第24話

すぅっと薬が皮膚に染み込んでいく爽快感を味わっていると、遠くで声が響いた。


 紋次郎が縄を見つけて戻ってきたのかもしれない。


 ――どこですか〜?

 ――返事をしてください〜!


 聞き覚えのある声。やはり紋次郎だ。


「もんじ!」


 一度では声が届かなかったのだろう。温乃は何度も何度も紋次郎を呼ぶ。


「待って。一人の足音じゃないね。何人かいるよ? 君の連れは男一人じゃなかった?」

「もんじ」


 紋次郎と温乃の二人だけでここまで来たのだ。今朝、顔を合わせた時に「もんじおー」と呼ぶと紋次郎は苦笑した。「ろ」はまだ少し言い慣れていなかった。


『もんじ、でいいですよ』


 そう言って紋次郎はニカッと笑ってくれたのだ。


「松明が見える。村人かもしれないね。君は隠れたほうが――」

「見つけたぞ!!」


 背中がしんと氷つくような声が空から降ってくる。温乃は赤い火が揺らめく頭上をちらりと見上げて、すぐに息をのんだ。


 氷の声は片手に松明を持ち、そして反対の手で縄を伝って下りてきた。縄は上にある木の幹にでも繋いでいるのだろう。


「山犬もいるか……。遠吠えは貴様だな? だが動けぬのだろう。ここで焼いて始末してやる」


 温乃は白狼の前まで這っていき、通せんぼをするように両手を広げる。


「おかえりなさい、きようさま」


 一歩、二歩と距離を詰められたかと思えば、温乃の身体が飛んだ。


「うえっ……」


 温乃は自分がどうなったのか遅れて理解した。蹴られたのだ。目の前の男――安治に。


「供物の分際で前を遮るな。仕置きが必要か?」


 温乃は震える身体を叱咤して、唇を噛む。

 ここで白狼を守れるのは自分しかいないのだ。それに安治に蹴られるのはもうすっかり慣れている。あと二、三度蹴られても大丈夫だと、そう思いながら、這って、這って、また白狼の前に戻った。


「あん? 歯向かうのか?」


 安治が腕を振り上げる。しかしその腕が落ちてくる前に、今度は安治が横に飛んだ。


 温乃の前でふさふさの尻尾が揺れている。


「ごめんね、さっきは守れなかったけど、もう君を危ない目には合わせないよ」


 白狼は横たえていた大きな身体をゆっくりと起こした。しかし後ろの左脚はまだ痛むのだろう。脚が滑る。


「だいじょぶ?」

「ああ。……がっ!」


 突如、ズクっと言う何かがめり込む音がした。白狼のうめき声を聞いて温乃は白狼の背中に矢が刺さっているのを見つけた。


「え……?」

「隠れ、ろ」


 続けて矢が雨のように降る。温乃の頭上では白い尻尾が温乃を矢から守っていた。

 紋次郎が上で「何をするんだ!」と叫んでいたが、その声もなくなる。


「ねえ?」


 一瞬の静寂。

 矢の雨は終わったのだろうかと油断したすきをついて温乃は安治に腕を引っ張られた。

 そのまま安治の肩に担がれる。安治は松明を白狼に向けて放った。


「いやっ、やぁーー!」


 白い身体が赤くなる。


「しゃべるな、うるせぇ」


 喋るな、という呪いが温乃の身体の奥底に刻まれている。温乃の口はそれ以上開くことはできなかった。

 しかし心の中で喋るのは自由だ。


 ――しんじゃう。たすけて、きりや!! 


 心の声よ届け。白狼を助けて。

 

 そう思うが帝都は遠い。今日だって桐也には内緒で出てきた。こんなに暗くなるまで帰らないのでは、優しい桐也だとて怒っているかもしれない。


 だが白狼を助けることができるのは、もう桐也しかいないと思ったのだ。

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