第74話

「伊津?」

「芽衣胡様隠れて」


 早く、と伊津に促されて門の内側にある燈籠の影に隠れた。


 耳を澄ます芽衣胡の耳に伊津とは別の足音が二人分聞こえる。


「伊津さん、お遣いの場所とは違うようですが?」


 榎木の声だ。


「尾けたのですか?」

「尾けた? 人聞きの悪いことを言わないでください。亡き大旦那様――清矩様と、前の住職様は仲がよろしくてご縁があるだけです。それで? メイコ様はお元気でしたか?」

「何のことですか?」

「とぼけなくていいですよ。では私たちはご住職に挨拶して参りますね」


 お待ちください、という伊津の声と、足音が混ざる。


 足音が二つ、門を入った。


 そしてその足音がすぐに止まる。


「まるで頭隠して隠さず、と言った所でしょうか?」


 そう言う榎木とは別の人物の足音が芽衣胡の方にゆっくりと近付いてくる。

 その足音を芽衣胡はよく知っていた。


 何度となく芽衣胡をエスコートしてくれた、その人の足音。


 誰の足音か分かった芽衣胡の心臓が大きく跳ねる。


 そして芽衣胡の足は足音とは逆方向に向いて駆け足となった。


「ま、待ってくれ!」 


 芽衣胡のお腹の奥に沁み入る深い声。もう二度と聞くことは叶わぬと思っていたその声が、芽衣胡を呼び止める。


 だが芽衣胡の足は止まらない。

 ここは勝手知ったる光明寺。障害物を器用に避けて、寺の奥へ奥へと走った。


 伊津は、華菜恋が入れ替わっていることが露呈したと言っていた。


 ――だからあの方はわたしを詰りに来たのだ。


 よくも騙したな、と怒られるだろう。きちんと謝らなければならない。

 そう思うのに、顔を合わせられないという思いの方が強くて、足が止まらない。


 会えない。

 会いたくない。

 会うわけにいかない。


「待て! お願いだっ!」


 後ろから哀切するような声が届く。どんどん近くなり、距離が縮まる。


 走っているから息が苦しい。でもそれが原因ではない痛みが胸を苦しくさせる。

 だんだん強まる胸の痛みに、ついに足がもつれる。転ける――と手を前に出したが、その手が地面に付くことはなかった。


 腰に回るたくましい右腕。


 すぐに左腕も芽衣胡の身体を包む。


「探した! 良かった、会えた……」


 耳元に響く低い声に頭がくらくらする。


「は、なして……」

「離さない」


 閉じ込めるように腕の力が強まる。


「ずっと探していたんだ」

「ひと違い、……です」

「違わない。君だ。君に会いたかった」

「わたしは……、会いたくなかった……」


 芽衣胡の声が震える。


 ――嘘。本当はとてもお会いしたかった。


「こちらを向いてくれないか?」


 芽衣胡はふるふると首を横に振る。


「不貞だと奥方さまに怒られますよ」

「私の妻は君だ」


 断言するその言葉に芽衣胡の目から涙がこぼれてしまう。


「貴方様の妻は華菜恋様でしょう? わたしなどではありません」

「違う」

「違いません」


 證は奥歯をぐっと噛む。


「私の妻の名前は……、メイコ」


 芽衣胡の喉がひゅっと鳴る。


「君だよ、メイコ」


 芽衣胡の力が抜けていくのを證はその腕に感じた。


「……名前?」

「本当はメイコと言うんだな?」


 初めて呼ばれた自分の本当の名前。それが嬉しくて嬉しくて、その感情の処理が分からず、芽衣胡の瞳から大きな雫がぼろぼろと流れ落ちていく。


「……違ったか?」


 おろおろとする證の声さえ愛おしい。


「――です」

「ん?」

「芽衣胡、です」


 證様、と呼び掛け、後ろを振り返る。すると緩んだ腕によってくるりと身体を反転させられた。そしてそのまままた抱き締められる。


「芽衣胡、どこに行っていたのだ。探しただろう」


 苦しげな證の声。證の胸も自分と同じように苦しいのかもしれないと芽衣胡は思った。


「……でも證様の初恋の君は華菜恋でしょう?」


 こんな時に聞くことではないが、気になっていたことを言わずにいられなかった。


 抱き締めていた腕を解いた證は瞬きを2回して困ったように笑う。


「君だよ」

「でもキャラメルは華菜恋しか持ってません。わたしはいつも華菜恋から貰っていたのですよ。だから證様も華菜恋から貰ったのでしょう?」

