第5話

氷国は、その名の通り氷に覆われている。

 寒い訳ではない。本来は水が気温によって凝固される氷は、雷国では殆ど目にすることがない。気温というものは、地熱による影響を受けるものであり、地域によって様々である。雷国では、水が凝固に至る程寒い地域はあまりなく、ソウはまず氷というものを見るのが初めてであった。

 氷国を覆う氷は、王の力によって出来た氷である。寒いから固まった訳ではない。

 伽羅の居住区と、氷国はそれぞれ分厚い氷で覆われ、外敵の侵入を拒んでいる。外側から見ると、蜃気楼のように中の風景は揺らめき、きらきらと光って幻想的だ。

 ソウは興味深そうに氷を拳で叩いてみたり、角度を変えて見てみたり、ひとしきり氷の壁を堪能していた。

 その様子を眺めながら、レイラは可笑しくなる。何かに熱中している姿は、やはり子供だ。

「レイラ、これは本当に水なのですか?」

 まだ信じられないのか、ソウがこちらを振り返る。氷と同じくらい、彼の目が輝いて見えた。

「あたしもよくは分からないけど、そうらしいわよ。水が固まると氷になって、なんだっけ、なんかもう一つ違う形態があるらしいわよ」

「それは、どういうものなのです?」

「さあ。目には見えなくて、その辺どこにでもあるらしいわ」

「目には見えない?それを、氷国王様は扱う事が出来るのですか?」

 そうらしい、としかレイラには答えられない。そんな細かいことまでは、聞いたかも知れないが忘れた。

 氷国に入るのは、至って簡単である。氷国王の許可があれば、氷の一角がさっと溶けて入り口になる。門番はいるが、彼は氷国王への入国申請をするだけが仕事であり、せっかく訪ねてきても、王がいなければ絶対に国に入ることは叶わない。氷が、溶けないからである。

 レイラは予め約束を取り付けてあったので、門番に告げると直ぐに申請を行ってくれた。門番が申請者の氏名を記した板を、担当の者に渡す。この担当者というのは、伽羅の男に与えられた仕事で、伽羅の男は獣に転位する事が出来るため、その力で、空を飛んで氷国王の部屋まで直接板を届け、直ぐに申請が受理される仕組みになっている。

 この仕事は、レイラが自ら氷国王に願い出て得た仕事である。伽羅の男をローテーションでこの仕事に就かせ、見返りに当初三割であった売り上げの納金を、二割にしてもらった。そもそも氷国王はお金に執着がなく、あっさりと受け入れられた。便利だから、とその一言で片付いた。

 その日の当番は、ケイの一人目の子供の父親であった。彼は直ぐに城へと向かって飛んでいき、少ししてから氷がどろり、と溶けて消えた。その様にソウは甚く感激し、しばらく入り口で溶けてなくなった氷の断面を眺めていた。

 氷国は小さい。

 中に入ると、直ぐに城が見える。城下町は、他の国でいうところの中家ほどのサイズしかなく、半分が家で半分が農地である。他国との国交がなく、すべて自給自足で生活は成り立っている。あるのは城下町だけで、家主と呼ばれる存在はない。大家も中家も小家もそれ自体が存在せず、国の全てが王都預かりであった。

 それゆえ御家同士の諍いや、権力争いといったものには無縁で、王ただ一人を信じて暮らす平和がそこにはあった。

 狩猟区にあって獣に襲われる心配はなく、他国からの侵略に怯えることもない。穏やかな気候に作物の不作を嘆くことも、水不足に悩むこともない。理想郷は、質素ではあるが人々の弾ける笑顔が眩しい、そんな平和に満ち満ちていた。

 ソウは、国のあまりの小ささに驚いたようではあるが、感心したように街を眺めていた。その表情がとても穏やかで、彼の住まう国も、こうであれば良いのにと思う。

「レイラ」

 不意に背後から声をかけられて、レイラは振り返りもせずに平伏する。ソウは声の主の顔を確認する前に、レイラに倣って平伏した。突然の事にも冷静に対処するソウは、やはり官吏なのだろうと漠然と思う。

