第21話

「温乃、母上の言葉は気にしなくても良いからね」


 加藤邸の台所の隣にある部屋。大塚醫院から戻るなり桐也はそう言った。

 廊下では女中たちが忙しなく行き交いしている足音がしている。


「みおさま、だれ?」


 温乃の口から『美緒』の名前が出てくるとは思わなかったのか、桐也が狼狽した。


「……、加藤家うちはね、いわゆる成金男爵というやつで爵位を金で買っているんだよ。だから直哉か、私か、後継者に選ばれたほうが子爵である成瀬家のご令嬢、美緒様を娶ることになっているんだ。現在は直哉の婚約者となっているが、父も先方も直哉でも私でも、どちらでもいいと考えている」


「きりや、かつ?」


 桐也は一拍置いて「勝たなければならないんだ」と静かに答えた。


「どうして?」


 勝たなければならない、という強い思いが伝わってくる。今まで踏み込めなかった桐也の考えを聞いてみたいと、温乃は桐也の目を真っすぐに見ながら問うた。


「どうして、か……」


 桐也は丸窓の障子を開ける。薄藍の空が見えた。


「母上は田舎の静かで穏やかな場所で療養したいと望んでおられる。だが父上は目の届く場所に置きたいと帝都から出すことを渋っておられた」


 桐也は窓の外に向かって細く息を吐き出した。


「だが、此度の兄弟勝負で勝った方の望みを聞くとおっしゃられた。勝ったほうは正式に加藤家の後継者となる。負けた方は、下に付くか、または家から出るという選択肢しかなくなる。私の場合、元々が庶子であるゆえ家を出るという選択になるだろう。そうすれば母上の願いを叶える手立てはなくなるのだ。いや、あるとすればそれは父上が亡くなったあとのことになるだろう」


 温乃は桐也の難解な言葉に、半分ほど理解できなかった。だが、聞き返すのも悪いと思い静かに耳を傾ける。


「父上は、私が勝てばそのホテルに自由にできる部屋をひとつ与えても良いとおっしゃった。それは母上にそこで療養するなら許可をするということ。加藤家の手があるホテルでなら田舎に行ってもいいということだ」


 温乃の口が半開きになっているのを見て、桐也は苦笑した。


「難しく言ってしまったな。……要するに、私が直哉に勝って、春来山にホテルを建てれたならば、そのホテルで母上は療養できるということだ」

「はるきやま、くずれた」

「そうだね。他に条件の良い場所が探せていない今、もう一度春来山へ視察に行かなければならないと思っている。でも温乃は連れて行かないよ」

「え?」


 はっきりと『連れて行かない』と言われたことに温乃は衝撃を受けた。桐也が行くなら、温乃も当然行くものだと思っていたのだ。


「村人に見つかればまた祠に戻されることは必至。温乃を贄に戻しはしない」

「きりやのじつのはは、おこったよ? あたし、やまにかえして」


 桐也と一緒に春来山に戻ることができれば、きっとうさぎを助けることができるはずだ。


「ずっと一緒だと、そう言ったのに、……温乃は私から離れるのかい?」


 桐也の瞳があやしく光る。


「きりや」


 違うよ、と言いたいのに、言う前に桐也が距離を詰めてきた。


「私は直哉に勝つよ。でも美緒様は娶らない。後継者にもならない。温乃を生涯守るから、土地神様などの贄に戻るなどと言わないでくれっ」


 泣きそうな声で桐也が切実に訴える。


「きりや、あのね」


 その時、にわかに廊下が騒がしくなった。桐也の名前を叫ぶ怒声が聞こえて、二人の視線が同じところへ向いた。


「直哉の声だな。待っていてくれ」


 桐也は人一人出入りできる幅だけ扉を開けて、廊下に出るとすぐに閉めてしまった。


「兄上、そう大きな声で呼ばずとも聞こえます」


 桐也の声が遠くなっていく。直哉の「お前が」という怒りだけが聞こえて、あとは温乃の耳に届かなくなった。


 一度、しんと静まったあと、扉の外で早川の声がした。


「温乃様、いらっしゃいますか?」

「うん、いる」

「失礼します」


 部屋に一歩だけ入った早川は、人一人通れるだけ扉を開けている。


「きりやのあにうえ、おこった?」

「はい。直哉様がホテルの候補地にしていらっしゃる場所は温泉地なのです。しかもそこは傾きかけた宿屋があり、直哉様は宿屋の主人に宿を閉めろと脅迫まがいのことをされておりました。その情報を得られた桐也様は主人に閉めなくてもよいと申し伝えたのでございます。そのようなわけで、直哉様は妨害されたと憤慨なさっているのです」


 温乃はポカンと口を開いた。


「難しかったでしょうか?」

「うん」

「桐也様は宿屋をひとつ救ったのです」

「きりや、いいことした?」

「はい」


 早川が嬉しそうに微笑む。早川も桐也を慕っていることがよく分かる。


「温乃様」

「ん?」

「桐也様は加藤家の後継者となられるお方です。旦那様も桐也様が継ぐことを望んでおられます。美緒さまを嫁にいただくのは桐也様でなければなりません。桐也様が勝負に勝ちましたら、温乃様にはこのお屋敷から出て行っていただきたいのです」

「きりやと、ずっといっしょ」

「それはできません。しかし、それ以外のことで、この早川に出来る範囲内のことであれば、温乃様の願いは何でもお聞きするとお約束いたしましょう」

「きしゃ、のる。やまにかえる。できる?」

「お安いご用でございます。温乃様は春来山に帰りたいのですか?」


 温乃は首肯する。うさぎを助けるために一度、あの山に戻りたい。


「帰りたいのは桐也様が勝負に勝ったら、でしょうか? それとも一日でも早く?」


 早川が言い終わると同時に温乃は首を縦にぶんぶん振る。それだけで、早川にも温乃が一日でも早く戻りたいということが伝わった。

 うさぎの声が聞こえて今日で何日目になるだろう。一刻も早く助けなければいけないと温乃の気持ちも急いている。


「明日、帰りますか?」

「できる?」

「ええ。しかし桐也様も私も同行できません。紋次郎であれば、付けることもできますが紋次郎でもよろしいでしょうか?」


 紋次郎の相撲を見て安治を思い浮かべたが、しかし紋次郎はタマの息子である。優しいタマの息子が悪い人間ではないと思いたい。

 

 温乃は紋次郎で良いというように、しっかりと頷いた。

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