「君だよ」


 君だよ、と證は優しい声音でもう一度言う。


「華菜恋さんから貰ったキャラメルを君はひと粒紙に包んで持っていた。君は大事に食べようと誰もいないこの場所に来たんだよ」


 この場所、と聞いて芽衣胡は辺りの気配を探る。


 そこは光明寺の一番奥にある静かな苔むした所。大きな岩がひとつあり、いつもそこに座ってキャラメルを食べていた場所だった。


「ここで?」


 この場所を華菜恋は知らない。


「私がね、先に大岩ここで座っていたんだ」


 そう言って證は大岩に腰を下ろす。


「君は持っていた紙を開いて私に差し出した。そこにはキャラメルがひと粒しかなかったのだよ。私が貰ったら君の分がなくなるというのに、君は無垢な顔をこちらに向けて美味しいよと渡してくれたのだ」

「わたしが?」

「ああ」

「でも、わたしではない他の子どもの可能性は?」

「ない。君だよ」


 断言するからには、何か証拠でもあるのかと思った。


「わたしだという証しは?」


 おいで、と證に手招きされる。證の前に立つと右手が取られた。

 そして上に向けられた手の平を指でなぞられ、親指の付け根で止まった。


「ここ。ここに、証しがある」

「何があるのですか?」

「ほくろだよ。ほくろが縦に3つ並んでいるんだ。珍しいなと思って見ていた記憶がある」

「ほくろ……」


 芽衣胡は自分の右目に右手を近づける。塵でも付いているのかとあまり気にしていなかったが、それが3つ並んだほくろだとは知らなかった。


「十年前にはもう私たちの縁は生まれていたのだ。私はあの時、君の笑顔に救われたのだから。芽衣胡、君にはね、ずっと笑っていて欲しいのだ。願いや望みがあるなら全て叶えてやりたいと思う」

「わたしの願いは……」

「なんだ、言ってみろ?」

「證様のお側にいることです。妾でも使用人でもいいのです。お近くにいさせてください」


 はあ、と證が大きなため息を吐く。芽衣胡は自分の発言が間違いだと気付く。


「すみません、ええと、近くにだなどと望みません」

「君は本当に分かっていない」

「え?」

「私が君をどれほど愛しているか分かっていない」

「あ、い?」

「君がいい、君しかいらない。私の本妻は芽衣胡だよ。他に妾なんていらない。だから私の隣に帰って来なさい」


 熱烈な言葉に芽衣胡の顔が熱くなる。目眩がして頭もくらくらする。


 立っていられなくなった芽衣胡は地面に座り込む。


「芽衣胡? どうしたのだ!?」

「あの、ええと、……嬉しくて」


 はにかむ芽衣胡の顔を見て證はほっとする。そして愛おしさがさらに増した。


 證は大岩から腰を上げると芽衣胡の背中と膝裏を支えて抱き上げた。


「うわっ」

「芽衣胡」

「證様」


 近くにある證の顔へ芽衣胡は手を伸ばす。


 今どのような表情をされているのだろう。


「貴方様のお顔が見たいです」


 證の頬に芽衣胡の指が這う。たどたどしい動きに證は頬を緩めた。


「私の顔は怖いぞ?」

「心はお優しい事を存じております」

「泣くかもしれぬぞ?」

「笑います」

「好みの顔ではないかもしれぬぞ?」

「殿方の顔を比較したことがないので何が好みか分かりません」

「そうだな……」


 ふっ、と脱力したように證が笑う。

 そして抱き上げられていた芽衣胡はゆっくり下ろされた。


 證は胸ポケットに手を入れると、包みを出す。包みを開いて中身を手に取ると、それを無垢な少女の眼前に掲げた。紐を右耳に掛ける。

 左耳にも掛ける。


「これは……眼鏡?」

「ああ。君の眼鏡だ」


 芽衣胡の視界は黒に染まっている。

 證が一歩後ろに下がると、右の視界が明るく広がっていく。


 ゆっくりと視線を上に向けると、證の太い首が見え、細い顎が見え、そしてすっと伸びた鼻筋が見える。


 そこからまたゆっくりと視線を上げると、きりっと目尻の上がった両目と芽衣胡の右目がぶつかった。


「怖く、……なんてない。優しさの滲む、素敵で、愛おしいお顔をされておりますわ」


 芽衣胡は背伸びをして両手を證の頬に当てる。そしてとびきりの笑顔でにこりと笑う。

 證が救われたと言ったその笑顔で――。

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