第7話

ソウは、椅子に腰を下ろして、小さく溜息をついた。レイラの方に半身を向けて、視線を絡ませる。

「私は捨てられた子です。気がつくと、本当の親は側におらず、捨てられたという事はかなり早い段階で知りました。その時は、やはり子供心に遺恨が残りましたから、私はレイラのあの行動は今でも許してはいません。私は図らずしも、私を捨てた親と同じになってしまったのです」

「・・・後悔はしてないの。でも、反省してる」

 レイラは怒られた子供のように小さくなる。

「でも時が経ち、私の事を家族だと、言ってくれる方が現れたのです。それが今仕えている主人です。私は主人に一生仕えると固く決意し、そしてそう、貴女の言葉を借りるならば、あの方を愛しているのです。大切な、私のたった一人の家族です。だから、私は自分の親と同じになるのだとしても、自分の子供を優先する事はできない。あの方が私を必要としてくれる限り、私は絶対にあの方の側を離れません。しかし、私は私が傷ついたあんな思いを、子供にさせたくないのですよ、レイラ。だから、出来る限りの事はしようと、無理を押してこの時間を手に入れました。私は子供の事など分かりませんし、妊婦の扱いだって知りません。けれど、私は、最初は望んでいなかったとしても、あなたを愛していたのだと子供に伝わるように、何か残してあげたいと、そう思っているのです。それが妊婦に栄養あるものを食べさせることなのか、おもちゃを作ることなのか、必死で模索しているというのに貴女ときたら」

 大きな溜息をついて、とうとう頬杖をついてこちらを見遣るソウの顔には、呆れと諦めの色が滲む。

 ソウが、こんなにも自分のことを話してくれたのは初めてだ。それが嬉しくもあり、子供を愛そうとしてくれていることに、更なる感動が押し寄せてきた。

 ソウは、依然として苦い顔でこちらを見ている。いつもきちんと姿勢を正した佇まいの彼が、頬杖をついてこちらを見ているのは、なんとも気恥ずかしい。ようやく彼が隙を見せてくれたような、そんな喜びがある。

「・・・もう少し、子供の事を考えてあげて下さい。お母さんでしょう?」

「か、考えてるわよ」

「例えば?」

 考えて、ない。レイラは心の中で反省する。子供は確かに自分の腹で息づいているというのに、話しかける事もしてこなかった。この子は、ソウの子なのに。彼は、この子のためにここにいるというのに。レイラが果たすべきは、この子供を無事に、元気に生み落す事だ。それでしか、ソウへの償いは出来ない。

「栄養のあるものを、・・・ソウが作ってくれるから、それを食べてる」

「へえ」

「好き嫌い言わずに食べてるでしょ!」

 我ながら、驚くほど子供じみた事を言っている。それは分かっているのだが、ソウがレイラより大人びて見えるので、つい対抗したくなる。完全に負けているが。

「それはそれは、偉いですね」

 子供扱いされた。レイラは襲いかかりたいのを必死で堪えて、問う。

「急にそんな、どうすればいいのか分からないわ」

「ですから、親になるという覚悟をする前に、そもそも子供など作るべきではなかったのですよ。いいですか、レイラ。貴女は自身の欲求に誠に忠実です。別に悪いとは言いませんが、抱きつく隙を窺う暇があるなら、子供が生まれた後の事をもう少し考えてみたらいかがかと私などは思います。子供が産まれたら、服がいるのですよ?事前に用意していなくて、貴女は直ぐに着せるものを準備出来るほど裁縫技術に秀でているのですか?今までずっと黙っていましたけど、ついでに言わせて貰いますよレイラ。好いてくれるのはとても有り難い事なのでしょうが、貴女は私との時間の事しか考えていない。私は今日まで一度も、貴女から子供の話をされた記憶がありませんよレイラ。私は貴女と手を繋ぐ為に来たのでも、抱きつかれる為に来たのでも、口付けをされる為に来たのでもない。私は生まれた後の子供の事を話し合う為に来たのです。無事に生まれるように、それまで貴女を支える為に来たのです。生まれた後に手助けが出来ないからこそ、捨てていく子供であるからこそ、父親が生まれて来るまでの自分の為にこれだけの事をしてくれたのだとせめて子供に残るようにと思って、ここにいるんです。・・・何度も言いますが、貴女は初手からして完全に間違えました。しでかしてしまった事もそうですが、そもそも子供に対する認識が甘すぎる。私を繋ぎ止める為くらいの気持ちでいませんか?貴女にとって、私との時間よりも子供と過ごす時間の方が遥かに長いと分かっていますか?急にどうすれば良いか分からない、などと本来妊娠してから言う台詞ではない」

