第8話

伽羅との見合いを望む主子の来訪を控えた、ある日のことだった。

 仕事は極力したくはないが、それでは一族の生活や、氷国への納金が滞ってしまうため、レイラの我儘もいい加減に通じなくなって来た。否、以前のレイラならそれでもケイに丸投げして、ソウとの時間を優先しただろう。だが今は逆に、ソウが見ているからこそ頑張らなければならないと思えるようになっていた。彼にレイラの働く姿をちゃんと見せて、感心して貰いたい。ただの我儘で身勝手な女ではなく、やれば出来る女だと認めて貰いたい。

 以前から打診のあった主子が明後日には来る、という時になって、レイラは腹に異常を感じた。

 下腹が、妙に痛い。蹲るような痛みではないが、痛みは確かにある。昨日まではなかったものだ。

 産婆に聞いてみるべきだ、とケイが言うので、ソウには内緒で産婆を訪ねた。もしも何かあったら、心配する。

 一頻りどんな痛みかを伝えると、彼女は腹を撫でるように、時には少し強く押しながら、レイラの腹を改めた。

「これは、うまく育ってないかもしれないね」

 そう言われた時には、頭を鈍器で殴られたような目眩がレイラを襲った。きちんと子が成った上で、産むまでにそんな不調が起こるという事態は、こと伽羅にとってはあまり例がない。

 あまりの事に言葉のないレイラに、産婆は続ける。

「いや、流れるというわけではないが。伽羅とてたまにはある事だが、卵か種か、どちらかに不調があったのかもしれないね。きちんと成ってはいるが、母親がうまく腹の中で育ててやらないと、出て来られない弱い子かもしれない」

「そんな」

 産婆は苦い顔をする。

「父親はまだ十四だろ。種がまだ未熟なのかもしれない。伽羅は長く卵を凍結すると、最初の頃は卵が弱っていて不調になることがある。だから、解凍後一ヶ月は子作りを推奨しないだろ。そういう場合もあるが、レイラに関しては、卵をそもそも凍結していないんだろ?なら、異常は父親にあったと思うべきだろうね」

「わ、若すぎたというの?」

「それは、ない事ではない。種族にもよるが、だいたいが十五以下の男女はまだ未成熟とされる」

 レイラは、我知らず腹を抑える。

「でも、ちゃんと生まれてはくるでしょ?」

「それはあんた次第だよ、レイラ。とにかく食に気をつけて、安静にして成長を促しな」

「安静にって、どのくらい?どうしたらいいの」

 子供の事など、ついこの間までさほど意識した事はなかった。子供は成ってしまえば放っておいても勝手に生まれてくるものであるし、勝手に育ってくれるものだと、そう思っていた。

 急に怖くなる。生まれて、来られないかもしれない。ソウの子を、生きてこの手に抱けないかもしれない。ソウがあんなに楽しみにしているのに。

 そんな可能性、万に一つも考えたことがない。

「とにかく体に負担をかけないことだ。体だけじゃないよ、心も安らかに。動かないことを心がけな」

 今まで動き回っていたせい、なのだろうか。レイラのせいだったら、どうしたらいい。

「動かなければ、いいのね?」

「父親に話すんだな。協力なくしては、どうにもならんぞ」

 例にもよって、嫌われたらどうしようと頭を抱えた。子供の事を考えろと言われた矢先だ。そうした注意を今まで怠って来た事が仇となったなら、申し開きのしようもない。ソウの子供を殺してしまいかけているのだ。怒ったとしても無理はないし、腹の中で子を育てるのは母親の仕事だ。ソウが栄養のつくものをと考えて食事の支度をしてくれている事を思えば、出来る限りの事をしなかったのはやはり、レイラの方だ。