「その子が、貴女の見初めた子?」

「はい」

「いいわよ、固くならずに顔を上げて」

 レイラが顔を上げたのを見て、ソウがそれに倣う。

 そこにいたのは、レイラと同じ獣族の、氷国副官であった。二十そこそこの姿をした、溌剌とした美しい鍛え上げられた体をした女性で、その名を雛姫という。

「そちらがレイラの見初めた少年?」

「ソウ、と申します」

 ソウはしれっとレイラの付けたあだ名を名乗った。中々に図太い性格をしている。

「この国を見て回りたいそうね。どうぞ、ご自由に。でも、レイラと別行動をしない事が条件よ」

「承知しております。見学の機会を賜り、感謝しております」

「あいつは雷国に遊びに行くのですって。ソウは何ヶ月かここにいるのでしょ?そのうち会えるかもしれないわね。その時はよろしく」

 よろしくと言われても返事に困るところだが、ソウはにっこりと微笑んでうまく返す。

「その時は、是非勉強させていただきます」

「あいつからモノを学ばない方がいいけどねぇ。しかし、確かに可愛いボウヤだね、レイラ」

 くっ、と指先でソウの顎を引き上げる雛姫を見て、レイラは慌てる。

「あげませんよ、雛姫様!」

「あはっ、レイラの男をとる気はないってば。中々、面白い相をしているなと思って」

「相、ですか?」

「貴方、女運なさそうねぇ。こう言っちゃレイラは怒るかも知れないけど、頑張って頑張って、報われる事なく命を落とす感じ。気をつけて」

「はぁ。頑張った末に主人を守れるのなら、それで本望ですが」

「あー、そういう感じね、あなた」

 雛姫は苦く笑って、ぽん、とソウの頭を軽く撫でた。

「それもいいけど、幸せを探すにこしたことないよ。じゃ、城以外ならどこでも見て回っていいから」

「はい、有難うございます」

 レイラとソウが頭を下げると、雛姫はさっさと行ってしまった。

 完全に彼女が立ち去ったのを確認してから立ち上がったソウは、振り返って遠目に彼女の背中を見つめる。やけに熱心に後ろ姿を見つめているので、女性として好みのタイプだったのだろうかとひやりと冷たいものが背中に走った。

「な、なによ。そんなにじっと見つめて」

 そんなに一心に、レイラを見つめた事などないくせに。

 ばくばくと心臓が高鳴るレイラは、なんとか拳を握りしめる事で爆発しそうになる気持ちを遣り込めようとする。

「いえ、あの方」

 じっと尚も見つめるソウの視線には、確かに熱のようなものを感じる。

 どうしよう、息が出来ない。

「・・・あの人が、なに」

 泣き出しそうになりながら呟くレイラに、ソウはほう、と感嘆の溜息を漏らしながら言う。

「なんて動きに無駄のない。相当の手練れとお見受け致しますが、どなただったんです?」

「・・・動き」

 レイラは感心したように言ったソウを見遣り、へなへなとへたり込む。腰が抜けた。

「えっ。な、なんです?」

 ソウがぎょっとしたように、ようやくレイラに目を向けた。座り込んだレイラを見る目は、とても怪訝そうだ。熱視線とは相異なるものだったが、彼女を見ていた理由が分かった安堵の方が遥かに大きい。