 ぴしゃりと言ってから、ソウは言葉もないレイラに頭を掻きながら続けた。

「・・・貴女はこれから、心を入れ替えさえしてくれたらいいんです。過去には戻れないのですから、これから改めていきましょう。慌てなくてもいいですから、少しだけ、子供の事を考える時間を作るところから始めましょう。貴女の頭の中には、私しかいないようですから」

 自意識過剰だ、と言ってやりたかったが、言葉にならなかった。叱られて言葉も出ないレイラを慮ってか、言いたい事を言い切ったからか、ソウはそこでようやく小さく笑った。

「分かって頂けました?」

「・・・貴方の事しか考えてない、訳では」

「ほう。他に何を考えているのですか?是非お伺いしたいのですが」

「じっ、」

 自意識過剰な男だと今度こそ声になりかけて、レイラは言葉を飲み込む。悪戯っぽく笑うソウに目を奪われてしまっている自分に、自意識過剰だというわけでもなく、それは残念ながら真実であると言わざるを得ない事を認める。

「じ?」

「じ・・・。なんでもないわよ!そりゃあそうでしょ。襲いかかってまで欲した男なんだから、寝ても覚めても貴方の事しか考えてないわよ!」

「開き直られても困るのですが」

 そう言ってくすくすと笑うソウは、いつにも増して愛らしい。

「貴女のした事は一生許さないでしょう。でもね、レイラ。心の底から自分を愛してくれる人は、嫌いきれないものですよ」

 言われて、レイラは目を丸くする。

「え?」

 レイラは立ち上がる。ふらり、と一歩、ソウに近寄った。

「ほ、本当に?」

「断じて、好きになったとは言ってませんよ。ただ、貴女は勘違いしているようですから。私は、貴女が嫌いではありませんよ、レイラ。良くも悪くも貴女は正直過ぎる。美点なのでしょうが、やはり貴女はあまりにも勝手です。嫌いになる前に改めて頂けたらと思い些か言葉が過ぎましたけど、ちゃんと分かって頂けましたか?」

 倒れこむようにして、床にへたり込む。そのまま、椅子に腰掛けるソウの膝に頭を預け、その腰に手を回した。折れそうなほどに、細い。

 嫌われていない。それがどんなに凄い事か、レイラは身を震わせる。レイラの気持ちは、それだけはちゃんと通じていたのだ。思わず溢れた涙を隠すために、レイラはソウから見えないように、顔を自分の腕の中に収めた。

「私は、貴女のものになってあげる事はできないし、ここに残る事はない。しかし、これだけは約束しますよ。その子だけは無事に生まれるように、残された期間、全力を尽くして守ると」

「・・・それで十分よ」

 十分だ。本当に。

 レイラの我儘で、望まぬ子供を突きつけられたというのに彼は、その子を愛してくれるという。こんな幸せが、あるだろうか。

 レイラは顔を上げる。真上に見えるその端正な顔に、そっと顔を近づける。あわよくば唇を奪ってやろうと思ったのだが、さっとソウが手でレイラの口を塞いだ。

「・・・何をする気です?」

 流れで。と言ってはみたが、口を塞がれていたのでうまく言葉にならなかった。

 その手に、唇を押し当てると、ソウはびっくりしたように手を引いて仰け反り、椅子から転げ落ちそうになるのを、すんでのところで持ち直した。

「な、なにを」

「感謝の口づけを」

「いりません!貴女、話を聞いていたんですか!?」

「・・・この際だから聞いておきたいんだけど。ソウって、女に興味はあるわよね?」

「ありません」

「ないの!?」

 なんという事だ。まさかの、興味がない。それではどれだけ迫っても無駄というものだ。

 卒倒しかかっているレイラから逃げ、少し離れたところからソウは言う。

「女体に、という意味ならなくはないですけど。しかし、目下女性は懲り懲りというか、関わり合いになりたくないというか。主に貴女のせいで」

「あ、女の体には興味ありよね!?そうよね!?あぁ、びっくりした。他の女も寄り付かせないなら、それはそれで大いに結構だわ」

 レイラは、とりあえず胸を撫で下ろす。

「そうなると、あたしで食指が動かないというのは、なんとも癪だけど」

「妊婦相手に、そんな気になるわけないでしょう」

 ソウはレイラを警戒しながら、並べた葉に手をかける。そろそろ料理に取り掛かりたいのだろうが、レイラとしては、口づけの一つでもしないと、この昂ぶる気持ちは抑えられない。

