第56話
呆けたままの芽衣胡の採寸は店員の慣れた手でてきぱきと行われる。
その間、證は婦人服カタログに目を通していた。カタログに掲載された写真から好みのデザインを決めて、その人の寸法に合わせて洋服を誂えるのだ。
だが婦人服などどれを見ても同じに見えてしまう。
「妻に似合う服を選んでくれ」
「かしこまりました」
横に控えていた店員がカタログをめくる。
「奥さまは控えめで可愛らしい印象でしたので、こちらはいかがでしょうか? 優しい色や淡い色がお似合いになると思います」
そう言われて思い出すのは赤い着物の時と、黄色い着物の時の華菜恋。
たしかに、はっきりとした赤よりも、優しい色合いである黄色の方が似合っていたと脳裡に思い浮かべた證は、ふむ、と頷く。
「黄色がいいな」
「お似合いになると思います。少々お待ちください」
そう言って店員は壁付きの棚に向かい、布を引っ張ってくる。
「こちらはフランス製の生地で薄いのですが、しっかりとハリがあり、揺れると軽やかでとても美しく見えます」
「ああ」
その内に採寸の終わった芽衣胡が戻って来た。すでに夢から覚め、現実を見ているのか、今度は眉を顰めている。
「どうした華菜恋」
「あ……、證様。あの、これは……、一体何を?」
まさか芽衣胡のためにここに来たとは思っておらず、採寸をしている間に聞いた店員の言葉が耳で繰り返されている。
『楽しみですね、新しいお洋服! とびきり素敵なお洋服が出来ますよ!』
誰のお洋服ですか? ――そんな事は聞かなくても分かる。芽衣胡が採寸しているのだから、芽衣胡の洋服だろう。
「どうして?」
先ほどの眼鏡もそうだった。
そしてここでは洋服。
お金のない芽衣胡には代金が支払えない。いや、お金の問題ではない。
自分のような華菜恋の影ごときが、身につけて許される代物ではないのだ。
それにやや子を産んだら離縁するのだ。だから何も要らない。品物も思い出も。楽しいことも嬉しいことも必要ない。
そう思った芽衣胡の目から涙がこぼれる。
「華菜恋様」
榎木がハンケチを渡してくれるが、真っ白で手触りの良いハンケチなどを芽衣胡は自分の涙で汚せなかった。
「妻は体調が悪いようだ。榎木、華菜恋を連れて先に5階の大食堂に行っていてくれ」
「かしこまりました。さあ華菜恋様、参りましょう」
細い肩を榎木が支える。
證はそれを見て、本当は自分が支えたい。榎木であろうと華菜恋に触れるのは許しがたいと感じた。しかし證はまだここに用が残っている。
「最初に見た生地で一着と、それからこれと、これと、これと。……ああ、あちらにあるものも見せてくれ。そうだあとパーティー用のドレスも仕立てたい――」
そんな證が婦人服部を出たのは、大食堂にいる芽衣胡の目の前に置かれたオレンジジュースの氷が半分溶けた頃だった。
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