「・・・いや、腰が、抜けて」

「なぜ急に」

 ソウはやはり不可解そうに言って、溜息混じりにしゃがみ込み、膝を抱えるようにして視線を合わせ、レイラを覗き込む。悪魔か。

「で、あれはどなただったんです?」

「あたしの前で他の女に興味示してんじゃないわよ」

 ぼそりと言って睨むと、ソウは吹き出すように笑った。現金なことに、途端にぱっと心が満ちてくる。

「あはは、なんですかそれ。質問に答えて頂けないと、何度でも尋ねる羽目になりますが?」

 それはそれで困る。笑顔につられて機嫌を直したレイラは、覗き込んでくる目を見ながらしどろもどろに応じる。笑ってくれたら笑ってくれたで、心臓がうるさいのだから困ったものだ。

「あれは、氷国の副官様よ」

 言った途端、ぴたとソウは笑顔を引っ込めて目を丸くする。

「・・・は?」

 珍しく間抜けな声が漏れた。おかしくなって、レイラはふっと笑う。

「あはっ、副官様よ、副官様。この国で、王の次に偉い人」

「う、嘘でしょう」

 ソウは驚きすぎて言葉もないのか、慌てて今一度振り返る。残念ながら、既に雛姫の姿はどこにも見当たらなかった。

「副官様が、こんな市井をあんな風に歩いてらっしゃるのですか!?」

「この国は、王からしてそうだからね。城の中にじっとしているのが苦手なのよ、お二人共。政務は基本的に、大官長様が指揮を。あたしは大官長様にはお会いしたことがないのよね、お忙しい方だから」

 ソウは言葉もなく、名残惜しそうに彼女が去っていった方を一頻り見つめ、呟く。

「そうでしたか。もっとお話しをさせて頂けば良かった」

「追いかける?」

「いえ、滅相もない。お会いできただけで光栄です。氷国の副官様、それはそれは私などでは見惚れる程お強い訳です。納得致しました」

「獣族の族長でいらっしゃるからね。紅国の竜族長と肩を並べる強さだと聞くけど」

「そうですか、紅国王様と。市井を歩かれるお姿もやはり違うものですね」

 感心しきりのソウを見つめ、レイラは雛姫の言葉を思い出す。

 彼はいずれ、主人のために死ぬのだろうか。先に死ぬレイラには関係のないことのはずが、ソウがいなくなることを考えただけで身の毛がよだつ。

 彼はレイラが死んだ後、どう生きて行くのだろう。それを知る術がない事が、残念でならない。

 雛姫は、女運がなさそうだと笑っていたが、それを認めるのは憚られた。自分もそこに含まれてしまうのが、嫌で。

「あ」

 レイラの視界に、人影が通る。レイラは空高い所を指差して、ソウに言う。

「氷国王様よ、ソウ」

 ソウが見上げた先には、宙をはしゃぐように軽やかに駆けていく子供の姿がある。遠くて顔まではよく分からないが、首元のスカーフを靡かせながら、何かを飛び越えるように、跳ねるように遠ざかっていく。空に透けるような髪だけが、きらきらと見る角度によって色を変えて見せた。

「あれが?氷国王は、飛べるんですか?」

 ぽかん、と口を開けてその姿を目で追う姿が、子供らしい。レイラも初めて見たときは、こんな顔をしていたのかもしれない。

「足場を自分で作って、その上を走ってらっしゃるのですって。よく分からないけど」

「なるほど。それはこの、氷の壁を作るのと同じ事なのかもしれませんね。そこら中にある目に見えない水とやらを、氷の足場にするのでしょう。想像以上に凄い」

「はあ・・・?ソウってば、賢いのね」

「いえ、想像ですけど」

 ソウはきらきらと瞳を輝かせながら、瞬く間に見えなくなっていく氷王の残像を眺めている。氷王と話す機会も与えてあげたいが、こればかりはどうにもならない。彼は、城の中にじっとしている事の方が少ない。

