第17話
「ぷりん、ぷりん、ぷりん」
『り』を習得した温乃は意気揚々とした気分を人生で初めて味わっていた。
昼餉の後、調理台の前の椅子に座らせてもらった温乃はタマとシヅに挟まれている。
右手に菜箸を六本纏めて持った温乃は『卵を切るように混ぜる』という工程をシヅとともに行っている。
「食べエる?」
「まだよ。これはまだ美味しいプリンにはなってないの。ただの溶き卵ね」
「さあ、これに砂糖を混ぜるわよ」
タマが横から白砂糖を入れる。
「しっかり混ぜるのよ」
言われた通りに温乃は混ぜる。腕が痛くなるころには卵液が少しだけ白っぽく見えた。
温乃から離れたタマが別の工程を行っている。
「タマさんは、水と砂糖を火にかけて、カラメルを作っているの」
「カあメ、……カラメル知ってる。にがいの」
「あまり焦がし過ぎないほうが良さそうね」
温乃は薬作りではない作業が初めてだったが、薬作りとは違い、作業が楽しいと感じた。
温めた牛乳と卵液を混ぜ、それからザルで濾す。なめらかになった液を、カラメルを先に入れた器に流し入れた。
「これを
シヅは休憩と言うが、シヅとタマは使い終わった道具を洗い始め、休憩していない。
「あたしもあらう」
「良いのよ、休んでちょうだい?」
本当にいいのだろうかと不安になる。温乃のためにタマもシヅも仕事の手を止めてプリン作りに励んでくれたのだ。
何か手伝わなければ、誰かに怒られるような、そんな不安にかられた。
「それなら洗った道具を布巾で拭いてくれる?」
不安そうな顔をする温乃を見てシヅが提案した。
温乃は「ふく!」と喜んで布巾に手を伸ばす。
手伝いをする温乃を見てタマもシヅも微笑んでいた。
洗い物が終わり、タマとシヅが「よっこらしょ」と言いながら椅子に腰を下ろす。
「よっこっしょ?」
温乃が何の言葉か分からず真似てみると、二人に笑われてしまった。
「座ったり、立ち上がったりする時の掛け声ね」
「ついつい言ってしまうのよね。温乃さんは若いんだから真似しなくていいのよ」
タマとシヅが、ふふふと恥ずかしそうに笑った。
その二人の視線が廊下を向く。温乃の耳にも足音が近付いてくるのが分かった。
「誰か、誰かいないの」
廊下を飛ぶ声にシヅがひっそりとした声で「奥様だわ」とタマに言う。タマは頷いて温乃を隠すように立ち上がった。
シヅが応えるように台所を出ようとするが、奥様が先に台所へ顔を出す。
「居たのなら返事くらいしなさいよ」
「申し訳ございません」
「今からお客様がいらっしゃるからお茶を、……あら? なんだか甘い匂いがするわね?
何を蒸しているの?」
奥様の目が湯気を出す蒸籠に向いた。
「あ、その……、プリンでございます」
「まあ丁度良いわ。お茶は紅茶にして、そのプリンも一緒に用意しておきなさい」
「しかし」
「何よ?」
奥様の視線がじろりと舐めまわすように台所を這う。その視線がタマのわずかに横――正確にはタマの後ろに隠れる温乃に止まった。
「もしかしてそれが直哉さんが言っていたゴミなのかしら? まだ処分していなかったの?」
奥様が鼻を摘まむ。
「ああ~なんだか臭いわ。とても酷いにおい。早く捨ててきてちょうだい」
くさい、くさい、と顔の前の空気を払いながら奥様は早々に戻っていった。
「ごめんなさいね、温乃さん。嫌な気持ちにさせたでしょう」
温乃は首を横に振る。
「いたくないから、へいき」
「でも……」
言いよどむシヅに代わってタマが口を開いた。
「叩かれたり蹴られたりしていなくてもね、身体に痛みはないかもしれないけど、でも心は、胸の中はとても痛くなるのよ。温乃さんが嫌な気持ちになったり、苦しくなったりしたら、それはもう『平気』とは言えないわ。私たちにも、桐也様にも『痛い』という気持ちを隠さなくていいのよ。痛いと思ったときには痛いと言って、泣きたいときには泣いていいの」
ね、とタマは温乃の両手を握る。しわの刻まれた手は少しだけひんやりしていた。
「タマ、さむい?」
「温乃さんの手が温かくて、とても良い気持ちですよ」
タマは、ふふと笑顔を温乃に向けた。
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