7、供物乙女は助けたい

第22話

桐也と早川は朝餉のあと仕事のために外に出ていくと聞いた。

 温乃は、桐也が仕事に行って、帰ってくるまでの時間で、自分が春来山に行って、うさぎを助けてから加藤邸に戻ってくればいいと、そう呑気に考えていた。


 桐也はずっと一緒だと言ってくれた。紋次郎がついて来てくれるなら加藤邸に迷わず帰れるだろう。


 今の温乃が頼りにできるのは紋次郎ただひとり。

 紋次郎に抱えられるのは少し嫌な気分になるが、我慢しなければうさぎを助けることはできない。


 人力車で東京駅まで行き、そこから汽車に乗る。昼を随分過ぎたところで汽車を降りた。


 ――助けて。 


 はっきりと声が聞こえた。温乃の頭の中に直接訴えかけるような声。


「あっち」


 温乃は声がある方を指さした。そこにうさぎがいる。


「そうですよ。春来山はあちらの方角です。ここから徒歩で三時間らしいですね。ちょっとその辺で手押し車か大八借りてくるんで待っててください」


 駅前の長椅子に下ろされた温乃は紋次郎が戻ってくるのを待つ。その間にもうさぎの声は何度も届いた。


「いくよ。まってて」


 紋次郎が車輪が四つある荷車を曳いて戻ってきた。荷台はそれほど大きくはなく、温乃が二人乗れるくらいの大きさだった。


 小柄な紋次郎は脚力に自身があるらしく、どっしりと腰を落として温乃を乗せた荷車を軽々と曳いた。


 春来山まで徒歩で三時間掛かるところを紋次郎は二時間で行った。それでも山の向こうに日が落ちかけている。じきに薄暗くなり、うさぎを探すことは困難になるだろう。

 それでも温乃にはうさぎがどこにいるか分かるような気がした。絶対に見つかるという妙な自信を持って紋次郎の背中に乗り換えた。


「もんじ、ちがう。あっち」


 温乃は助けを求める声の方を示すが、紋次郎も「いいや」と首を振る。


「これでも地図はちゃ~んと読めるんですよ! 任せてください。村は東側にありますから、こちらで間違いありません」


 紋次郎は背中に温乃を乗せたまま胸を張った。温乃の背中も反るが、「おっとっと」と紋次郎の掛け声とともに元の位置に戻される。


「むら、ちがう。うさぎ、たすけるの。あっち!」


 温乃は必死に懇願する。村に帰るために春来山にきたわけではないのだ。


「たすけて、いってる。こえきこえる、おねがい、もんじ」


 紋次郎の背中を掴む手に力が入る。

 だが、なおも「いや、しかし」と渋る紋次郎に、これでは埒が明かないと思った。温乃は紋次郎の背中を押して、紋次郎の背中から落ちる。そのまま腹ばいになって山の傾斜を這い登る。


「ちょっと!! 待ってください!!」


 慌てた紋次郎に温乃は帯を掴まれてしまった。


「分かりました。分かりましたから、そのような無茶はなさらないでください。はいもう一回背中に乗ってくださいよ」


 背中を見せる紋次郎に身を寄せれば、がっしりと背負われる。


「どっちですか?」

「あっち」

「じゃあ行きますよ」


 紋次郎はひょいひょいと軽い足取りで山を登ってくれた。

 温乃は声のする方向を絶えず指し示す。


 山の中腹は過ぎただろうか。頭上にはうっすらと三日月が見えている。

 木々の陰で暗くなった足元がだんだん見えづらくなっていき、紋次郎は木の根に足を取られることがあった。


 ――ワオーーーーン……。


 どこからともなく聞こえてきた遠吠え。紋次郎の足がぴたりと止まる。


「山犬でしょうか。近いですね。ここまで来ましたが、どうしましょう。山犬に襲われるやもしれませんよ」

「やまいぬ?」


 温乃は首を傾げる。温乃には山犬の声に聞こえなかったのだ。


 ――ワオーーーーン……。

 ――助けて。


 もう一度、声が届く。

 やはり山犬ではない。うさぎだ。うさぎが助けを求めて鳴いている。


「うさぎよ」

「は? いやいや、兎はそのような鳴き方はしませんよ。あれは山犬です。危険ですからここはやはり一旦戻りましょう」

「あたし、いく。おりるよ。ありがと、もんじ」


 ここで下ろしてくれと頼むが、紋次郎はいっこうにおろしてくれようとはしない。


「もんじ、かえっていいよ?」

「出来るわけないでしょう! このような場所におなごを置いていく酷い男には育てられておりません。温乃さんの目的の場所が、鳴いている山犬のところなのでしょう。でしたら最後まできっちりお供いたします」

「いいの?」

「良くは、ないですが仕方ないでしょう。でも怖いですよ。怖いんですからね!」

「だいじょぶ。こわくない」

「はは、なんですかその自信。分かりました、行きましょう」


 温乃を背負う紋次郎の手が震えている。温乃に伝わってきて、紋次郎には申し訳ないことをしていると感じた。


 うさぎは絶えず鳴いている。自分の場所がここだと温乃に示すように。しかし紋次郎はその声が聞こえる度に肩を震わせていた。


「ここ」


 温乃がそういうと紋次郎はすぐに足を止めた。

 すっかり日が落ちてしまい、数歩先は闇に溶けてしまっている。


「もんじ、おりたい」

「分かりました。よいしょ」


 しゃがんだ紋次郎の背中からゆっくりと下りた温乃はうさぎを呼ぶ。


「うさぎ? きたよ。たすける。どこ?」

「ワオ、ワオン……」


 うさぎが答えた。


「そこ、いるの?」


 声は温乃の足の下から聞こえてくるようだった。暗い山の中で前後左右の感覚がおかしくなっているのだろうかと思いながら温乃は四つん這いになって手を前に伸ばす。右手、左手、と前にだしたのだが、しかし左手は地面につかなかった。左手は奈落の底に落ちるかのように勢いよく下に落ちていく。体勢を崩した温乃の身体は見事に真っ逆さまにそこへ落ちた。

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