第20話

温乃は起きている間、食事の時間以外を立つ練習に費やした。

 どうしてもひとりで立ち上がりたかった。立てたよ、と言って桐也を驚かせたい。温乃が立ち上がれたならば喜んでくれるだろうか。喜んでくれたら嬉しいなと思う。


 寝ている間には変わらずうさぎの声が届く。きっと温乃のことを待っているのだ。助けてという叫びが日増しに強くなっていて、胸が痛む。

 

 まずはひとりで立ち上がることが急務。それから一日でも早く歩けるようになってうさぎを助けに行かねばならない。


 だが、どうやって春来山に戻ろう。帝都から春来山に行くには汽車に乗らなければ帰れない。汽車の駅はどこだっただろう。切符というものが必要だったのを覚えている。それはどこで手に入るだろう。


 温乃には分からないことだらけだった。


「温乃。出掛けないかい?」


 桐也が昼を過ぎたころに仕事から戻ってきた。


「いく」


 桐也が連れて行ってくれるところであれば、どこでも行ってみたい。


「では行こうか」


 温乃はいつものように桐也に向かって手を伸ばしたが、すぐにその手を下ろした。


「まって。あたし、たつ」

「そうか、分かったよ」


 桐也は背もたれ椅子の横に立って、温乃が転倒しても助けられるようにと腕を広げている。


 温乃は寝台の下に足を下ろして、足裏で床を感じた。足の指をぐっと曲げられるようになった。

 指を広げた足の裏で床を押す。背もたれを持つ手に力を入れて、膝に重心を移した。お尻は寝台から離れたが、膝下が生まれたての小鹿のようにふるふると震えている。


「おお! 凄いではないか!?」

「あっ、あー」


 右の膝がカクンと曲がったところで、桐也が抱きとめてくれた。


「がんばったよ?」


 温乃は桐也の首に手を回す。桐也も当たり前のように温乃を腕に抱えた。初めて抱き上げた時よりもわずかに重たくなっていると桐也はひそかに感じている。それはきちんと滋養のある食事を腹が満たされるまで存分に摂取しているからだろう。それから足に筋肉が付き始めているのは言うまでもない。順調に人間らしく回復している。


