたように笑う。

 未だにケイが食ってかかっているようだが、ソウの気は既にこちらにあるようで、じっと主子の様子を見ている。

「それで、勝負の内容は?」

 主子が声をかけると、ケイが一応黙る。

「勝負となると、一般的にはリュースでしょうけど。勝負を言い出したのは私ですから、主子様が決めて頂いても構いません」

「もう決めている。酒で、勝負。潰れた方の負けだ」

 我知らず、レイラの口から悲鳴が漏れる。

 ソウは驚いた様子もなく、無表情を貫いているが、そもそも子供の体に酒の耐性があるはずがない。ソウの事だ、嗜んだ事こそあるだろうが、強いはずがない。なぜならば、彼は従者の立場だ。主人に日々仕える身で、いつ酒を呑むのか。主子のように良い酒を毎日浴びるように呑んでいる者と、勝負になろうはずがない。真面目なソウが、主人の傍らで酒など呑むはずがないのだから。

 酒は、体質がものを言う。そもそも体に合わない者もいる中で、量を摂取する事で体に耐性が出来てくる。要は、慣れが肝心な飲み物である。体質に合わない者が過度に呑むと、命が危険だ。勝負となると、つい限界を超えて呑んでしまう傾向にある。

 ソウは、レイラと子を守ろうとしてくれるだろう。結果呑み過ぎると、彼の身に危険が及ぶ。断じてこの勝負、見逃すことはできない。

 レイラが反対の声を上げる。ケイも、直ぐに助け舟を出してくれた。

「子供に酒の勝負とは、あまりに大人気ないでしょう!」

「言い出したのはそちらだ」

「だからって、最低限の配慮があるでしょう!?」

 レイラとケイがどれだけ詰っても、主子は飄々と酒瓶を指で弄んでいる。その顔には笑みさえ浮かび、馬の耳に念仏だ。

「外野は黙っていて欲しいものだ。受けるか、受けないのか」

 主子は、レイラとケイを無視し、真っ直ぐにソウだけを見て言う。当の本人は、黙って成り行きを見守っていたが、目を伏せながらようやく口を開いた。

「どちらかが呑み潰れるまで、の勝負ですね」

「ああ」

「他に、なにか決まりはありますか」

 主子は考える素振りを見せ、ない、とはっきりと答えた。

「同じ酒を同じ量ずつ呑んでいき、潰れた方の負け。これだけだ」

「主子様は、既にお酒を召し上がっているようですが。それでは公平な勝負とは言えないのでは?」

「さほど呑んでいないから、問題ない」

「そういうわけには。負けた時の言い訳にされても困りますので」

 目に見えて、主子は苛立ちを露わにした。その眉間に刻まれた深い皺を見ながら、レイラは狼狽える。わざと煽っているのか、それともよほど自信があるのだろうか。挑発して、この勝負を変更させる術でもあるというのか、ソウの考えている事が分からず、ただ心が痺れるように緊張する。

「ではこうしよう。私が既に呑んでいる分の代わりと言ってはなんだが、今後、酒で勝負を挑んだ事を中傷するのはやめてもらおうか。そこの女共を、黙らせろ」

「分かりました。二度と言わせません。主子様も、後々既に深酒をしていた、などと言い訳をなさらないで下さい。又、酔い任せに話をなかった事に、記憶にない、などと誤魔化すのもやめて頂きます」

「自信過剰な小僧。後悔するぞ」

 酒を持て、と主子は叫ぶ。ソウは前に進み出て、卓を挟んで主子と向かい合った。距離にしてレイラも近く、斜め前に愛しい男がいる事になるが、ソウはちらりともこちらを見ず、主子と睨み合って火花を散らしている。と言っても、ソウは微笑を漏らしており、今にも襲いかからんばかりに睨みつけているのは主子だけだ。

 自信がある、と思っていても良いのだろうか。呑んでいる姿を見たことがないので、冷や冷やさせられる。ソウが負ければ、レイラは身売りする羽目になる。子供は最早、絶望的だろう。

 レイラは生唾を飲み込み、大きく深呼吸をする。

 大丈夫だ。ソウは決して、子供を危険な目に合わせるような事はしない。何か考えが、必ずある。それを、レイラは信じるだけだ。

 酒が運ばれてくる。

 呑み勝負をする事を聞いてきたのだろう。宿の主人は、酒を樽で持ってきた。酒はザンザス。狩猟区の木に成る実から造り、伽羅には親しまれた酒だが、一般的には度が高い。それを親指ほどの器に波々と注いで呑む。

 伽羅では、十六になる年に、このザンザスを呑んで成長を祝う。初めて嗜む酒に、大抵の十六歳がたった一杯で大人の洗礼を受ける。すなわち、酔い潰れる。

 樽で準備などしなくても、勝負はこの樽の酒が尽きるまでは至らないだろう。どれだけ強かろうと、これだけ呑んでは中毒死が危ぶまれる量だ。

 器をそれぞれ手に、樽に手を突っ込んで各々が掬う。波々と注がれたのを確認し合ってから、口に運ぶ。主子は躊躇いなく口に運び、まず一杯を飲み干した。一方のソウは、まずニオイを嗅いだ。おそらく呑んだ事がない酒なのだろう、ふーん、と首を傾げながら味を吟味するように一杯、くっと一気に飲み干した。