 じりじりと間合いを詰めるレイラを見て、ソウが身を縮めて睨む。

「それ以上近寄ると、嫌いになるかもしれませんよ」

「それを言う!?狡いわ!」

「なんとでも言ってください。惚れた方が負けると、相場は決まっているんです」

「くっ」

 悔しいが、誠にその通りだ。

 レイラは葛藤の末に、やはり負けた。嫌いになると言って嫌いになる事などないだろうが、万に一つの可能性すら怖い。それが惚れた弱みだ。

「レイラ」

「な、なに」

 ソウは手を動かしながら、真顔になる。

「私は育ててあげられませんから。貴女が、愛してあげて下さい。ちゃんと、育てて下さいね?」

 ずきん、と胸が痛くなる。

 育ててあげられない。そう言ってしまえれば、どれだけ楽かとも思う。ソウの言う通り、レイラは子供が生まれた後の事を、確かに何も考えていない。生まれた子供にしてあげられる事はないと思っていたし、死んだ後の事よりも今、生きている残された時間をどれだけ幸せに生きるか、それだけを考えるのに必死だった。生まれた子供の一生は、長く長く続いていくというのに、死ぬ定めだからとぞんざいに放り出そうとしているレイラは確かに、母親としては失格だろう。育てられないなら尚更、死んだ後の事をきちんと考えておくのが、レイラの仕事だ。

 レイラが死んだ後にも世界は通常運転で回り続ける。そこに我が子が残される事を全く考えなかったレイラは確かに、考えを改めなければならない。生まれて直ぐに子供を包むべき服。それを事前に準備しておく事は、生きている間に出来るのだと身をつまされる思いだ。

 ソウには、この責任感の強い少年には、レイラが死ぬ事はやはり言えない。我が子のために、主人との板挟みに更に苦しむことになるのだろう。

 あたしも、育ててあげられないの。

 そう胸の中で呟いてみると、きゅっ、と腹が痛んだ。子が、泣いているのかと思った。

「考えて、みるわね、ソウ。あたしもちゃんと、考えてみるから、手伝ってくれる?」

 おずおずとレイラが言うと、ソウはキッチンに向かいながら顔だけで振り返った。ええ、と穏やかに笑った少年は、葉をすり潰し始めながら言う。

「ところでレイラ。私は本当に、妊婦や出産については素人なのですが、六ヶ月程で、生まれるんですよね?産婆さんには頼んであるのですか?」

 ああ、とレイラは応じる。こんな少年が、知る必要のなかった知識だろう。ソウにも知らないことがあるのだと、少しほっとする。

「そうね。殆どの子供は、コトに及んでから半年程で生まれてくる。種族毎に産婆は大抵いるものだけど、少数種族はその限りではないし、他種族婚に関しては、更にその限りではないわ。産婆はあくまでも、同種族の間に生まれる子供を取り上げるものだから。他種族の間に出来る子供は生まれにくい、というのは知っているわよね?あれは、まず受精がしにくい。更に、腹の中で育ちにくい。更に更に、生まれてきにくい。まぁ要するにかなり確率が下がる。これには、他種族間にできる子供に対応できる産婆が少ないことにも理由がある、と言われるわ。母親が腹の中で育てるのはあくまで、子供の“殻”だけよ。そこに魂がうまく交わって初めて生まれてくる。その“結び”が、難しいらしい。あたしもそのへんのことは、よく分からないけど」

「“魂”、“殻”、その“結び”ですか。産婆に魂族が多いというのは聞いたことがありますが、そう言った理由なのでしょうね」

「そうね。だから今、あたしは殻を腹の中で育てている状態よ。うまく魂と結びついて出て来なければ、死産ということになる。まあ、伽羅では滅多にないことだけれど。その全てが、体内でうまく対処されるが故に虐げられてきた、それが伽羅だからね。産婆は、この村にいる者に頼むつもりよ」

「そうなのですか。六ヶ月というと、どのくらいの大きさで生まれてくるのです?」

「両手に全身が乗るくらい、かしらね」

「そんなに小さいのですか」

 ソウは目を丸くしながら、楽しみだな、と笑った。そしてレイラにも問いかけるように、再度言う。

「楽しみですよね、レイラ」

 ソウの子だ。今までお腹を強く意識した事などないが、レイラの体内には確かに、愛するソウの子供が生まれて来る日を待っている。それはとても、愛おしいもののように思えた。

「楽しみになってきたわ」

 正直に言うと、ソウは優しく微笑んだ。

 なにがなんでも、彼に子供を抱かせてあげたいと、そう思った。

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