第4話

昔から、味の濃いものは食べられなかった。

素材本来の味じゃないと、私の芯であるキツネの身体は受け入れてくれない。

だからお弁当はいつも、蒸し野菜と蒸し鶏。味付けはしない。おやつは、コンビニの野菜スティックだった。もちろんマヨは捨てた。

今はコンビニには近づけないから、おやつはなし。それから、サプリだけに頼る生活になった。

「いつもシンプルだよな。香水の弁当」

「柊木くんは鉄分豊富そうだね」

やっぱり生き方が違うと食べるものも違うから、私たちは隠れてお昼を食べていた。場所はもちろんあの空き教室。

この前までは、一人でこっそり。でも柊木くんと恋人のふりを始めてから、はじめて学校で誰かと共に食事をした。

「私、柊木くんとの共通点、見つけたの」

柊木くんとともに行動することになってから、ヴァンパイアが苦手とするものをもう一度調べなおして気付いた。

「え、なに?」

こちらを見る表情が、ワクワクしているように見える。興味を持ってくれていることが、嬉しくて少しくすぐったい。

「柊木くんも私も、ニンニクが嫌いってこと」

何か反応があると思っていたけど、ただ黙って、こちらを見ずに嬉しそうに微笑んでいた。

初めて、男の人を綺麗だと、かっこいいと思った。

この人と毎日手を繋いで歩いているのかと思うと、息が苦しくなるほどドキドキと、悪巧みがバレたときみたいな動悸がした。それなのに全く嫌じゃないなんて、私、きっとどうかしてる。

「おそろいだな」

「そうだね」

いつもは目の前にいるなら沈黙を埋めないとしんどいのに、柊木くんだったらこの沈黙さえも苦じゃない。むしろ穏やかで心地良い。

「よく笑うようになったな」

ふと目が合ったとき、優しい視線が私を捉えた。緩やかに下げられた目じりが、隠さず牙を軽く覗かせて微笑む気を許されているこの状況が、私の心の固く閉めたはずの扉を開かせた。

「それは、柊木くんが彼氏だからだよ」

柊木くんの前だから、という意味じゃなくて、私の恐怖心を守る盾ができた気分ということ。『彼氏』という存在の盾は、彼氏持ちという雰囲気を醸し出すだけでも充分効果があるように感じた。

「この関係、役に立ってるみたいでよかった」

「柊木くんは?ちゃんと私、役に立ってる?」

もらってばかりは嫌だから。あげすぎるくらいがきっと釣り合うにはちょうどいいのに、私はいつも、何もしてあげられない。

「うん。隣にいてくれるだけで、もらいすぎなくらい色々なパワーとかもらってる」

よかった。役に立てているみたいで。

その安心は、私の残り少ない時間を有意義な時間に変えた。たった数日で、柊木くんの存在は私の人生の道を優しい街路灯のように照らしていることに気付いた。

午後の授業を受けるとき、前の席の背中がこちらを向かないかとつい見つめてしまっている。

目が合うと嬉しくて、でも見られていることがなんだか照れくさくて。自分でもわかるようなウブな反応をしてしまう。

自分が自分じゃないみたいな、つい頬が緩んでしまうし、つい触れたくなる。手を繋ぎ、指を絡めると安心する。

こんなの、おかしい。

だってまるで、まるで……。

そんなこと、絶対にないはずなのに。そうであってはいけないのに。

もしそうなら、それはこの関係を壊さないといけなくなるのに。

「香水」

「……あ、なに?」

まだ別れたくなくて、無理におやつタイムをしようと、近くのコンビニに寄ることを提案したのは私。それなのに、余計なことを考えているなんて、女避けのための彼女としてはやっぱり、ダメなところばかりだ。