「よく頑張ったね。さあ、そろそろ出発してもよろしいかな?」


 温乃はコクンと頷いた。

 早川の運転する車に乗り、二人は加藤邸を出た。



 着いたのは大塚醫院。


「今日は母上に温乃を紹介しようと思うのだが、良いだろうか? 良くなければ先に大塚先生の所に行こう」

「じつのはは?」

「そうだよ。会ってみるかい?」


 しかし温乃は戸惑った。

 温乃に母はいない。母といえば、若奥様や、加藤邸の奥様が頭に浮かぶ。

 桐也の母に会ったならば殴られるだろうか? はたまた『臭い』と言って鼻を摘ままれるかもしれない。


 憂いが表情に出ていたのだろうか。桐也は温乃の表情の変化を見て「大丈夫だよ」と優しく囁いてくれる。


「あたし、くさい?」

「臭いもんか。温乃は私と同じ石鹸の匂いがするから良い香りだよ。安心して?」


 温乃はためらいがちに頷いた。


「もし温乃が早く帰りたいと思った時には私の袖を引っ張ってくれ。合図だよ」


 桐也の気遣いが嬉しくて温乃は桐也の首にきゅっと抱きつく。


「上の階にあがるからね」


 桐也は階段をあがる。一段上がるたびに木製の階段が軋む。桐也の後ろには早川が風呂敷を持ってついてきていた。


 二階の奥、日当たりの良い部屋にその女性はいた。


「失礼します。母上、桐也です」

「入っていらっしゃいな」


 白い顔の女性は、長い髪をゆるく三つ編みにしていた。細めた目が桐也にそっくりだと感じる。


「あら? どちらのお嬢様?」

「温乃と申します。ホテルの候補地で、土地神様への生贄となっていたところを助けました」


 桐也としては誇らしく、胸を張って言えること。隠す必要もなく、真実を堂々と口に出す。

 しかし女性はそう思わなかったのか、眉を顰めた。


「桐也さん……、そういうことは……」

「母上?」


 言い難そうに顔をしかめる女性に、桐也は首を傾げる。


「ごめんなさいね。わたくしは霧野きりのと申します。一応、桐也の産みの母です」


 霧野は温乃に向かって申し訳なさそうに挨拶をした。


「あたし、はるの、もうします。きりやが、なまえくれた、です」


 温乃も誇らしく霧野に伝えるが、霧野はますます困り顔になってしまった。


「桐也さん、あなた……」


 霧野の顔が蒼白になっていく。


「母上?」

「あなた、神様の物に手を出したという自覚はおありになって?」

「しかし酷い扱いを受けておりまして、見過ごすわけには参りませんでした」

「それでも、それでもあなたは――」


 霧野の唇がわなわなと震える。


「早川さんもどうして桐也さんをお止めしなかったのです?」

「申し訳ございません」

「悪いことは言わないわ。その子は神様にお返しになった方がいいわよ」

「返す? 生贄として一生を牢獄のような祠に閉じ込められ、逃げられないように縄に繋げられ、粗末な食事しか与えられず――」

「それはあなたの価値観だわ。郷に入っては郷に従えと言うでしょう。この子は神様の子よ。神様の物を人間が、しかもよそ者であるあなたが手を出していいわけないのよ!」


 そこまでひと息に言い切った霧野はむせるように大きな咳を出す。


「ゲホゲホのくすり」

「そうだな、薬を」


 桐也の手が震えている。

 早川が薬入れの小さな三段の抽斗の一番上を開けて包みをひとつ出した。コップに水を注いで霧野に飲ませる。


「あ、りがとう、ね。大丈夫よ」


 霧野の背中がぜえぜえと音を鳴らしている。とても苦しそうだが、霧野は心配かけまいと微笑みを見せた。苦しくても苦しい顔を見せない強い女性の顔はとても美しかった。


 ふう、と何度か息を吐き出して乱れた呼吸が落ち着くと、霧野は桐也をぐっと見上げる。


「直哉様と勝負して、それに勝つことが桐也さんの目標なのでしょう?」

「はい」


 桐也も霧野の視線を真っ直ぐに受け止める。

 勝負とは何のことだろうかと温乃は首をひねった。


「勝つのでしょう?」

「はい、勝ちます」

「勝ったらあなたは加藤家の後継として美緒みお様を嫁にもらうのでしょう?」

「そうなりますね」


 温乃は美緒とは誰だろうかと桐也を見るが、桐也の視線は霧野に向いたまま。仕方なく早川を見ても、その早川も温乃には視線を合わせてくれない。


「ではその時この子はどうするのです? 妾にでもしますか? それとも早川に押し付けるのですか?」

「妾? いえ、そのような考えは、……ありません」


 桐也ははっきりと断言できなかった。

 

「悪いことは言いません。この子を神様にお返しなさい」

「…………」


 桐也は否と言わなかった。

 温乃の心がずんと重くなる。


 でも、それでいいのかもしれない。


「きりや」


 桐也の視線が霧野から外れる。


「あたし、はるきやま行く」

「…………」


 桐也は驚いた表情を見せるものの、行くとも、行かないとも言わなかった。その代わりどうしてか泣きそうな顔をしていた。



 その後、何もなかったかのように別の話を二、三交わして霧野の病室を出た。

 桐也は一階に行くまで閉じていた口を院長室の前に来て開いた。


「大塚先生、失礼します」


 扉の向こうから「どうぞ」と返ってくる。


「こんにちは」

「こんにちは、桐也くんに、温乃さん」


 温乃は桐也の腕の中から挨拶を返した。


「足の調子はどうかな? 顔色は随分良くなったみたいだね」

「打ち身の薬が少なくなってきたので、また頂ければと思います」

「そうか。今日も足を見せてくれるかな?」


 温乃が頷くと診察台に下ろされた。裸足の足に大塚の手が触れる。痣になっていた縄の痕はよく見なければ分からないほど薄くなっていた。


 足首をくるくると回されて、曲げてから伸ばされる。右と左に同じことをして、右のくるぶしの前辺りをぐっと押された。


「足首を折られたのだよね? 多分その後に変形してくっついてしまっているかもしれないねぇ。歩くことはできると思うけど、長時間足を使うと痛みが出るかもしれないよ。気をつけてくださいね」

「うん」

「では薬を用意しようね」

「おしごと?」

「作りたいのかな?」


 温乃はそうだと主張するように首を縦にブンブン振った。


「今日の分はすでに用意があるからねぇ。そうだ、家で温乃さんが作るかい?」


 温乃は加藤邸で作ってもいいのかと、桐也を見上げる。桐也は少しだけ目を細めて頷いた。


「ひとり分なら薬研でなく、すり鉢でもいいかな」


 大塚はそう決めて、棚から白い乳鉢と乳棒を用意して薬草とともに、唐草模様の風呂敷に包んでくれる。


「ありがと」

「それは返さなくても良いからね。好きなように使いなさいね」

「頂いてもいいのでしょうか?」

「ああ。実は使用してなかったものなんだよ。処分しようかと考えていたから貰ってくれるとありがたい」

「そういうことであれば。ありがとうございます」


 深く頭を下げる桐也に倣って、温乃も頭を下げる。顔を上げると大塚がにこやかに笑っていた。


「きっともうすぐ歩けるようになるから頑張りなさいね」

「うん。あたし、がんばる」

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