 たん、と空の器を相手に見せるように机に置く仕草が、妙に大人びて見えた。

「ほう。いい呑みっぷりだな。ザンザスは初めてか」

 ソウは眉根を顰め、軽く舌を出す。

「不味いですね」

「強いだけの酒だからな。・・・酒の味は分かるらしい」

 ソウは喉ごしが悪いのか、何度も唾を飲み込んでいるように見える。美味い不味いの話ではなく、酔いの方が怖いのだが、今のところソウに酩酊の気配はない。弱い者は、まず顔が赤くなる、目が虚ろになるなどの症状が出るが、それもない。水を一口飲んだ、といった雰囲気に、レイラは胸を撫で下ろす。もしかすると、本当に強いのかもしれない。

 次の酒が酌まれ、今度は一緒に呑み干した。たんっ、と同時に机が鳴る。

 どちらが言い出すでもなく、同時に酒を酌み、同時に呑む。それが、十回ほど続いただろうか、ケイもソウが酒に強いとは思っていなかったようで、目を丸くして様子を見守っている。宿の主人も気になるのだろう、こっそりとこちらを見ている。

 固唾を飲んで静寂を守る面々の前で、十三杯目の酒が二人の口へと消えた。

 ソウは完全な無表情で、様子が分からない。最初に比べると目が据わっているようにも見えるが、はっきりと読み取ることが難しい。一方の主子はにやにやと笑いながら、その頬を少し赤くしている。

「強いな、小僧。名を名乗れ」

「ソウ、と申しますが」

 二人ともまだ呂律も確かだ。勝負は、十四杯目に持ち込まれる。

「どこで見たんだったかな、確かに見たことがある気はするが」

 くっ、と十四杯目が消える。

「三年ほど前にお会いしたことが」

「ほう。どこか出先で会ったのか。ん?それともうちの城の中か?」

 ソウは答えない。代わりに、十五杯目を注ぐ。

「待て待て、うちの城の中となると、まさか来賓か?そんな風には見えんが」

 ぶつぶつと独り言ちながら、主子も酒を酌む。饒舌になっているあたり、確実に酒は回っているようだが、まだ余裕がある。

 ザンザスは、レイラでも最高三十杯で限界に達した酒だ。酒豪の多い伽羅族にあって、その最高記録は四十二杯目だと言われている。レイラもかなり強い方だが、目の前の勝負はいよいよ、その三十杯を迎えようとしていた。

 がしゃん、と器が割れる音がした。ソウの器が、床に飛散している。

「すみません、手が滑って。代わりの器をお願いできますか」

 宿の主人が慌てて新しい器を取りに走る。微かだが指先が揺れているところを見ると、ソウはかなり回って来ているようだった。顔色一つ変わらないので分かりにくいが、三十杯だ。レイラはそれで完全に潰れた。

 一方の主子も、目が完全に据わっている。頬が真っ赤で、先程から少しずつ呂律が怪しくなってきている。

「命まで、奪う気はないぞ。諦めるなら、そろそろ、止めたらどーだ?」

「いえ。まだ大丈夫です。主子様こそ、かなり呂律が怪しいのでは?失態を晒す事のなきよう」

「ほざけー」

 主子はくすくす笑いながら、三十杯目を呑み干した。気分が良いのか、悪態を聞き流して楽しげに笑っている。

 会話が出来ている時点で、まだ余裕は残っているのだろうが、そろそろ二人共怪しくなってきた。新しく運ばれてきた器を手にしたソウの手は、やはり微かに震えていた。

 顔色を変えない事が怖い。ソウは、元々あんなに白い顔をしていただろうか。そういえば、青白い気がする。かなり無理をしているのではないのか、レイラは不安になる。ソウが負ければ、レイラは身を売り、子は死ぬだろう。しかし、このまま続けさせてはソウが危険なのではないだろうか。まだ、子供だ。どんなに大人びていようとも、体は子供なのだ。

「そ、ソウ。大丈夫?」

 ソウの命も、子の命も、選ぶ事など出来ない。ただソウを、案じる事しか出来ない。少し前のレイラなら、確実にソウの命を選んだ。だが、今のレイラには子の命も捨てる事は出来ない。レイラが子の事を考えると、それに呼応するように腹が疼くのだ。生きているのだ。彼とレイラの、たった一つの繋がりなのだ。

 ソウは、その無表情を崩して、優しく笑う。

「ええ。言ったでしょう。私は必ず、最善を尽くしてその子を守ってみせます」

 ソウは、勢いよく三十杯目を呑み干した。

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