第35話
「伊津、華菜恋は中か?」
「はっはい。あ、おかえりなさいませ證様」
頭を下げる伊津を横目に證は部屋内を見るがそこに芽衣胡はいない。
「まだ寝ているのか?」
「いえ。起きていらっしゃいます。今は寝室――」
寝室にいると言い掛けた伊津は、芽衣胡が寝室で掃除をしていることを思い出す。主人に掃除をさせていたとあれば伊津はきっとお叱りを受けるだろう。
證に見付かる前に芽衣胡に声を掛けなくてはと、伊津は「呼んで参ります」と言う。
「いや、いい。私が行こう。奥にいるのだろう」
「はい」
部屋に入る證の背中を見て、伊津は頭を押さえた。
と、その時。寝室の扉が開く。
「伊津? 何かあった?」
雑巾を持った芽衣胡が證の前に立つ。
「あれ? 伊、津……?」
芽衣胡には一瞬、伊津が大きくなり、着物が黒くなったのかと思った。しかし何かが違う。
――そうだ、匂いが違う。この匂いは……。
「あ、かしさ、ま?」
「ああ。何を持っているのだ?」
證の指摘に芽衣胡は咄嗟に雑巾を身体の後ろに隠す。
「お仕事では?」
「昼休みだ。昼餉を摂ったらまた戻る。貴女は朝も食べてないと聞いたが、昼は食べなさい」
「はい。申し訳ございません」
「貴女は痩せすぎだ。きちんと食べなさい」
「はい。申し訳あふうっ――」
再び謝ろうとする芽衣胡の唇がいきなり閉じる。證が親指と人差し指で唇の上下を挟んだのだ。
「ふうっ(なに?)」
芽衣胡の声にならない叫びは鼻から抜けていく。
「謝らなくていいと言ったはずだが?」
状況が掴めてきた芽衣胡は「はい」と返事をするが、鼻から「ふう」と抜けていく。
その少し間抜けな返事と潰れた唇に、證の頬が緩むのだが、きつい目付きにこの微笑が合わさるとゴロツキも黙るほどの顔だと言われていることを思い出した證は横を向いた。
怖がらせたかもしれぬ、と案じるものの、見下ろされた芽衣胡にはその表情は見えない。
ただ、證の醸すぴりっとした空気感が凪いだように感じた。
華菜恋であれば恐れて泣き出す顔であっても、見えない芽衣胡にはどんな表情も怖くはない。
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