第18話
水色の空が赤へと染まり始める前に桐也は帰ってきた。
若干肩が落ちて見えるのは気のせいではないように温乃には見える。
どうしたのだろうか、という温乃の気持ちを、鏡のように桐也の表情に映した。
「どうした温乃?」
「きりや、おかえりなさいませ」
「ただいま」
ほっとした顔を向けられた温乃は両手を上げる。すると桐也も何も言わずに温乃を抱き上げた。
「良い子にしてたかい? そうだ、プリンは美味しくできたのかな?」
「プいン、……ぷ、プリン。おきゃくさまに、あげたの」
「客?」
「おくさまの、おかく……おきゃくさま」
「
温乃は頷く。
「でもね、つくるの、たのしかったよ」
「そうか。またタマたちにお願いして作らせてもらおう」
「またつくる」
桐也は温乃を腕に抱えたまま寝台に腰を下ろして、膝の上に温乃を座らせた。
右手でネクタイをゆるめると、シャツの一番上のボタンを外す。
「はあ」
桐也の溜め息が重い。疲れを吐き出した息だけではなく、何か違う原因があるように温乃には感じた。
「きりや、いつもとちがう」
「違う?」
「うん。かなしいこと、ありました」
温乃の言葉を聞いた桐也の瞳が揺らぐ。
「……すごいな。温乃は」
観念したような声を出して、桐也は前髪を後ろに撫でつけた。
「今、……私はね」
桐也の瞳が細くなり、優しい眼差しが温乃へ向かう。
「空気が美味しくて、穏やかに過ごせる土地を探しているんだよ」
温乃は控えめに頷いた。桐也の言葉をちゃんと聞いているよ、とでもいうように相槌をうつ。
「でも帝都の周りではなかなか見つからない。そこで私は海と山とが一望できる場所を帝都から離れた所に探した」
「だから? きりや、きた」
温乃は桐也が春来山に来た理由がそれなのだと理解した。
春来山を下山した時に海が見えた。山神様の供物として祠に入れられる前にも、山から海が見える場所があった。
春来山は海と山を結ぶ。
「そこにホテルを建てたいと考えている」
「ほて?」
「旅館――お宿のことだよ。分かるかい?」
旅人が泊まる所だという認識で良いだろうかと思いながら、温乃は頷いた。
「私は、母上に静かな場所で養生してもらいたいのだよ」
「ははうえ? おくさま?」
「いや、ここにいる奥様ではなく、私を産んだ実の母だ」
「じつのはは? おおつかせんせいのところ?」
桐也は少しばかり驚いたようで目を開いた。
「そうだよ。よく話しを聞いていたんだね」
「じつのはは、げんきない?」
「今度連れて行ってあげよう。母上に紹介させてくれるかい?」
「あうよ。きりやの、じつのはは」
大塚先生と一緒に薬を調合して、桐也の実の母に早く元気になる薬を飲ませてあげたいと温乃は思った。
「じつのはは、ゲホゲホ?」
「ああ。咳も出るが、食が細くてね……。春来山の美味しい食べ物を知っているかい?」
「あずきがゆ、木のみ。でも、あたしは、テイトのプリンがいっとうおいしいよ」
桐也が破顔する。
「そうか。温乃はプリンが気に入ったのだな」
温乃は大きく頷いた。
「はるきやまに、ホテ、つくる?」
「ん、……しかし山が崩れただろう」
温乃は桐也の膝から下ろされ、寝台に座る。お尻に敷布のさらりとした冷たさを感じていると、桐也が温乃の足を持ち上げた。
「別の候補地を探しているのだが、なかなか春来山ほどの場所がない」
桐也は大塚が処方した薬を温乃の足首を中心に塗り込み始める。
すっとした爽快感のあとに、じんわりと温かくなっていく。それは薬のせいではなく、桐也の手が温かいからなのかもしれない。
温乃は桐也の手が好きだ。
「それに春来山にはもう行かない方が良いだろうしな」
それは山神様の供物である温乃が勝手に祠を出てしまったせいだろう。
安治や村人たちは血眼になって供物を探しているかもしれない。
もしも桐也が再度春来山に行くことがあるとして、安治らに見つかればきっとただでは済まないはずだ。
「きりや、いかない」
温乃の顔を見た桐也の眉が寄る。
「そんな顔をするな、春来山には行かないから」
桐也が薬の付いてない方の指で、温乃のまなじりを払う。
「大丈夫だよ」
桐也の安心させる声が、温乃を落ち着かせてくれた。
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