第2話
「緋鞠、やばい。真ん中の二ページだけ真っ白」
真っ青な顔で私の腕を掴むのは、昨年同じクラスで友達になった里片杏鈴。今年も同じクラスで隣の席。私たちの配置は昨年と全く同じだった。杏鈴が十七番で、私が二十一番。一番後ろの席。
「仕方ないなぁ。見せてあげる」
黒髪ショートで綺麗なベージュの肌をした杏鈴は可愛くて、すぐに甘やかしたくなってしまう。俗に言う妹キャラ。
「ありがとう!大好き」
今度ジュース奢る!とテキストを写す姿は、まるでマンガのワンシーンのよう。これは一種の青春で、この先の未来、少女マンガを読んだら私もこんな経験をしたなと微笑ましくなるに違いない。
「謙介、おはよう」
「おー、高橋も同じクラス?」
本当に、物語のような展開。
時間ギリギリ。朝のホームルームのチャイムが鳴る一分前。
肩で息をしながら教室に入ってきて、笑顔で話をしているのは、同じクラスなわけないと登校する前から諦めていた謙介くんで、目が合った瞬間ひらひらと手を振ってくれる。
「席つけー。ホームルーム始めるぞ」
入ってきたのは、見慣れない三十代前半くらいの男の先生で、名前は滝沢弘樹先生。担当教科は数学らしい。確かに頭の中は数字で埋め尽くされていそうな、硬そうな人だ。どうやら昨年この学校に異動してきて、三年生の副担任を勤めていたらしい。
「里片杏鈴」
「はい」
「夏岡緋鞠」
「はい」
出席は目で見て確認するわけではなく、古典的な名前呼びスタイルらしい。
「山戸謙介」
「はい」
同じクラスに好きな人がいる。
先生がバインダーを見て、当たり前のように謙介くんの名前を呼んでくれたから、その実感をより強く感じることができた。
「今年は楽しいことをめいっぱい楽しめる一年にしよう。二年生は体育祭と文化祭、それに修学旅行もあるからな」
出欠確認を終えた先生は、誰よりも目を輝かせて言った。その目の輝きに、なんだか拍子抜けしてしまった。
意外と親しみやすい人なのかもしれない。実際はわかんないけど、ただ、第一印象を一瞬で覆す力があるすごい人というのはわかった。
「じゃあこのあとは始業式だから、時間になったら廊下に男女混合の名簿順で並んでください」
その指示とともに自由に戻った教室は、またガヤガヤと話し声が広がる。
「緋鞠、おはよう」
とんと私の机に右手をついた謙介くんは、なんだかすごく楽しそうで、この新しい春に希望を持っているように見えた。
「謙介くん。おはよう。本当に同じクラスになれるなんてびっくりだよね」
「日頃の行いが良いからかなー」
「謙介くん頑張ってるもんね」
「ちょ、照れるからやめて」
半笑いで少し顔を火照らせているのは、思わず声に出てしまいそうなくらい可愛かった。
「友達?」
私の肩をつついた杏鈴が、首を傾げて謙介くんのことを見ていた。
「うん。謙介くん」
「山戸謙介です。よろしく」
屈託のない笑顔で簡単な自己紹介をしているのを見ると、不安になる。いつか誰かと結ばれて、私と今まで通り話すことができなくなるんじゃないかって。
「里片杏鈴です」
杏鈴の好みとは違ったらしく、しおらしく挨拶をして、また写しの作業に戻っていた。
あからさまな杏鈴の態度は、失礼だと言う人もいるかもしれないけど、私にとっては安心材料だった。謙介くんへの気持ちは誰にも話すつもりはないけど、大事な友達と好きな人が被るのはメンタル的にしんどいから。
「そろそろ時間だよね」
時計を見ると、黒板に書いてある時間はもうすぐそこだった。
「また話そ」
「おー」
自分の席に戻った謙介くんは、机にかけてある体育館シューズを持って廊下に出た。
「杏鈴、もう並ばないと」
「あ、うん」
全員お揃いの学年カラーのブルーの巾着を持って、廊下に出る。もう桜も散り始めた春だけど、少しヒヤッとした。
名簿順で縦一列に並ぶと、話せる人はいなくなって待ち時間はやけに長く感じるし、その先で待っていた校長先生の話も何を話しているのかわからなくて、睡魔との戦いが始まるしで、露骨に集会の嫌な部分がわかる始業式だった。とはいえ、いつもとこれといって変わらない集会だったけど。
「途中まで一緒に帰ろう」
始業式直後の実力テストも終えて、もう日が傾いている中、その疲れをも吹き飛ばしてくれる出来事が起きた。
違うクラスだと、たまにいるかなとクラスを見に行くけどもういないことがよくあったから、同じタイミングで帰りがやってくることがこんなにもありがたいことだとはじめて知った。
「うん!あ、でも杏鈴も一緒でもいい?」
「ごめん、私今日部活ある」
小さいボストンバッグを持って、せかせかと教室を出ていく杏鈴は、男子バスケ部所属しているマネージャー。
春の大会のユニフォームにワッペンを付けると以前言っていたから、それであの大荷物だろうか。