 隠していようか、とも一瞬考えたが、直ぐに怪しまれるだろう。昨日までは走り回っていたレイラが、急に家からも出ず、動かなくなるのだ。怪しまない方がおかしい。

 だからといって、今まで通りに振る舞う事はできない。子供の命には、替えられない。レイラはたっぷり三時間悩んで、食事を準備するソウに意を決して話しかけた。

「やっと話してもらえるんですか。なんです?」

「やっと?」

「帰ってきてから、ずっと泣きそうな顔をしていますよ。何かあったんでしょう?」

 ばれていた。レイラの決心がつくまで尋ねないでいてくれた優しさに感激しつつ、何度も深呼吸をして、俯きながらやっとの事で言葉を紡ぐ。

「あの。お、お腹が、痛くて。それで産婆に会いにいったら、安静にしてないと、生まれてこれないかも、って言われた」

 一気に言い切って、レイラは膝の上で拳を作る。なんて、言われるのだろう。怖い。そら見たことかと怒られるだろうか。

 ソウの顔が見られない。

「ああ、そうなんですか。では、安静にしてて下さい。何かして欲しい事があったら、遠慮なくどうぞ」

「・・・え?」

「え?何か?」

 さらりと言われて、レイラは思わず顔を上げる。そこには、いつもと変わらない優しい顔がある。

「怒らないの?」

「なぜ?」

「え?だって、あたしが動きすぎて、こうなったのかもしれない。考えが足りなかったから、かもしれない」

「たぶん違いますよ。種に問題があったとか、そういうこと、言われませんでした?」

 レイラは黙り込む。それがもう、答えになっていた。

 やっぱり、とソウは苦く笑った。

「だろうと思いました。私は正直、ここに来て確かめるまで、いくら伽羅とはいえ子供は出来ていないのではないかと、半々くらいで思っていました」

「どうして?」

「私は未来永劫、子を作る気がなかったもので、子種に影響するであろうことも沢山してきているからです。だから、貴女のせいではありませんよ。よく妊娠したものだと、私はそう思っているくらいですから。とにかく言われたからには、出来る限りの事は致しましょう。安静に、ですね?」

 子種に影響すること、とはなんだろう。あまり体に良くないこと、であろう事は想像に易い。それも、主人のためなのだろうか。理由はともあれ、そんなことを表情一つ崩さずに言う少年が、酷く儚く見えた。いつの間にか消えてしまっていそうな、そんな危うさが言葉の端々に滲んでいる。

 レイラが椅子から立ち上がろうとすると、すっとソウが手を差し出してくれた。その手に縋って、そのままソウを抱きしめる。

「あたしが、愛してるんだからね」

「は?」

「だから、消えてしまわないで」

「意味がよく、分かりませんが」

 自分の事になど、興味がないのだろう。なにをするにも主人のため。それ以外に理由などなく、主人のためなら喜んで死んでいくのだろう。それが、危うい。誰にも看取られることなくひっそりと、その命が失われていきそうで怖い。

「貴方が死んだら、あたしは泣くの。だから、簡単に死なないで」

「なんの話ですか、レイラ」

 不可解そうに眉を顰めるソウを抱きしめたまま、その髪の香りに涙が出そうになる。レイラがこんなに愛しても、ソウは主人の一声でレイラを切るのだろう。このソウの命を握っているのは、顔も名も知らぬ彼の主人で、レイラではない。

