第54話

「證様っ!」


 はしたなく店内で歓喜の声をあげる芽衣胡に、證はうるさいとばかりについその鋭い目付きを向けてしまった。

 證は未だ自分の目付きを見せてもいいものかと悩んでいたにも関わらず、その鬼のような形相を妻に向けてしまったのである。


 ――しまった。これでは怯えて泣き出すに違いない。


 そう思った證は咄嗟に右手の平で目元を覆う。


 だが、すっすっ、と草履を擦る音が近付いてくる。見なくとも分かるその足音は、違和感のある歩き方をする妻、のもの。


「寄るな」


 證の左手が前に伸び、芽衣胡が近付くのを制する。


 牽制の手の平が芽衣胡にはよく見えた。

 完全な拒絶を感じて芽衣胡の足が止まる。


「坊」


 店主の諌めるような声に證ははっとして顔を覆う手を外した。

 證の目には眼鏡をした芽衣胡は見えず、項垂れて覗く日焼けしたうなじが見えるだけだった。


 日焼けなど無縁だろう元公家の姫。姫であるはずだがしかし、姫らしさはなく、姫であることに違和感を覚えるような無垢で純粋な少女だった。


 違和感の正体を探るように観察するうちに證はこの少女の目が悪いのではないかと思い至ったのだ。


 それは間違いではなかった。


 一瞬見えた、眼鏡の向こうに輝くキラキラとした瞳。もう一度その瞳を見たい。こちらを見て欲しい。だが、自分の恐ろしい顔など見せたくはない。泣かせたくない。


 ただ、笑ってほしい――そう思えばこそ、自分の顔など見せることは出来ないと證は思った。


「おやじいくらだ」


 いたたまれず、そう声を投げると、證に向かって「ああっ」と苛立ちが返ってきた。


「今は金の事じゃねえだろ」


 代金を気にするより他にやる事があると言いたげに店主は顎先を芽衣胡に向けた。


 何となく雰囲気でそれを感じた芽衣胡は「 いいんです」と首を横に振る。


「ありがとうございました。わたしはこのような高価なもの買えませんし、触れるのもおこがましいのです」


 芽衣胡は眼鏡を外して店主に返す。

 それを見た證は若干ほっとした。そして同時にそのような自分に嫌気がさす。


 ――おこがましいだなどと思うことなどない。


 證がそう声を掛けるより先に芽衣胡は證の横を過ぎてガラス戸の前に立つ。


 狭い店内に入らず、外で控えていた榎木が芽衣胡に気付いて戸を開けた。


「華菜恋様?」

「帰りましょう」


 様子のおかしい主たちの姿に榎木は首を傾げる。店内で何があったのか。一度、の歓喜の声が聞こえた気もするのだが……。始終を見ていなかった榎木には何も分からない。


 そんな暗い顔をする二人を乗せて、自動車は次の予定地へ向かう。


「合うものがありませんでしたか?」


 沈んだ車内で窒息しそうだと思った榎木はそう問い掛けるが、返答はどちらからもなかった。

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