「帰ろっか」
「うん」
揃って教室を出る。久しぶりで、まるで雲の上にいるみたいにふわふわした気持ちになる。
誰かが付き合っているとコソコソ噂してくれないかな。なんて。そんな風に見えるわけないのに。
「担任の先生明るそうな人でよかったよな」
ネクタイを軽く緩めながら笑う、大人っぽくなった謙介くんとは見合わない。
私がリボンを緩めても、ただ意味深な行動を取っただけの人になる。
「今年は恵まれてる。恵まれすぎて、来年のクラス替えが今から怖いもん」
「それはわかるかも。来年は進路でクラス分けられるって誰かが言ってたし」
笑いながら私の不安を煽る。
こういうところがあるんだよな。この人は。
「どこ志望?」
「就職」
「あ、一緒」
「まじ?」
「まじ」
昇降口を出ると、ユニフォームを着て走っている人と、グラウンドのフェンス越しで部活を見学している初々しい子たちで溢れていた。
「部活見学かー。帰宅部が一番楽だと思うけどな」
どういう目線で部活の様子を見て入部を決めるのか私にはよくわからないけど、謙介くんの意見が私にぴったりだった。
「なんで就職?絶対進学だと思ってた」
正門が見えてきた辺りで話は戻り、やけに謙介くんは私の進路に興味津々だった。
「えっと……。あ、早く働いて、老後の資金を稼ぎたいから」
少子高齢化が進む今、自分が年金をもらう立場になる頃にはきっと、貯金もある程度ないと生活が苦しくなる。今でも苦しいと言っている人がいるとニュースでやっていたのだから、余計だろう。それに頼る前に死ねるのなら話は別だけど。
きっとこれが、私が就職を選んだ理由だろう。
「ちゃんとしてるんだな」
「そういう謙介くんはなんで?」
「大学に行ってまで学びたいことはないし、一人暮らしとかしてみたいから」
私とは違って未来への希望が満ち溢れている謙介くんの意見は、やけに立派に聞こえた。
「いいな、一人暮らしか」
話をしながら歩いていると、謙介くんが「じゃあ、また明日」と私に手を振った。
「あ、うん……」
ここから一人で帰る。いつも通りのはずなのに、不安に駆られた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
大丈夫、と言っておきながら、自分でもよくわからなかった。何が不安なのか。なんでいつも通り笑顔でまた明日と言えなかったのか。わけも分からないけど、心にぽっかり穴が空いた感覚に襲われた。
「送るよ」
そっと私の手を取って、交差点の横断歩道を渡らずに私の家がある方へ、歩き始めた。
「ごめん、大丈夫。心実ちゃん待ってるでしょ?帰ってあげて」
「今日はあいつ部活あるから。僕のわがままに付き合って?」
そう、私の返事を聞かずに優しく腕を引いた。
「なんかあった?」
申し訳なさで無言の中、いつもと同じ声色で、しんみりした空気を作ることなく沈黙の壁を破った。
「なんか気分が上がらないっていうか、軽く押されて一気に暗闇に落ちた感覚っていうか……。なんて言えばいいかわかんないけど、そんな感じがする」
こんなことを言ったって困らせるだけなのに。
「じゃあ今日はご飯いっぱい食べて早く寝てみたらどうかな?いつも頑張ってるから、きっと疲れちゃったんだと思う」
謙介くんは全く顔を歪めずに、繋いだまま離されていない手を前に後ろに、大きく振った。
「……うん。そうする」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
どちらともなくぎゅっと力が籠った手が離れたのは、私の家についたときで、離れたときの寂しさがまた、謙介くんのことを引き止めてしまいそうで怖くなった。
「なんかあったら連絡して。電話もメールも、二十四時間対応だから」
ポケットから取りだしたスマホを片手に、「また明日」と、今日二度目のまた明日を告げて来た道を戻って行った。
赤と紺が混ざった空に向かって歩いていく謙介くんを見えなくなるまで見送って、カバンから取りだした鍵を差し込んで誰もいない自宅に入る。
生まれたときから住んでいる二階建ての一軒家。両親が帰ってくるのは真夜中で、顔を合わせる回数の方が少ないことを、私の周りの人は誰も知らない。
謙介くんの家庭環境は知っているのに、自分はいかにも絵に書いたように家族全員で食卓を囲むような家庭だと嘘をついていることに胸が痛くなりつつも、これでいいような気がしていた。
『ゆっくり休めよ』
ピコン、と送られてきたメッセージは、どの人から送られてくるメールよりも温かいものだった。
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