第65話
3
離れに運ばれた朝食を證とともに摂ると、「16時に迎えに来る」と言って證は出て行った。
松若邸内は朝からパーティーの支度でひっくり返っていた。男の使用人はパーティー会場の準備に駆り出されたため、邸内の男の仕事も女たちが協力して捌いていた。
華菜恋付きの松子さえ朝食を片付けたきり姿を見せない。そんな松子は額に汗を浮かべて昼餉を持ってくる。
「わたしはこれからパーティー会場へ荷物を運ぶお手伝いに行きます」
「荷物?」
「松若汽船が新たに扱う商品を招待客の皆さまに手土産として渡されるとかで」
「そうなのね、行ってらっしゃい松子さん」
「華菜恋様のお支度が出来ず申し訳ございません」
「大丈夫よ! 気にしないで!」
むしろ行ってくれてありがとう、と感謝さえする。
松子がいなければ華菜恋との入れ替わりも容易に行えるだろう。
離れの前で松子を見送ると、華菜恋と示し合わせた時刻になりそうだった。
「そろそろね」
「はい、裏側の通用口を開けて参ります」
「お願いね、伊津」
伊津が出て行った部屋にひとり残された芽衣胡は離れを見回す。
たった数日過ごしただけなのに、たくさんの日々をここで過ごしたような気もする。
部屋の隅に置かれた衣桁には仕立てられたばかりの黄色いドレスがある。
「本当は、少しだけ着てみたかったのだけど……。でもこれはわたしのものではないのよ」
このドレスを着た芽衣胡を見た證はどんな顔をするだろう。
「證様のお顔……。お顔さえぼんやりとしか分からなかったわね」
眼鏡屋で眼鏡を着用し、證の顔が一寸見えたがすぐに隠されてしまった。もう少し間近で見ることが出来ていれば――と何かが芽衣胡の裾を引っ張るように、名残惜しさばかりが募っていく。
その時、忍ぶような足音が芽衣胡の耳に届いた。
「お待たせ芽衣胡」
「華菜恋!」
静かに離れに入って来たのは、芽衣胡と同じ顔。
自分の役目は終わったのだと実感する。
この部屋にこの顔は2つも要らない。
「ここから一本向こうの通りに
芽衣胡は首肯する。
「芽衣胡の荷物は?」
「何もないわ。だってここにあるのは、松若華菜恋の物だもの」
それもそうね、と華菜恋が頷く後ろで、伊津の喉がひゅっと鳴った。
「芽衣胡様、せめて、せめて、わたしが仕立てたお着物だけでもお持ちください」
「でも……」
「あれは芽衣胡様のために仕立てたのです」
懇願する伊津に、華菜恋が口を開く。
「伊津、その着物を包みなさい」
「はい」
箪笥にしまったそれを伊津が丁寧に出す。
いつだったか芽衣胡が「からし色」と言ったら伊津に「菜の花色」だと怒られたあの着物だ。
風呂敷に包んだ着物を伊津は泣きそうな顔で芽衣胡の胸に抱かせた。
「本当にもらっていいの?」
「もちろんです」
芽衣胡は次に華菜恋を見る。
「それは芽衣胡のものよ。あとは、本当に何もないのね?」
「ええ、他にはないわ」
「そう。……芽衣胡ありがとう。わたくしの身代わりにこのような所で……」
「そんな風に言わないで。わたしはここでの暮らしが楽しかったのだから」
華菜恋を気遣わせないために強がって言った台詞だと華菜恋は感じた。
しかし芽衣胡にとっては本心からの言葉。
経験したことのない驚きの連続が、證の隣にはあった。
――ありがとうございました、證様。お世話になりました。どうか華菜恋をよろしくお願いいたします。
すでに居ない主に向かって心の中で謝辞を述べると、芽衣胡は華菜恋と抱擁する。
「元気でね」
「芽衣胡もね」
偽物が離れを出て行く。
離れの中には本物の華菜恋がいる。
これが正しき姿なのだと、そう言い聞かせて芽衣胡は松若邸を出た。
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