「あいつは雷国に行くとかなんとか、仰っていましたね、副官様」

「ええ、そうね」

「・・・まさか、あいつ、とは。氷国王の事だったのでしょうか」

「そうじゃない?ほら、雷国の方に向かってらっしゃるし」

 空を遊ぶように、跳ねるように走っていく氷国王の影を指差すレイラの言葉に、ソウは少しだけ青くなる。

「勉強させて頂く、などと言ってしまいました」

「適当な返事をするからよ」

 レイラが笑うと、ソウは拗ねたような苦い顔でレイラを睨む。

「仕方がないでしょう。誰かさんが紹介してくださらないから」

「自分で尋ねれば良かったじゃないの」

「レイラが直ぐに平伏するような人です。位の高い方だろうくらいの事は想像つきますよ。そんな方に、初対面でこちらから質問など出来ません」

 なるほど、とレイラは感心する。やはりこの少年、ただの十四歳だとは思わない方が良いらしい。普通はレイラが平伏したからと言って、相手が誰かも分からず直ぐに自分も平伏などしない。

 ソウは、今一度空を見上げ、きらきらとした光を放ちながら彼方に消えていく影を長く見つめていた。そしてほっと幸せそうに息を吐き、レイラに向き直る。

「素晴らしいです。有難うございます、レイラ」

 不意に向けられた笑顔が、感謝の言葉が、レイラの心臓を鷲掴みにする。

 有難うという言葉がこれ程までに幸せな気持ちになれるとは、思ってもみなかった。あまりの破壊力に、涙が出る。

「どうかしましたか、レイラ?」

 驚いたように顔を覗き込む少年が、愛おしくてたまらない。初めて、感謝された。その屈託のない笑顔が、初めて感謝でもってレイラだけに向けられた。こんなに嬉しいことが、あるだろうか。

「来て、良かったでしょ?」

 レイラが問うと、ソウは嬉しそうにまた笑った。

「ええ。少しだけ、貴女に会えて良かったと、初めて思いました」

 ノックアウト。

 もう心臓がもたない、などと考えていたら、意識が朦朧としてきた。鼻血が出そうだ、と思ったのも束の間、レイラは本当に倒れた。脳みそが沸騰してしまったのか、それから実に丸三日、熱を出してレイラは寝込んだ。



 レイラは卒倒して、そのまま氷国の民家に運び込まれたらしく、目を開けると見慣れない天井が見返してきた。

 そっと辺りを窺うと、壁にもたれて片足を立て、その足に肘を乗せて外を眺めるソウの姿がある。楽にしていてもかっこいい、などと寝起き一番で思ってしまうレイラは、ぼんやりとした頭がまた熱を帯びてくるのを感じる。

 氷国には、宿というものがない。他国から人が訪ねてくることがなく、あったとしても来賓として直接城に通される場合が殆どである。旅人が迷い込むことはない。ただの旅人が瑪瑙地区に迷い込んで無事であるはずもなければ、氷国王の許可なくして開かない門戸を越えられるはずもないからだ。

 宿であれば、ソウもそれなりに自由に動き回れるのだろうが、他人の家となると、そう迂闊に物にも触れない。どのくらいこうしていたのか、レイラは申し訳なさでいっぱいになる。

「ソウ」

「ああ、気が付きましたか。大丈夫ですか?急に熱だなんて、妊婦さんというのは、そういうものなのですか?それとも、伽羅特有の何か?」

 どちらも違う。貴方がかっこよすぎて熱が出た、とは流石に言えない。

「あたし、どのくらいこうしていたの?」

「三日です」

「・・・三日!?嘘でしょ!?」

 ソウは真顔で、窓の外に目を遣る。

「あそこで畑仕事をする方の真似なら、もう出来ると思いますけど」

 見飽きたと言わんばかりに言われて、レイラは肩を竦める。

「わ、悪かったわ」

 妙に頭がすっきりしている。熱ももう引いたようだが、体は逆に訛っているようではある。変な疲労感がある。

「仕方がないですから、お気になさらず。それで、もう熱はないんですか?」

「と思うわ」

 レイラは、改めて部屋を見渡す。ここは一体、誰の家なのだろう。レイラとソウが横になるのがやっとといった狭さで、物も何もない。倒れた場所からほど近い誰かの家なのだろうが、家の持ち主の姿はない。

