第26話

加藤邸の東に台所がある。その隣にある小さな部屋に寝台と机を入れて桐也は勉学に励んだ。


 義母からの悪口はなくなったものの、会うたびに睨みつけられるのは変わらなかった。


 桐也の本来の部屋は二階にあるのだが、二階は義母の視線と直哉の声がうるさい。煩わしさから逃れるように空き部屋へ移動した。


 台所の隣はいつも誰かの声や調理の音が聞こえる。しかし、それが心地よかった。


 夜、静かになると無性にトオルのことを思い出す。


 早川には「いつでも遊びに来なさいね」と送り出されたが、再々行くわけにはいくまい。

 きっと尚人がよく思わないだろう。


 霧野との面会も月に一度、許されていた。

 実母と再会した時、霧野は暗い長屋で病を患っていた。

 それからすぐに尚人は医者を呼び、病院を手配してくれたのだった。


 もしあの日、桐也が尚人に条件を出していなければ――。

 もし、母に会いたいと強く望まなかったら――。


 霧野はこの世から去っていたかもしれない。


 もっと早くに会いたいと望んでいたら、病はここまで進行していなかったかもしれない、という気持ちも湧き上がる。


 この先、後悔だけはすることのない人生にしたいと、そう強く願った。



 桐也は中学、高等学校と経て、帝国大学へ無事に入学することができた。

 しかも帝国大学に行くと、馴染みの顔がある。


「トオル!?」

「お元気でしたか」


 尋ねると、トオルも同じ学年だと言う。一緒に勉学に励みたく努力したのだと言って、トオルが微笑んだ。

 その顔を見て、ずっと力を入れていた肩がストンと落ちた。


 一人で勉強するよりも、トオルと一緒に勉強するほうが捗る。


 そしてついに桐也は、尚人の最低条件である『帝国大学卒業』を果たした。


 滅多に笑うことのない尚人の口角がわずかに上がっているのが嬉しくて誇らしかった。


 義母と直哉が片隅から悔しげに睨みつけていたが桐也は気にも止めない。


 直哉が帝国大学に受からなかったことだけは高等学校時代に知っていた。

 だがどこの大学に行ったのかは知らないし、興味もない。多分、お金の力で入学も卒業もできるところでなければ行くことは不可能だろう。

 そこまで考えて、直哉のことで時間を費やすことは無駄だと思い至り、思考をやめたのだった。


 尚人は事業を手伝うようにと言った。

 もちろん優秀なトオルも尚人の目にとまり、桐也の秘書として採用された。


 主従の関係になってから『トオル』『桐也くん』だった呼び方が変わる。


 トオルは前にも増して真面目さを大いに発揮させてくれた。

 自分のことより、まず主である桐也を優先させる。それに戸惑ったのは桐也のほうだ。

 しかし一貫した態度を貫くトオルのお陰で、桐也は早いうちに彼を苗字で呼べるようになった。


「早川」

「はい、桐也様」


 どんな時でも真面目な声が返ってくる。だが時折、ばかな弟だとでもいいたげな目が返ってくると胸が温かくなるのだ。

 敢えて冗談めいたことを言ってみるとトオルは幼い頃のような小さな微笑みを見せてくれる。


 だが、桐也の胸の奥底は空いていた。

 満たされない何かを自覚してしまう。


 それまでは帝国大学卒業が大きな目標だったが、それを果たした今、何をすべきか分からなくなった。


 尚人の仕事はやりがいはあるが、打ち込めるようなものではない。

 ただ目の前に仕事があるから、ひたすら真面目にこなすだけ。


 そんな日々を繰り返すうちに、桐也は外面を整えるのが上手くなる。

 いつしか本来の自分がどうだったか分からなくなったが、どうでも良かった。


 尚人の機嫌さえ損なわなければ霧野の生涯は約束されている。

 そこに桐也自身の犠牲があったとしても、別にどうでも良かった。

 

 自身のことに関しては投げやりな部分があった。




 ある年の冬に霧野は大きく体調を崩した。大塚からはそれほど長くは生きられないだろうと告げられる。


 母のために何か出来ないか。己に何ができるのか――。


 そう考えて霧野の希望を尋ねたのだ。


 ――もっとのんびりした所で余生を過ごしたいわ。そうね……、海とか見える場所もいいわね。

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