「何食べる?サラダ?野菜スティック?」

私のことを心配する目を向けて、また商品棚の方へと目線を戻した。

「野菜スティック。あとゆで卵も食べたいな」

とりあえず、今はこの時間をより充実した成果になるように彼女役を遂行しよう。モヤモヤするのは、一人のときにもできるのだから。

「卵も好きなの?」

「うん。好き」

つい、口角が上がる。だって、嘘でも柊木くんが私のことを愛おしそうに見るのだから。

「柊木くんは?なに食べる?」

まだ私の物しか入っていないカゴを、彼は持ってくれている。なんというか、至れり尽くせりだなぁ、なんて。

「俺は、ホットスナックのレバーの串焼き。鉄分豊富なんだよね」

「おいしいの?」

「俺らは好きだけど、人間は好き嫌い分かれるっぽい」

「へぇ。あの、スプーンみたいな味がするの?」

私は絶対に口に入れられない。ただ焼いただけなら、一口ちょうだいって言えたのに。

そもそも普通の人間なら、こんなこと気にしなかったんだろうけど。でもそうしたら、こうして一緒に時間を過ごすこともなかったんだろうな。

「いや、普通に美味い。人間も好んで食べる人、いるくらいだし」

「そうなんだ」

私も食べてみたかった。来世は、レバーの串焼きが食べられる身体に生まれたい。

「袋はいかがいたしますか?」

「どうする?柊木くん」

「んー、一応?」

「じゃあ、お願いします」

自分でもわかるくらい、笑顔だった。柊木くんと話したあとだから、そのまま店員さんに笑いかけてしまった。

目が合って、ドクッと心臓が嫌な音を立てる。

「あ、お久しぶりですね」

あたかも、今気づきました、という演技。そうだってわかるのは、その言葉が棒読みだったから。台本を読んでいるような、そういうことにしておこうという、そんな抑揚のない声。

つい、ビクッと肩が震える。怖い、怖い。あのとき捕まれた腕が、ぶり返したように痛む。

もう、三年も前のことなのに。

「香水……?」

気付いたときにはもう、左隣に立っている柊木くんの腕を掴んでいた。ガッツリホールドするように、身体を寄せていた。

「ねぇ、隣のお友達は離れてくれないかな。今日は僕と話そうよ。久しぶりだし」

嫌だ。

そう言ったはずなのに、声が出ないまま唇だけが動いた。全力で首を横に振るけど、そんなの目の前の仕事放棄している店員さんは見て見ぬふり。

「あの、俺友達じゃなくて彼氏なんで」

それだけ言って、私を連れて立ち去ろうとしてくれた。それなのに、また。また、同じことをしてくるなんて。そんなの、思ってもいなかった。

レジからでてきた店員さんは、また、私の腕を掴んだ。違うところと言えば、前はニヤニヤしていたけど、今回は顔面蒼白というところ。ただ、怖いことには変わりない。

「ねぇ、彼氏って嘘だよね。君は僕のことが好きなんだろ?嫉妬させたくてこんな子連れてきたんだろ。わかってるんだからな。その証拠に、あのときみたいに笑いかけてくれていたじゃないか。遠距離恋愛、寂しかったんだけどなぁ」

ゾクゾクっと背筋が震える。わざと来なかったのは、どこかへ留学していたとでも思っていたのだろうか。

ブンブン腕を振っても離してくれないその手が気持ち悪くて、発言一つ一つが恐怖で、掴んでいる柊木くんの腕を握る力が強くなるのがわかった。

「彼氏だって言う証拠、見せたら理解してくれます?」

ヴァンパイア持ち前の力強さからか、私から店員さんを引き剥がして、背中でガードしながらそんなことを強めの口調で言い放った。偽物の恋人の私たちに、そんな証拠、どこにもないのに。

「あるならな。どうせないだろうけどな」

一歩も引く気がない様子に、柊木くんはむしゃくしゃしたように頭を掻いて私を真横に立たせた。目線はまっすぐ、柊木くんの方を向かされて。

何が始まるんだろう。

恐怖心はありつつも、どう証明するのかという不安が今は勝っていた。

そっと、私の左頬に柊木くんの手が添えられる。彼の顔を見上げると、申し訳なさと偽物のはずの愛が混ざったような、優しさで溢れた表情を浮かべていた。

「ごめん」

空気のような声でそう言うと、彼の右手が私の腰に回り、身体がグッと引き寄せられる。

もう、私の頭の中は柊木くんのことでいっぱいになっていた。

ふんわり香る柊木くんの匂いとか、私に触れる優しい手つきとか、つい手をついてしまった彼の胸の鼓動が緊張している私と、柊木くんの隣にいるときの私と同じくらい早いこととか。

ゆっくり近づいてきた顔がどこまでも綺麗で、つい瞬きをしてしまってもったいないなと思ったり。目を開けたらさっきよりも近くて、次の瞬間には唇が重なっていた。でも、驚きよりも幸せを感じてしまっていたり。