 狭い。レイラは、はっと閃く。

「え?もしかして、ソウは三日間、ここに?」

「他にどこに行くんです?」

「え?え?もしや、ここで寝てたの?」

「そうですが」

 意味が分からない、とばかりに怪訝そうな顔をするソウに、レイラはにじり寄る。

 レイラの同伴が条件であったというのにそのレイラが倒れ、ソウはこの三日間、外に出る事も出来ず、伽羅に戻る事も出来ず、ただじっと、この窓から外を眺めていた筈だ。誠に申し訳ないが、それよりも。

「嘘でしょ!まさかまさか、隣で一緒に寝てたの!?」

「他にどこで?」

 レイラはがっくりと、床に手をついて項垂れる。この狭さだと、おそらくかなり近くにソウは寝ていた事になる。その寝顔を見る機会を、その体温を感じる機会を、寝こけて失うとはなんと情けない。あまりに無念で、立ち上がれる気がしない。

「・・・大丈夫ですか?立ちくらみでも?」

 レイラの邪な気持ちなど知る由もないソウは、心配そうにレイラの顔色を伺う。

「ええ、ある意味そうね・・・立ち直れないわ」

「もう一日休ませてもらいますか?ここはあの農家の方のお宅で、一人暮らしだそうなので、長居しては申し訳ないですけど」

 ここに三人は寝られない。彼は、どこで寝ていたのだろうとぼんやりと思ったが、そんなことよりも、ソウとの添い寝を逃したショックが大きすぎて頭が回らない。

「ご友人のお宅にわざわざ泊まりに行って、家を空けて下さったんですよ。なにか御礼をしないと」

「ええ、そうね」

 返事はするが、頭の中では逃した魚を数えるのに必死だ。手を繋いでみたり、寝ている頬に口付けをしてみたり、そんなし損ねた諸々に想いを馳せるだけで、気が遠くなる。数える度に虚しくなる。

「なにか料理のご馳走でも。レイラは、料理はできるのですか?」

「ええ、そうね」

「それは意外です。なにを?」

「ええ、そうね」

「・・・聞いてませんね、レイラ」

「ええ、そうね」

 あとはあんなことや、こんなことや。三日の添い寝に勝る褒美などあるだろうか。逃した魚はあまりにも大きく、レイラは立つことを知らない赤ん坊のように、ただへたり込んだまま、床を眺めていた。

「レイラ!」

「えっ?な、なななに!?」

 邪な心を読まれたのかと、レイラは青くなって我に返る。呆れた顔でこちらを見遣る、ソウと視線が絡む。

「本当に大丈夫ですか?御礼は私がしますから、もう少し横になっていて下さい」

 御礼、とはなんの話だろう。レイラは邪念を振り払って、ソウににじり寄る。済んだことを悔いている場合ではない。目の前にいるソウに、触れればいいだけだ。

 その手に触れかけて、レイラは戸惑う。ただ、手に触れるだけだというのに、左手が動かない。あと僅かに動かせば、指先が触れるというのに、これ以上進めない。

 レイラは動揺する。一度は襲いかかった男だというのに、ただ、手に触れることに恐怖を覚えている自分が信じられない。

 視線を上げると、じっとレイラを見るソウと目が合う。その顔が、レイラを嫌だと拒絶することが、この上もなく怖い。好きではないと言われた。嫌われていることだって、分かっている。そんな事、構いもしなかった。彼の気持ちがこちらに向いていなかろうと、触れて、抱きしめて、こちらの愛をただぶつけるだけだ。そう数日前までは思っていた筈なのに、今更明らかなる拒絶の表情を見ることが、これほどまでに恐ろしい。