 命を粗末にしないで欲しいのに。この少年は、命を賭けて何かを守って、死んでいく気がする。そしてそれは、レイラではない。

「なんでもない。ところで、何をお願いしてもいいの?」

 レイラは努めて明るく、話題を変える。レイラを突き飛ばすことも出来ないのだろう、大人しく抱かれているソウの言葉が近くて、声が肌を全身に伝っていく。

「常識的なことなら」

「じゃあ、口付けを」

「常識的なこと、と言ったばかりです」

「あたしには常識よ」

 ソウは小さく溜息をついて、レイラの肩に手を置く。ぐっと引き剥がされてしまい、食い下がろうとしたレイラの前に、ソウが急に跪く。

 何をするのかと思っていると、ソウは優しく腰に手を回してきた。緊張で一気に身の固くなるレイラの腹に、その唇を押し当てる。

「えっ!?」

 ソウは一回きりで立ち上がると、仕方なさそうにレイラを見遣る。

「誰にとは聞いてないので。私の子供に、口付けを」

「えっ!?あ、そ、そそそそ、そうね」

「これっきりですよ。レイラの常識に付き合うのは。・・・ふっ」

 ソウが、可笑しそうに小さく吹き出す。その顔が愛らしくて、見惚れてしまう。

「本当は純情なんですね、レイラ」

「は?」

 レイラの顔を指差して忍び笑うソウに見惚れながらも、慌てて頬に手をやると、信じられないくらいに熱かった。おそらくは、真っ赤になったレイラを笑っているのだろう。

 口付けを受けた腹に、触れる。そこでは確かに、子供が生きようとしている。狂わんばかりのレイラの動悸を受けてか、お腹の中で子供がぴくん、と跳ねたような気がした。



 久々に、伽羅に見合いを求める主子が来る。

 その日、レイラは迎えに出る事は出来なかった。狩猟区に出掛けるなど以ての外で、レイラはかつてないほど淑やかなる生活を送り始めたばかりだ。

 動くといえば散歩がてらのんびり歩くくらいで、走ることも跳ねることも、お腹に負担になるであろう全てのことを避け、ゆっくり、そっと、を心がけている。

 そんな様子に村の者達は目を剥いたものだが、例にもよって、ケイだけは指を差してげらげらと笑っていた。

 笑いたければ笑うがいい、とレイラは余裕をみせる。なぜならば、ソウが手を引いて歩いてくれるのだ。羨ましそうにレイラを見ている数えきれない目が、レイラの気持ちを天高く昇らせる。鼻が高いとはまさにこのこと、これほどまでに有頂天になることももうないだろう。

 とにかく、そんなレイラに狩猟区に迎えに行けるはずもなく、主子には自力で到着してもらうほかなかった。腕輪を持つレイラの他に、この瑪瑙地区を安全に走り回れる者などこの村にはいない。

 主子は、小家の現当主の第一子であった。

 家柄的には最優良物件とまではいかないが、第一子というのはポイントが高い。子を求められる伽羅には、願ってもない玉の輿のチャンスだ。かなり高い確率で子供を産めるのだ。子を産んだ側室は立場がぐんと跳ね上がる。

 予定より遥かに遅れて到着した主子には、付き人は十人程いた。本来なら大体このくらいの人数で狩猟区を越えるものだが、この主子はかなりの大人数で来て、襲われたらしい。残った兵士達の目に生気はなく、服装や流血の跡からはその壮絶なる戦闘をうかがい知ることができた。何人が犠牲になったのかは、聞かぬが花だ。

 主子一人が溌剌と元気で、浮いている。レイラは当主として彼を出迎え、広場へと案内した。その道中、主子の視線が痛くて思わず問うた。

「なにか」

「当主さんも、見合いには参加を?私は一目で貴女を気に入ったなぁ」

 嫌な目をする。

 レイラは顔には出さないように、努めて真顔で返す。

「残念ながら、当主は村を離れられないので」

「子供だけ産んでくれれば、別に城に来てくれなくてもいいですよ」

 こいつはダメだ、と思った。かつての伽羅のイメージのまま、子供を作るための道具だと思っている輩は未だにいる。きちんと娶ることもなく、子供だけ産めと考えているような輩で、今の伽羅にはそのような男を受け入れる女はいない。大変な思いをしてここまで来たようだが、おそらくは破談に終わるだろう。

 レイラは話す事すら億劫で、軽く受け流して広場へ連れて行く。そこで鐘をつくと、村から興味のある女達が集まってくる。

 少し離れたところから付いてきていたソウが、さっと鐘に近寄る。鐘は重い。いつものレイラならなんということはないが、今日は誰かに鳴らして欲しいと丁度思っていた。本当に気の付く良い男だ。

 レイラに視線を送ってきたので、小さく頷いて見せると、ソウが鐘を鳴らした。ゴーン、と重い音が一度。レイラが指で二を作ると、それを見たソウが、更に二度鐘をついた。言葉を交わさなくとも意思が伝わるというのは、いい気分だ。思わずにやけてしまったのだろうか、主子が話しかけてくる。

