第70話

「そう言わないでくださいよ〜」


 緊張する前の腰の低い華菜恋に戻ってくれ、と榎木は心の中で悪態をつく。

 しおらしい所が可愛かったのに、今は可愛げなどどこにも見えない。

 使用人である榎木にも優しく接してくれた華菜恋はどこに、と首を傾げる。


「な〜んか、人が変わったみたいですよね〜」


 面と向かって言えない榎木は扉に話し掛けるようにそうこぼす。


 しかし華菜恋はその言葉に心臓が跳ねる。


「人が?」

「変わりました、変わりました!」


 榎木は半ばヤケクソにそう言う。

 これ以上華菜恋のご機嫌をとって顔色を伺うひまなどないのだ。


「どういう風に代わったと思うの?」

「えっ? 聞くんですか? ……正反対ですよ」


 正反対という言葉は、伊津の言葉を聞いた芽衣胡と自分も発した言葉。そう、芽衣胡は自分とは正反対なのだ。


 このままでは入れ代わったことが早々に判明してしまう。華菜恋は華菜恋として振る舞ってはいけないのだとそこで初めて気付いた。


 芽衣胡のように、と芽衣胡の態度を思い出す。だが双子であるはずなのに、それを演じるのは難しい。だが芽衣胡になりきれるよう努力しようと思った。

 芽衣胡ならこのような時に何を言うだろう。


「ごめんなさい、榎木」


 よく謝る芽衣胡を真似てみる。


 それを見た榎木は、まさかこの華菜恋から謝罪の言葉が出て来るとは思わず驚いて目と口を開けた。


「えっ、いや、……いやいやいや」

「ダンスは一曲でいいかしら?」

「いいのですか!? はい、一曲踊っていただければ十分ですよ! 證様に伝えて来ます! あっ、もう少し休んでいてください、またお迎えに参ります」


 榎木が出て行くと、華菜恋は大きくため息を吐いた。

 胸の苦しさは変わらず肺に入る空気も少ない。


 ――あと一曲。一曲の辛抱よ。


 水を飲みながら呼吸を整える。

 

 しかし、さらしによって胸が苦しいのか、芽衣胡として振る舞わなければならない状況が苦しいのか華菜恋には分からなかった。

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