6、供物乙女は立ちたい

第19話

――助けて。



 声がはっきりと聞こえる。

 それは懐かしい、うさぎの声だった。


(うさぎ、どこ?)


 温乃は右も左も後ろも確認するが、何も見えない。闇ばかりが永遠に広がっているように見える。


 ――助けてっ!


 悲痛な叫び声が耳に届く。


(どこいるの!?)


 耳を塞ぎたくなるような叫び声に、温乃は胸の奥が痛かった。


 ――来て。


(どこに?)


 ――山にいるから……。





「うさぎ」


 目を開けると闇だった。否、よく目を凝らせば月光がほんのりと銀を差している。


「やま、……はるきやま」


 ドクドクと、鳴り止まない心音を止めるように温乃は胸の真ん中を両手で強く押さえる。


「んん……温乃?」


 隣で寝ていた桐也が目をこすり、欠伸をもらした。


「まだ起きる時間ではないだろう?」

「あのね……」

「怖い夢でも見た?」


 桐也は上体を起こしながらランプのつまみをはじく。ほわっとした明かりが灯り、温乃は詰めていた息を深く吐き出した。


「温乃?」


 桐也の大きな手が温乃の背中を撫でる。


「…………」


 うさぎが助けを求めているなどと言って信じてくれるだろうか。

 いや桐也なら信じてくれるだろう。だがそんな優しい桐也に春来山へ連れて行って欲しいとは言えない。


 結局、何も言えない温乃は口を閉ざすしかなかった。


 起きるにはまだ早いと、桐也が幼子を寝かし付けるように温乃のお腹をポンポンと鼓動と同じ早さでたたく。


 まどろむ度に温乃の頭にうさぎの声が届く。


 ――助けて。


(ごめんなさい)


 温乃ひとりだけでも、そこへ行くことができたならば、うさぎを助けることができるだろうか。

 それにはやはり、ひとりで歩けるようにならなければならない。


 時間があれば甲斐甲斐しく桐也が足首やふくらはぎに刺激を与えてくれるので、くすぐったさを覚えるたびに足首がぴくりと動くようになっていた。

 足指も手指のように曲げたり伸ばしたり開いたりできるのだと知った。


 動かないと思っていた温乃の足は、動かすことができる。

 歩けないと思っていた温乃の足は、努力次第で歩くことができるようになるそうだ。


 頑張らなければと思った温乃は唇をぎゅっと閉じた。


 


 翌朝から温乃は自分でも、己の足に刺激を与えることにした。足裏を拳で押してみたり、足首をくるくると回してみたり、ふくらはぎを揉んでみたりと、日頃桐也がしてくれることを行う。


 もしかして立つくらいは簡単に出来るのではないかと、そう思った温乃は寝台の下に足を下ろした。

 お尻の横についた手をぐっと押してお尻を上げるが、温乃は前傾したまま床に倒れ込んだ。


「いた……」


 膝が痛い。ごめんね、と膝を撫でて温乃は手を使って向きを変える。

 寝台へ向かうと手を置いてぐっと肘を伸ばした。温乃には腕の力がある。それは祠の中で手を使って這っていたおかげだろう。


 浮き上がった腰に力を入れ、膝立ちになる。寝台に手をついたまま右足をゆっくり動かしてみた。しかし力の入れ方が分からず四苦八苦する。結局、右の膝が少し前に動いただけで止まった。


「がんばる」


 だが温乃は諦めなかった。

 ぐっと唇を噛んで両手に全身の体重を掛ける。左右の膝が奇妙な動きをしてしまい、立ち上がることは不可能だった。


 それでも諦めず、腕の力が限界に達するまで何度も挑戦する。


「温乃? 何をしている?」


 突然の声に温乃の背中が反った。腕の力が抜けて床にお尻が沈む。


「温乃!?」


 脇腹を支える温かな手。


「きりや」

「ああ」

「おかえりなさいませ?」


 帰宅の時間だっただろうかと、疑問に思いながら振り返ると、桐也が微笑みを向けてくれた。


「ただいま帰りました。……それで、これは一体何をしていたのだ?」

「立つ、れんしゅう」


 桐也はぱちくりと目を瞬く。


「一人でか? 誰か呼べば良いものを……」

「できると、おもった」

「そうか。頑張ったのだな」

「うん」


 桐也は、ふむ、と思案すると、眉を上げた。


「温乃は立ちたいのだな。私が脇を支えよう」


 温乃の脇に後ろから桐也の手が差し込まれる。かと思えばそのまま膝立ちになるくらいまで引き上げられた。


「はえっ?」


 驚く温乃を落ち着かせるように桐也は温乃の耳元で「大丈夫だよ」と囁く。


「右の足から上げよう」


 そう言うと桐也は自身の膝を使って、温乃の後ろから温乃の腿を持ち上げる。温乃の膝がお腹の前まで上がると、次に足の裏が床にぺたりと着いた。


「おお」

「温乃、右足はそのまま置いていてね。次は左足を動かすよ」


 桐也は先ほどと同様のことを反対の膝で行う。

 温乃の両足が床に着いたが、膝は曲がったままである。


「次は膝を伸ばすよ。膝に力が入るかい?」


 温乃の身体は桐也の手によって引き上げられている。膝に力を入れれば、容易く伸ばすことができた。


「上手だよ、温乃。そのまま今度はお腹に力を入れてみよう。そして頭が上に引っ張られるような気持ちで背中を真っすぐに伸ばそう」


 ひとつずつ、ゆっくりと説明する桐也の言葉に合わせて温乃は、膝からお腹、頭、背中と意識を切り替える。


「膝が曲がり始めているよ。頑張って!」


 桐也の応援に応えるように指示に従う。

 だがしばらくもしないうちに膝下がふるふると震え始めた。


「よく頑張ったね。ここまでにしようか。いきなり無理をするものでもないからね」


 温乃は桐也に抱え上げられ、そのまま寝台に下ろされる。


「床から立ち上がることは難しいかもしれないなぁ。それよりも寝台や、椅子から立ち上がる練習をしたほうがいいのかもしれない……」


 桐也は独り言のようにぶつぶつと思考を声に出すと、考えがまとまったのか「そうだな!」とひとりで納得する。


「少し待っていなさい」


 桐也は楽しそうな表情で部屋を出ていくと、時間も掛からず戻ってきた。

 手には背もたれ付きの椅子がある。


 背もたれがある方を温乃に向けて、椅子を温乃の前に置いた。


「次はこれを使って練習だな!」


 桐也がにこりと笑った。

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