「当主さんは、あんな子供がお好みで?」

 中々に目敏い。レイラは慌てて表情を引き締め、それには答えずに言う。

「これで、貴方に興味がある女達が集まってきます。是非話をしてみてください。念のために言っておきますが、集まってくる女達に、無作法のないようお願いします」

 いつもはそんなことは言わないが、この男には言っておこうと思った。あまり印象が良くない男だ。力づく、なんて蛮行に出られても困る。

「お疲れでしょうから、今晩は宿を用意します。見合いが纏まろうと纏まらなかろうと、明日には出立を。見合いが纏まった場合にのみ、料金をいただきます。何か質問が?」

「いいえ。特には。宿には、当主さんが案内を?」

「見合いが終わる頃にまた来ます。では」

 レイラはさっと、その場を離れる。あまり顔を突き合わせていたくない相手だが、これも当主の役目。ちらりと振り返ると、主子が追いかけてくる様子はなく、集まり始めた女達を品定めに入っていた。纏まらない縁だろうとは思うが、人には好みというものがあるので、結果は分からない。

 レイラはソウを探す。てっきり付いてきてくれているのだろうと思っていたが、振り返った視界には入らない。鐘の所にもいない。

「ソ、」

「こっちです」

 呼びかけたレイラに、反対側から応じる声がある。いつの間に前に回り込んだのか、ソウがレイラの進行方向に現れた。

「素早いのね。付いてくる気配も感じないし」

「そういう仕事なので」

 ソウはさらりと言って、レイラの全身を見遣ってから言う。

「体調はどうです?接待仕事は久々なのでしょう?」

「仕事と言っても、案内するだけだから。走ってもいないし、特に痛みもない」

 レイラは、腹を撫でながら言う。痛みを訴えてこないと言うことは、子供が安らかなのかも知れない。言葉も話せないくせに、彼は訴える力があるのだ。生命力とは恐ろしい。

「ソウは、どちらが欲しいとかあるの?この子は、男のような気がしているけど」

「どちらでも。でもレイラがそう思うのなら、男の子なのでしょうかね。なおさら、男親がいた方が良いのでしょうが。そうですか、男の子。おもちゃ作りの参考にします」

 ソウは最近、子供がいる家庭を見学に行っては、どのような遊びをしているのか聞いて回っている。本当におもちゃを作るつもりのようで、その気持ちが嬉しい。

「それよりもレイラ。先程の、今日お見合いに来た主子ですが。柘大家領、舛小家の第一主子では?」

「知ってるの?」

「ええ、まあ。彼は、少し扱いに気をつけた方がいいですよ。あまり恥をかかせるような事があれば、おそらくろくなことになりません。不自由なく育てられている主子ですから、気に入らないことがあると傍若無人な振る舞いに出る可能性があるかと思いますよ」

「そう。それは、注意が必要ね。おそらく、あの男に嫁ぐ女はいないから」

 そういう場合の対処も、本来はレイラの仕事だが、今回はそれも難しい。腕尽くで止める他、方法を知らないレイラとしては、その腕っ節を封じられると弱い。

「どうにもならない場合は、私が対処しますから。レイラは、無理だけはしないようにして下さい」

「ソウが、どうやって?まぁ、腕っ節であの男に負けはしないでしょうけど」

「護衛もいますからね、力押しは避けたいところですが。とにかく、レイラは無理をしないで私を呼んで下さい。いいですね?」

 困ったらソウを呼ぶ。

 レイラはうっとりとソウを見つめ、ふふと笑う。この伽羅で、レイラを助けられる者は有りはしないので、なんとも気恥ずかしいが心強く、そう言って貰える事がもう、嬉しい。

「分かったわ、ソウを信じる」

 ソウは、小さく笑う。

「そうですね。信じてもらっていいですよ。私は、大概のことは出来ますから」

「言うわね」

 瑪瑙の獣こそ対峙しきれなかったが、狩猟区で諜報活動を任されるということは、大抵の獣の相手は出来る強さがあるということだ。料理も出来る。おそらく、おもちゃだって簡単に作るのだろう。ソウは、他に何が得意なのだろう。大概の事が出来ると豪語するからには、歌やダンスも上手いのかもしれない。一度、披露してもらいたいものだ。

「逆に、何が苦手なの?」

「苦手なものがあると克服してしまうので、今のところは特にこれといって。ですから、苦手だと思える新しい事に出会うのは、喜ばしいですね。苦手な事が減れば減るだけ、いざという時に主人に醜態を晒さなくても済むのですから」

