第57話

「疲れただろう。ジュースは口に合わなかったか?」


 グラスに注がれたオレンジジュースはまだなみなみとそこにある。口を付けていないことは来たばかりの證が見ても明らかだ。


「何か食べよう」


 證がそう言うと、横の席に座っている榎木が品書きを證の前に置く。


 祝言の夜はサンドイッチ。昨晩はオムライス。さて今日は何を注文したら目の前の無垢な少女はその頬を綻ばせるだろう、と證は品書きを睨みながら思案する。


「嫌いなものはあるか?」 


 そう聞いておきながら「證の顔が嫌いだ」などと返答されたら悲しいと感じる。


 そのような證の心情を知らない芽衣胡だが首を横に振りながら小さく「いいえ」と答えた。


「そうか……」


 どこかほっとしたような證の声。続いて、ふむ、と唸る低い声。


 心地よい声。

 お腹の奥に染み入る深い声。


 證の声に芽衣胡の心臓はいつも掴まれる。苦しいのに、それでもまた自分にその声を向けて欲しいと願ってしまう。

 何度だってその声で心臓を掴まれたい。


 このような事を光明寺にいる時は感じたことがなかった。この気持ちが何物なのか分からない芽衣胡は苦しいのに嬉しいと思う気持ちに戸惑ってしまう。


「クロケットがいいか?」

「黒? あの、證様と同じものでしたら……」


 證と同じものを食べ、同じことを感じたい。


 だが證が注文したものが目の前に来て、少しも黒くなどないな、と芽衣胡は思った。


 どう食べていいか分からず首を傾げる芽衣胡を見て、證は食べやすい大きさにクロケットを切り分ける。


「フォークでも、箸でも、どちらでもいい。食べてみなさい」


 はい、と返事して芽衣胡は箸を持つ。切り分けられた塊をそっと口に入れるとサクサクとした食感と、続いてとろみのあるものが芽衣胡の口に初めての味わいを運ぶ。


「ん……とても美味しい……」


 またひとくちと頬張る芽衣胡の姿に證はその固い頬を僅かに緩めるのだった。

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