だってなんだか、普通の、人間同士の恋人になれたみたいだったから。

明らかにさっきよりも早い心臓は、もう恐怖よりも別のことに気を取られていた。

「最初に見られるのは、結婚するときって決めてたんですけどね。じゃあこれで、俺たちは失礼します」

そう、唇が離れた途端に堂々と照れくさくなるようなことを伝えて、私の手を引いた。

私にはもう、柊木くんはヴァンパイアではなく、白馬の王子様に見えた。

この気持ちは、もう、認めないことができないところまで来ていた。向き合うしかないと、あのキスで、認めざるを得なくなった。

私は、柊木朔玖くんが恋愛的な意味で好きになってしまった。きっと、つい気を抜いてしまったあの瞬間から、この未来が来ることは決まっていたのかもしれない。

トラウマレベルの恐怖心でさえも払拭してくれる、私が最後に一番遠くから愛す人。

気づいた途端失恋なんて、好きになってはいけない人を好きになったら誰でも当たり前のことなんだろうけど、こんなに胸が痛くなるものだったんだ。

この手を離さないといけないと思うと、泣いてしまいそうになるほど。感情がこんなにも揺さぶられたことなんて、生きてきて一度もなかったのに。これからも、なかったはずなのに。

「大丈夫か?ごめん、いくら誤魔化すためとはいえ、キスはやりすぎだった」

少し離れた公園で、私を座らせた柊木くんは私と目線を合わせてしゃがんだ。いつまで経っても離せない手を両手で包み込みながら、人間の血を吸う人とは思えないほど優しくて温かい目を向けられる。

「いいの。全然嫌じゃなかったから」

本当はこのままこの関係を続けていきたいけど、そうしたらもう、本当に許されない関係になってしまうから。

「ねぇ、私たちもう終わりにしよう。ただのクラスメイトに戻りたい」

私が責められるのはいいけど、私の気持ちに巻き込まれて柊木くんも同じように責められるのは、見ていられない。優しい彼は、きっと同じように被せられた罪も認める。もしかしたら、私のことを完全に庇うかもしれない。

「……やっぱり、嫌だったよな。ちょっと、彼氏だからって調子乗ってた」

「違う、そうじゃない。私が悪いの。柊木くんを裏切ったんだから」

許されない。キツネとヴァンパイアは、好き同士になってはいけない。恋をしてはいけない。そういう条件があるから、この関係が成り立っていた。

「それ、どういう意味?」

ポツ、ポツ。私の心を表すように、小さい雨粒が私の肌を濡らす。

「……好き」

どうせ叶わないなら。どうせ二十歳に死ぬのなら。どうせ嫌われるなら。

伝えたほうが、死に切れると思った。

「……え?」

「好きになっちゃったの。柊木くんのことが、どうしようもなく。私に向けられる優しさも笑顔も、愛おしそうな目も、全部全部偽物ってわかってるのに」

口から出る告白が、止まらなかった。

好きと認めたのはほんの少し前なのに、もう、振られるために想いを伝えている。そんな自分に驚いていた。

「さっきだって、最初はトラウマが蘇ってきて怖くて怖くて仕方なかったのに、目が合った途端柊木くんのことで頭がいっぱいになって、トラウマよりも幸せのが勝つくらい。それくらい、私はあなたのことが好きで好きでしょうがないの」

思いが声に変わる。一生縁のない事だと思っていた愛の告白が、ただまっすぐ相手に飛んでいく。恥ずかしいような、悲しいような。複雑な気持ちがブランコのようにグラグラと揺れている。

無意識のうちにセーブしていた想いは、想像の何倍も大きかったらしい。自分でもびっくりするほど、柊木くんに対する好きの気持ちが溢れて止まらない。

その証拠に、困惑している表情でさえも愛おしい。きっとどんな柊木くんでも受け止められる自信がある。どれだけボロボロでも、そばにいられる自信がある。例え彼が瀕死状態であっても。

「だから、もうこの関係はやめにしよう。明日から、ただのクラスメイトに戻ろう」

女避けの役割の相手が自分に好意を抱くなんて、迷惑極まりない。役立つどころか重荷だ。普通だったらそこで済むけど、私たちは特殊だから。もう、相手を地獄に落とすことしかできない。