「まーたご主人様ですか」

 レイラはげんなりと言うが、ソウは此処一番の大人びた微笑を浮かべる。

「ええ。それが私の生き甲斐ですから」

「はいはい。男のご主人様を羨むのはもう止めたんですー。あたしの妬み嫉みの相手は、女に絞る」

 それは本心だ。そのご主人様とやらがあって今のソウがあるのならば、それは受け入れるべきものだ。相手が男であるならば、レイラの恋愛的な意味において、対峙すべき者ではない。そのご主人様を一途に想っていてくれるうちは、ソウの中での女の順位は、レイラが一位を狙える。

「それは助かります。私は女性を好きにはならないので、これでレイラの御不興を買うこともなくなりますね」

 後にはやはり、一番はご主人様だから、とでも続くのだろう。なんとでも言うがいい。レイラを含め、誰も好きにならないなら、それはそれでいいのだ。レイラの上に立つ女さえ、いなければ。

 レイラは余裕の笑みを向ける。今までのレイラなら、自分を見て欲しくて苛立って、ソウに愛してもらわなくてもいいと口では言いながら、ソウの一番になりたくて心を痛めていただろう。だが、レイラの心はここにきて、大きく変わり始めている。

 レイラを愛してくれなくても、ソウはレイラを大事にしてくれる。望んで出来たわけでもない子供を、大切にしてくれる。それで十分だと本気で思っているからこそ、レイラはこうして、ソウの一途な主人愛を目の当たりにしても、掻き乱すような気持ちの乱高下は起こさないところまで成長した。

「ええ。ソウがここにいてくれるうちは、あたしの心は常に満たされているわ」

 いなくなった後の事は、考えないようにしている。それを考えてしまうと、レイラは心安く毎日を過ごせない。それは、子供にとっても良い事ではないに違いない。

 ソウはレイラの横にぴたりと付き添って、家路につく。しばらくしたら、また広場に戻ってあの主子を宿に案内しなければならない。それまでに、ソウの作ってくれるご飯を食べて、また彼への愛を確認する。



 思った通り、主子はあまり良い成果を得られなかったようで、レイラが広場に着いた時、そこには主子と護衛が佇んでいるだけであった。

 その場で見合いの結果が分かるわけではないので、振られたのだと主子は気付いていないのだろうが、女達との会話が上手く弾まなかったのか、機嫌が悪いように見えた。

 通常、女達は男との会話を楽しみ、興味があれば、馬が合えば、ずっと話し込んでいるものだ。男に興味がない者は早々に帰っていく。その時点で、レイラには嫁ぐ意思のある者が分かるわけだが、システムを知らない主子が、それを知るはずもない。よほど話が弾まなかったのだろう。

 宿に案内した先で、娶りたい女をレイラが聞く。それを女に伝え、嫁ぐ気があれば翌日帰る男に添わせて、一緒に送り出す。翌日まで女にその気があるかどうかは、男には伝えない。帰る間際になって、女を連れて帰れるかどうかを男は知るのだ。

 翌日まで伝えないのは、うまくいかなかった場合の、男の機嫌を損ねるのを防ぐためである。帰る間際まで大人しくやきもきさせておけば、あとは送り出すだけだが、前日に成果がないことを知れば、自暴自棄になって暴れる輩がいる。一つしかない宿が、そうそう壊されたのでは堪らない。

 レイラを見つけると、主子は口の端だけで小さく笑った。据わった目は笑っていない。

 この主子は、うまくいかないことを感じている。誰もこの主子には嫁がないし、その子供を産む気もない。遥々供の命を減らし、危険な道中をやってきて、成果も得られずただ、大したおもてなしもない宿に泊まって帰る。それが、彼らのような人の上に立つのを当たり前として生きてきた者達がどう思うのか、その憤懣は想像するには易い。だが、伽羅の人権を踏み躙る行為だけは、見逃せないのだから仕方がない。彼に選ぶ権利があるように、伽羅の女にも当然その権利はあるのだ。それを彼らは、理解しようとしない。

 レイラは背後を警戒しながら、宿へと案内する。

 主子も、黙ってそれについてはきているが、その沈黙が不気味だ。ソウの言葉を信じ、しかし主子への警戒の色を示して更に不快にさせないように、レイラは緊張感をもって、宿への道を進む。