「ソウ、触れても、いい?」

 レイラは問う。触れたい。その手に、髪に、顔に。その頼りない肩に向かって、力一杯飛びついていきたい。だが、酷く恐ろしい。

 ソウはぼんやりとした顔で、手元に目を遣る。以上進めないでいるレイラの手を見て、小さく笑う。

「よく分からない人ですね。急に人が変わったようですよ」

 ソウの手が、レイラの左手に重なる。胸が、赤児がいるはずの腹がずくん、と疼いた。ぐっと胸が狭くなって、きりきりと痛む。

「そんな泣きそうな顔しないで下さい。貴女らしくなくて、張り合いがない。もう襲われないのなら、手くらい握ってあげますよ、レイラ」

 ソウは、ふわりと優しく笑う。彼はいつもいつも、ちゃんとレイラの名を呼んでくれる。それが擽ったくもあり、嬉しくもある。たったそれだけの事で、レイラの心が弾むことを、彼は知っているのだろうか。

「言ったわね。絶対よ、絶対に嫌だなんて言わないで」

「そんな事を気にしてくれるようになったんですね。何か心境の変化でも?」

 ソウはしみじみと、そんな事を言う。

「貴方にこれ以上嫌われるのが、怖いのよ」

「あんな事をしておいて?」

「あの時より格段に、好きになっているということよ。案外鈍いわね」

 レイラとて、こんな気持ちは初めて知ったのだが。そこは年長者として少しばかりの見栄を張らせて貰う。

「・・・よくもまぁ、恥ずかしげもなく、そんな事が言えますよね」

 ソウが怪訝そうな顔をするが、その頬が心なしか、少し赤いような気がする。

「好きなものに好きと言うのに、恥ずかしいことなんてないでしょ」

 レイラは直に、そんな当たり前のことが出来なくなる。その前に、この溢れんばかりの気持ちを伝えてしまいたい。

 この少年は、まだ成長過程にある。肉体年齢が止まっているわけではない。そうすると、彼は今後ますます男らしくなって、女など山のように寄ってくるいい男になる。少年から青年になって、ますます磨きがかかったその艶やかさに、何人の女が狙いをつけるのだろう。レイラの、決して手の届かないところで、彼は誰を選ぶのだろう。

 そっと握った手は瑞々しく、骨ばってはいるが、包み込むような大きな男の手ではない。この手も、もっと大きくなって、力強くなって、誰かの手を引いていくのだ。

 そしてその時に、レイラはこの世にいない。

 急にすっ、と背筋が寒くなる。

 ソウが来たばかりで、これ程までに想いが募っているというのに、彼とはまだ、何ヶ月も一緒にいられる。その間に日に日に膨らむこの気持ちは、決して受け入れて貰えず、どこへいくのだろう。そうして三ヶ月が経ち、四ヶ月が経ち、いずれソウがいなくなる日、レイラの心臓はどうなってしまうのだろう。別れの日、それは永遠の別れの日。もう二度と、レイラはソウに会う事はない。

 ソウと会えなくなる恐怖、呆れるほど膨らむ気持ちのやり場もなく、また会えるという希望もない。レイラが死んだ後、どんな女がソウに迫ろうとも、戦って奪うことも出来ない。レイラは、忘れられるのだ。ソウの中から自分が消えてしまう、これ程までに恐ろしいこともない。

 どうやっても、この少年を失う。自分が死ぬ事は、この命を失う事ではなく、ソウを失う事だ。

「レイラ?」

 今はまだ、ソウが目の前にいる。真っ直ぐに、レイラを見てくれる。名を呼んでくれる。

 それも、あと僅か。

「大丈夫ですか?顔色が悪い」

 レイラは、ソウの手を握って自分の頬に押し当てる。その手は小刻みに震えていたが、ソウはまだ体調が優れないせいだと思ったのか、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「どうか、分かって。一目惚れだと笑ってくれていい。ただ、本当なのよ。この気持ちだけは、本当なの」

 ソウは、たっぷり間をおいて、小さく、はい、と答えた。

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