「役に立てなくてごめん。でも、最初で最後の恋が柊木くんでよかったって、思ってるよ」

カバンに入っている折りたたみ傘をさして、押し付けるように握らせた。人生最大のありがとうを込めて。この雨に濡れるのは、私だけで十分だから。

「じゃあね」

最後は、顔も見れなかった。目が潤んでいるのがわかったから。逃げるように柊木くんの前から立ち去った。

利害は一致していたから、追いかけてくるはずない。そう思っていたのに、走れない私に安易に追いついて、腕を引かれ、私の身体は柊木くんの胸の中にすっぽり収まっていた。

今も尚降り続ける雨が、傘を手放した私たちを濡らしていく。

「離れていこうとしないで。俺のことが好きなら、残りの時間、ずっと俺の隣にいたらいい」

背中に回された手が、じわじわと力を増して一ミリの幅も許さないほど密着する。

「ダメだよ」

「なんで?」

なんでって、そんなの、わかってるくせに。

離すどころかむしろ腕の力を強めて、声はほとんどゼロ距離の耳元にダイレクトに届く。

ダメだって思ってるのに、ときめいてしまう自分が嫌になる。

「私たち、特別なルールの中で生きているんだよ。破ったら、私はともかく、柊木くんも巻き込むことになる。それだけは嫌なの」

鼻がツンと痛む。でもその痛みよりも恋の痛みの方が重くて、真似して背中に回せずに、されるがままの自分の腕が意思の弱さを物語っているようだった。

「嫌なら突き放せばいいだろ」

そんなの、わかってる。わかってるけど。

「……できるわけないじゃん。だって、無理やりにでも嫌だって思わせてるけど、本当は引き止めてくれたことが嬉しくて仕方ないんだから」

とうとう、目に溜め込んだ涙が雨粒と一緒に頬を流れた。嬉しさと苦しさとの両面からの痛みに耐えられなくなってしまった。

「ごめん。この偽物の恋人っていう関係でそこまで苦しめることになるなんて、思ってなかった。想定外だった」

そんなの、私もだよ。好きになるなんて、一ミリも思っていなかった。こんなに好きが溢れて苦しくなるなんて、想像すらしていなかったくらいだ。

「謝るのは私だよ。ルールを破ったんだから」

だからお願い。今からでも遅くないから、私のことを思いっきり突き放して。

「いや、全部俺のせい。綺麗に巻き込まれてくれて、むしろ感謝っていうか」

「……え?」

罪悪感が強くて、柊木くんの言い分が理解できない。まるで想定外の利益を得た、というような満足そうな声色をしていた。

「俺、香水がキツネってわかる前から、ずっと好きなんだよ。香水のこと。気付いてた?」

そんなの知らないよ。知らないに決まってる。

だってまさか、王子様だって騒がれているような人が、私のことが好きなんて思うわけない。自分の立場もあり、恋愛なんてしないと決めていたから、尚更だ。

「もちろん容姿も好きだけど、全然笑わないくせに優しくて、真心のある人なんだなって思った」

私がさっきの問いに頷くと、柊木くんは笑ってそう言った。好き、なんて、可愛いと同じで何度も言われたことがあるのに。苦手な言葉のはずなのに。

嬉しくて、でもなんて答えたらいいのかわからない。わかることがあるとすれば、この感情は柊木くんのことが私も好きだからってこと。

「まぁ、最初は一目惚れなんだけどね。入学式の日、不意に振り向いた香水の髪が太陽の光に透かされてキラキラ輝いていたのが、香水のことを何倍も引き立てていて、物語の主人公みたいだなって思った。その日からずっと、パートナーにするなら香水だって決めてた」

「……ごめんね。私が人間だったら、私の血をあげることもできたのに」

もしそうなら、ただ幸せだけを感じてお互い恋が実ったのに。私は誰かを不幸にすることしかできない。

「いいんだ。何十年も一緒に過ごせるのはもちろん幸せだと思うけど、死ぬときが一緒なのは難しいだろ?どっちかが先なんて、辛いから。香水と一緒に逝けるなら、それ以上の幸せなんてない」

私を抱きしめる腕が緩んで、目が合った。何度も見てきた、愛おしそうに私を見つめるその瞳が、まっすぐ私だけを捉えていた。

「だから、俺たち付き合おう。残りの時間、一緒にいよう。あと三年。やりたいこと全部やって、来世でまた会おう。今度はお互い、人間として」

「……うん。一緒にいたい。誰になんと言われようと、残りの三年は好きな人と、柊木くんと一緒に過ごしたい」

どうせ、一緒にいてもいなくても、死ぬ未来は変わらないんだ。それなら、お互いにとって幸せな道を歩きたい。

「ありがとう。すごく、すごく嬉しい」

雨はいつしかやんでいて、空に虹の橋をかけていた。視界に入る柊木くんの肩や髪の毛越しに見えるその景色は、なによりも幸せを感じさせるものだった。

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