 ソウが、離れたところから付いてきてくれているはずだ。何かあれば、助けてくれる。何も心配する事はない。

 宿に入り部屋へ通すと、レイラはいつも通り、心に決めた女性はいるか、と主子に尋ねた。

 主子は上座で胡座をかき、供をその後ろから両脇、部屋の入り口までを取り囲むように配置してから、言う。

「誰でもいい」

 そういう答えも、ありだ。しかし、それが一番傷つく答えだ。誰一人として彼を選ばなかったことが、分かってしまうのだから。

「分かりました。嫁ぐ者がいれば、明日のご出立の際にご一緒させます。成立した場合のみ、お代をいただきます。何かご質問は」

「はあ?今晩、その女を寄越すのではないのか?」

「ええ。子供は、国元へ戻ってから作っていただきます」

 こういう勘違いをする者も、当然今までにもいた。システム自体は公言していないのだから、そう思った者を責めることは出来ないが、これほど露骨に嫌な顔をする者はそうはいない。

「国元へ連れて帰るのは、妊娠した場合だけでいい。伽羅とはいえ、確率が高くとも絶対というわけではないだろう。出来もしない女を連れて帰っても、仕方がない。何人か試して、子を孕んだ者だけを連れ帰る」

 レイラは心の中で溜息を漏らす。やはり、こういう手合いはろくな男がいない。スムーズに何事もなく取引が進むような本物の紳士も多いが、こういった低俗な上流階級気取りもまた、多いという残念な事実はある。もう何人も、こういう男達の相手はしてきたが、いかんせん説得は得意ではない。最終的に力づくでその日のうちに村から放り出した事も何度かあるが、今回はそれが出来ないのがつらい。

「一度で望みが叶う、かどうかは確かに伽羅とて分かりかねますが、何度か試せば妊娠しないということはない。同種族との婚姻以上の確率で子宝が望めるのです。一人を選び、連れ帰り、何度か試してからの苦情なら考える余地もなくはないですが、女達の人権のために、何人もあてがうわけにはいきません」

 レイラは、ちらり、と出口を確認する。供が二人部屋の入り口に立ちふさがっているため、簡単には出られそうにない。

「人権、ね」

 主子は冷笑し、じっとレイラを舐めるように見ている。気持ちの悪い目をする男だ。鳥肌が立つ。

「失礼を承知で言っておきますけど。村の女を襲っても無駄です」

「卵が凍結されてるんでしょう。その位は知ってます」

 レイラは肩を竦める。それが分かっているなら、まさか非道な手に出ることはないだろう。

 非道な手。レイラがソウにした事を自ら非道と例える情けなさに気付いて、つい失笑が漏れる。後悔していないと事ある毎に思ってきたが、心の奥底、レイラの根っこの部分に引っかかりはあるのだろう。だからなにかにつけ、思い出すのだ、自分の所行を。否、悪行を。

「なにか?」

 失笑を見咎められて、レイラは表情を引き締めた。

「それでは、これで。明日の朝、門の所で」

「ちょっと待って下さい。卵を凍結するも解除するも、貴女の仕事なのでしょう?当主」

「それが、なにか?」

 早くこの場を去りたいレイラは、やきもきしながら答える。

「貴女をこの場で押さえつけてしまえば、子は臨めるのでは?」

 レイラは、冷ややかに男を見遣る。背後の従者の動きが、俄然気になってくる。

「つまり、痛めつけてでも解除させて、このあたしに子を産ませようと?」

「痛めつけたくはないですが」

「生憎、他の男の子を身籠っているもので、あたしは現在妊娠出来ない体です」

 レイラははっきりと告げる。これには少し驚いたようで、主子は目を丸くした。

「え?本当に?」

「ええ」

「この村の男ですか?」

「それは貴方には関係のないこと」

 やはり、ろくな男ではない。伽羅の当主による凍結がなければ、この男は村の女を手籠めにしていただろう。こういう男がいたからこそ当主は生まれ、そしてその者は死の宿命を背負った。誰しもが誠実でさえあれば、レイラとて当主などにはならず、好きな男の子を、老いて死ぬまで育てられただろうに。

 忌々しい目の前の男を、このままでは睨みつけてしまいそうなので、レイラはやはり、早々に退散を試みる。

「とにかく、明日をお待ちください。ここの規則には従っていただきます」

「まぁそう慌てず。酒でも付き合ってもらえませんか。女が来ると思っていたので、いないのなら暇で仕方がない」

「従者の方とどうぞ。酌など、伽羅は致しません」

 不意に、がっと両肩を後ろから掴まれた。反射的に振り返ると、戸口にいた従者がレイラを威圧的に見下ろしている。

「どうか、主人の指示通りに。子が腹にいるなら、乱闘騒ぎは起こしたくないでしょう?」

「このあたしに、力づくで酌をさせようというの?」

「そう深く考えず。主人は話し相手が欲しいだけです。こちらとて、伽羅の当主に手荒な真似はしたくありません」

 レイラは唇を噛む。瑪瑙地区を、主人を守りながら生き抜いた従者と一戦構えるのは、レイラとしても避けたい。明らかに子に触る行為だ。

 だからと言って、目の前の男に近寄って行くのも真っ平ごめんだ。何をされるか分かったものではない。

「話し相手なら、年寄りを呼びましょうか?伽羅の年寄りはおしゃべりですから」

「貴女と話したいのです、当主」

 主子は、ぽんぽんと、自分の横の席を叩いて、ここに座れと示す。

 どう乗り切るか。いつもならば、後ろの従者など蹴散らしてでも退散するだろう。しかし、今のレイラに猛者と対峙するだけの動きは厳禁だ。走ることさえ控えているというのに、戦うことなど子供を殺しかねない。

 だからと言って、男と話す気もない。だが、どちらかを取らねばならないなら、後者しかない。ソウの子供は、何があっても守らなければならないのだ。

 屈服したようで癪だ。レイラはささやかな抵抗として、男の側には行かずに、その場に座った。

 不満そうではあったが、仕方なくレイラの妥協を受け入れ、主子は酒を勧めてくる。それを断ると、男はそのまま自分で飲み干した。

「貴女のような女性が選んだ男とは。とても興味がありますね」

「それはそれは良い男です」

 背後にはまだ、ぴったりと従者の気配がある。レイラの動きを封じる思惑か、戸口まで戻ることなく圧力をかけてくる。

 レイラが具体的な事を何も言わないせいか、主子は食い下がる。

「紹介して下さい。いるんでしょう?この村に」

「出来ません」

 レイラは言葉と共に、思わず溜息をついた。話したくもない相手と仕方なく話す事が、これ程苦痛だとは思わなかった。

 早くソウに会いたい。

 そんな気持ちを汲んだのか、精神的ストレスを感じ取ったのか、お腹が急にどくん、と疼いた。レイラは咄嗟に腹を抑えたが、立て続けに疼く。止まらない。

 これは、良くない。そんな気がする。

 レイラの様子を見てか、主子が声をかけてくる。それに対して生返事をしながら退出を請うと、主子が小さく目配せをした。レイラにではない。レイラの背後の男にだ。

 一瞬反応が遅れたレイラの首を絞めるように、太い腕が首に絡まってくる。反対の手にいつの間にか握られていた短刀は、ぴたりとレイラの腹に当てられて、あっという間に身動きがとれなくなった。

「な、なにを」

「子が大事なら、どうぞこちらへ。誰か、宿の者、誰か!」

 主子の言葉と、レイラを拘束する男に促されるままに、レイラは部屋の奥の隅へと連れて行かれる。戸口が見えるように座らされ、身動きがとれないままに、主子が宿の主人を呼びつけるのを見ている他ない。

 直にやって来た宿の主人は、レイラが拘束されているのを見て狼狽えながら、戸口で困った顔をしながら言った。

「な、なんでしょう?」

「俺の子を産む女を、今からここに連れてこい」

「は?」

「直ぐにだ。早く連れてこい!」

 宿主は飛び上がって驚いたが、レイラの様子から何かを察したのか、慌てて退出して行った。

 レイラはお腹に神経を集中させる。

 とにかく落ち着いて、心を落ち着けて、子供の疼きを止めなければ。起こっている事態について考えるのは、それからだ。

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